白い容疑者
蛍光灯の唸る音だけが、部屋に満ちていた。
「てめぇ、おちょくってんのか!」
怒号と共に叩かれた机が大きく音を立てた。
閻魔大王とはこんな顔をしているのだろう。その男の放つ覇気に、黒川は場違いなほど冷静にそう思った。
「田沼さん、少し落ち着いてください」
近付いた気弱そうな男が、閻魔大王を宥める。
けれどもそれは形ばかりで、二人の間には、繰り返されたやり取り特有の空気が漂っていた。
パイプ椅子に腰を掛けている黒川は、無意識に眼鏡を押し上げようとして、ハッとした。
そうだ、今は眼鏡をしていなかった。
「もういっぺん聞くぞ。…名前は?」
「黒川と申します」
「下の名前は?」
「生憎、頂いたのは苗字だけで。本来の名前も、とうの昔に忘れてしまいました」
先程と変わらぬ応答に田沼はまた拳を机に叩き付けた。部屋の隅で書き物をしている気弱そうな男も、呆れたように息を吐く。
田沼の憤りも理解できるが、こればかりは黒川自身にもどうしようもなかった。
─さて、どうしたものか。
黒川が腕を組むと、黒いパーカーにこびり付いた血が肌に触れて不快な感触を残す。黒川は狭い取調室の天井を仰ぎ見た。
─────
それは昨日のことだった。
町の隅にある公民館に、商店街の面々が集まっていた。普段なら絶えない雑談も、今は囁く声ばかりが聞こえてくる。
座敷にはずらりと座布団が並んでいて、黒川もすでにそこに座っていた。
「こんにちは、黒川さん。まったく、物騒な世の中になってしまいましたね」
隣に腰を下ろした眼鏡屋の店主が声を掛けてきた。
黒川が眼鏡を買う時、それは決まって彼の店から購入している。店主は歳を増す毎に、先々代の店主に良く似た風貌になっていく。懐かしい面影に、安堵と少しの緊張を覚えた。
「そうですね、そろそろ祭の準備で忙しくなる頃だと言うのに。会長さんも気苦労が絶えませんね」
噂話をしていれば何とやら。全員が集まったのを確認できたのか、部屋に入ってきた会長がみんなの前に立つ。その面持ちは少々強ばっていた。
「お忙しいところお集まり頂き、ありがとうございます。早速ではありますが、今、町で起こっている通り魔について、みなさんとお話したいと思っております」
会長の言葉に、座敷のあちこちでどよめきが広がった。
今、小さな町は通り魔に怯えていた。
初めは衣服やカバンが切られる程度の些細な事件だった。それだけでも十分に恐怖を煽るには足りていたが、ついに先日、買い物帰りの主婦が直接襲われた。
夕方、比較的人の多い時間帯での犯行に、町は不安に包まれた。
「子供たちの為にも我々商店街の大人が、見守りパトロールを実施する必要があると、私は考えております。どうか、みなさんのご協力をお願いできないでしょうか」
会長の提案に、一同から低い唸り声のような反応が漏れた。
商店街の人間は高齢の者が多い。いざ通り魔と対峙しなくてならないと言う不安が、沈黙となって現れる。
膠着する空気の中、黒川は静かに手を挙げた。
「お仕事の方や足腰に不安の方も多いでしょうから、有志で集まって活動するのはいかがでしょうか。ぜひ、お手伝いさせてください」
「えぇ、そうですね。ぜひ、お願いできる方にお願いしたいです!」
助け舟を出された会長は、ほっとした顔で言葉を繰り返す。
どうやら他に意見する者もいないらしい。黒川の提案に頷いた者たちだけが、その場に残った。
人の減った広い座敷で、改めて会議が始まる。こんなことならお茶とお菓子を持参すれば良かったと、黒川は少し後悔した。
「本当にご協力ありがとうございます」
「そんな、会長さんが頭を下げることはありませんよ。みなさん、地域を思う気持ちは一緒ですから」
畳に擦り付けるほど頭を下げる会長の背中に、黒川は手を添える。
「それで会長さん、どのように見回りをしましょうか?」
「はい、子供たちの帰宅時間を中心に、二人組で見回りを実施したいと思ってます」
会長の提案に眼鏡屋の店主が首を傾げた。
「二人組って、ひいふうみぃ…。一人あぶれちまうね」
集まった奇数人では、誰かが一人で見回ることになる。みな互いに顔を見合わせた。
「では他の方々で二人組を作ってください」
「え?黒川さんが一人で回るつもりなんですか?」
黒川の発言に会長が声を上げた。きっと会長は、自分一人で回るつもりだったのだろう。
想像通りの反応に、黒川は小さく笑った。
「おや、心配してくれているんですか。ふふ、タカアキくんは本当に優しいですね」
久しぶりに名前を呼ばれた会長は、恥ずかしそうに頭を掻いた。その日は和やかな空気のまま解散となった。
***
翌日、日が傾くにはまだ早い時間だった。黒川は見回りの準備を始めるため、立ち上がろうとした瞬間、店先の鈴が来客を知らせる。入口には調理白衣の会長が立っていた。
「おや、ちょうど今から見回りに行くつもりでしたが、何かご用ですか?」
「いえ、用というほどでは。これをお渡ししたくて…」
会長はポケットから取り出した物を黒川に渡す。それはきつねを模したキーホルダーだった。所々の塗装が剥がれていて、年季を感じる。
「昔子供が使っていた防犯ブザーです。こんなものくらいしかなくて、申し訳ないのですが」
しっぽを引くと警報が鳴る仕組みらしい。
「ありがとうございます。とても心強い相棒ができましたね」
小さな贈り物に、黒川の顔もわずかに緩んだ。きつねの防犯ブザーを手のひらに収め、黒川は店を後にした。
道中、学校側の通り魔対策なのだろう、ランドセルを背負った子供と保護者が歩いている。時々見知った顔が黒川に挨拶してくれた。
ここは人目が多そうだ。道を外れて住宅道路に進めば、途端に人影はなくなった。
眼鏡屋の店主は物騒だと言っていたが、黒川からしてみれば、今は治安が良くなったと感じていた。歩いてタバコを吸う者は姿を消し、夜騒ぎ立てる不良たちも全く見なくなった。
「良くなったと言うより、人が少なくなったんですね」
言葉がぽつりと零れた。
思い返せば、商店街を走り回り、漫画を読みに来る子供は今はほとんどいない。シャッターが降りる店ばかりの通りは賑やかさを忘れてしまった。
その内、あの場所もなくなるかもしれない。
「…また、浮浪者の真似事はしたくないですね」
脳裏に浮かんだ映像をかき消すよう、首を振る。夕暮れは近い。黒川は見回りのため、今は記憶に蓋をした。
しばらく歩いていると前から一人、こちらに歩いてくるのが見える。黒いフードを深く被り、その姿からは、性別すら判然としなかった。
「こんにちは」
黒川が挨拶をするも歩行者の反応はない。腹部のポケットに両手を仕舞いながら、こちらを見ることなく通り過ぎていく。
黒川もさして気にすることなく歩き続ける。その背後で歩行者は立ち止まり、踵を返すことにも黒川は気付かなかった。
背後で、小石が地面を擦れる音がした。黒川が振り返ろうとしたその時、歩行者はすぐ後ろにいた。
「…っあ」
黒川が声を上げる間もなく、背中に冷たい衝撃が走った。
足に力が入らない。刃物が抜かれた反動で、地面に倒れ込み、持っていた防犯ブザーが目の前に転がる。震える手でしっぽを引き抜けば、それはけたたましく音を立てた。
ここは住宅に囲まれている、音を聞けば誰か出てきてくれるに違いない。恐らく通り魔もすぐこの場を離れるはずだ。
しかし黒川の期待に反して、通り魔は刃物を握り返し、再びその刃を黒川の背中に突き立てた。
何度も、何度も、何度も。
黒川の意識はもうなかった。
騒ぎを聞いた住人が通報したのか、遠くから警官らしき人物が近付いてくる気配がする。
ようやく黒川から離れた通り魔が立ち上がった時、突然電流が走ったように痙攣し始める。
通り魔はそのまま動かず、その場に蹲ってしまった。
「大丈夫ですか!?」
ほどなくして、駆け付けた警官が蹲る黒い姿に声を掛けた。しかし反応はなく、両手で顔を隠したままだ。その傍らに転がる身体には、顔がなかった。それに気付いた瞬間、警官の視線は、蹲るフードの人物へと引き寄せられる。
警官の気配に観念したのか、フードの人物がゆっくり両手を顔から離していく。
「署までご同行、お願いします」
そこには死んだはずの黒川の顔があった。警官の宣言に異議を唱えることなく、フードを被った黒川は静かに頷いた。
─────
薄汚れた蛍光灯を見つめながら、黒川は数時間前のことを思い返していた。
今、黒川は『自分を殺害した罪』と言う不可解な罪に問われている。
そんなこと田沼たちに説明したところで、理解してもらえるとはとても思えない。
「このまま、はぐらかしてても出られんぞ」
腹の底を震え上がらせ、自白を迫る低音にも黒川は涼しい顔のままだ。それは黒川にとって諦めでしかないのだが、田沼にはスカしている風にしか映らず、自分の血管が静かに、しかし確実に熱を帯びていく気がした。
その傍で田沼の部下らしき気弱そうな男が、時折こちらを横目に不審な挙動を繰り返ながら、電話でひそひそと話をしていた。
「あの、田沼さん…。お電話ですぅ」
「今忙しい!後にしろ!」
「で、でも、今野さんからなんですよ」
どうやら電話の人物の目的は田沼らしい。
田沼は名前を耳にした途端、ぎくりと動きが止まった。声にならない呻きを漏らし、ぎこちなく田沼は差し出されたスマホを奪い取った。
「…少し待ってろ」
そのまま荒々しく扉を閉めて田沼が出ていくと、取調室には静けさが戻る。
あの閻魔大王を狼狽させるなんて、一体どんな人間なのだろうか。黒川は少しだけ興味が湧いた。
廊下に出た田沼は保留音が鳴り止まないスマホを睨んでいた。あわよくば諦めてくれはしないかと願ったが、向こうは聞いてくれないらしい。
深くため息をついた後、渋々スマホを耳に当てた。
「…もしもし」
「遅いじゃないか田沼くん!待ちくたびれてしまったよ」
甲高い声が頭に響く。思わず田沼はスマホを耳から遠ざけた。
「すみません、取調べの最中だったもので」
極めて穏やかに努めて声を絞り出す。そんな田沼の苦労を知ってか知らずか、今野の声色は軽やかだ。
「おやおや、相変わらず熱心だねぇ。ちょうどその件について話したかったんだよ」
「…なんでしょうか」
嫌な予感がする。田沼は今すぐ電話を切ってしまいたい衝動に駆られた。
しかし、相手はあの女上司だ。頭の片隅に、電話の向こうで気に食わないあの垂れ目が笑っている気がした。
「今取調べしている男は犯人じゃない。即刻、解放したまえ」
「ふざけないでください!」
田沼は有り余るほどの声量を電話口にぶつけた。それでも今野は気にも止めない様子で「まあまあ」と続ける。
「被害者がどうなっていたか、改めて説明してくれるかい?」
まるで子供を諭すような口ぶりに田沼は苛立ちを隠せない。今はこれが電話で良かったと心から思った。
「被害者は背後を複数回、刃物で刺され出血多量で死亡しています。容疑者はその場に留まっており、現場の警官が確保いたしました。凶器の刃物も回収済です」
「なるほど、それで被害者の遺体はどんな風だったかい?」
田沼は遺体の写真を思い出し、背筋が震えた。
ただの死体であれば最早見慣れたものだ。しかし、のっぺらぼうのように顔のない死体を見るのは初めてだった。
「以前、不自然に道路で転がっていた、顔がのっぺり消えて身元も分からない遺体と、同じではなかったかい?」
今野の言葉に記憶が蘇る。それは数ヶ月前、恐らく自動車事故であろう現場があった。しかしそこには顔のない死体と、忽然と消えた車の跡だけが残された不気味な事件だった。
あの時の死体と今回の死体、まるで同じのように見える。
「ならば尚更、あの男を調べる必要があるんじゃないですか?」
「その必要はないよ」
きっぱりと言い捨てる今野に不信感が募る。
言葉を返さない田沼を咎めることなく、今野は話を続ける。
「私はあの男を良く知っている」
秘め事のように囁く声に寒気がした。不気味なのは事件だけではない、この女も同じだ。
「とにかく、今すぐ彼を解放しなさい。これは、命令ですぞ」
茶化したつもりなのだろうが、そこが余計に腹立たしい。命令と言われれば、部下である田沼に断る術はない。了承の旨を伝えて田沼は電話を切った。
「…っくそ!」
スマホを投げつけてやりたかったが、部下の男の物だったことを思い出した。壁を蹴る音だけが、虚しく廊下に響いた。
田沼が取調室に戻ると、そこには出て行った時と変わらず、黒川が静かに座っていた。眠っていたのだろうか、田沼に気付いた黒川はゆっくり目を開く。
「何か大きな物音がしましたが、大丈夫でしたか?」
何故この男は、こんなにも余裕なのか。もしかすると事前に今野から、ここからすぐに出られることを聞いているのだろうか。
思えばコイツのスカした態度も、どこか今野に似ている気がした。
「お前に関係ない。それより、お咎めなしだそうだ。さっさと帰れ」
邪魔だと田沼は手で払う。先程とは違う態度に部下と黒川は目を丸くした。
「おや、もうよろしいのですか?」
「なんだ?お前が犯人だって言うのか?」
田沼は今でも黒川を怪しんでいる。
むしろあの状況で捕まった容疑者の、どこに潔白な理由などあるのか。田沼には今野の意図がまるで読めなかった。
「…まあいい、俺はお前を見てるからな」
通り魔だけではない。この男はもしかすると顔のない死体に関係あるのかもしれない。
田沼は釘を刺すつもりで放った言葉だったが、黒川は相変わらず涼しい顔だった。
「ええ、ぜひ今度お店に来てください。古本屋なので大したおもてなしはできないかもしれませんが、美味しいお茶とお菓子を用意しておきますよ」
「さっさと帰れ!」
最後の最後までふざけた態度に田沼も流石に怒鳴り疲れた。黒川が退室した後、田沼はパイプ椅子が軋む勢いで腰を落とした。
黒川が外に出ると、もう日は暮れていた。
着の身着のまま、血染めのパーカーの姿で良かったのだろうか。しかし今戻っても、またあの刑事を怒らせだけかもしれない。黒川は警察署を眺めながら考え込んだ。
「何故、出られたんでしょうね」
あの状況下で黒川が犯人ではないと言うのは、自分でも無理があるとは感じていた。恐らく田沼のあの電話が、黒川を解放した理由なのだろう。しかし警察に、黒川の知り合いがいた覚えはない。
「また面倒になっても困るので、さっさと帰りましょう」
分からないことを考えても仕方がない。警察署を後にした黒川は、暗い道に溶け込んでいった。
***
「通り魔捕まったようで一安心ですね!黒川さんも無事で良かった」
翌朝、にこやかな会長が古本屋に飛び込んだ。
どうやら噂では黒川が被害者で、通り魔も逮捕されたことになっているらしい。
「ええ、おかげさまで。…ですが、あの防犯ブザーを壊してしまいました。すみません」
「いやいや、いいんですよ。むしろ役に立って本当に良かった」
通り魔に防犯ブザーを踏み潰されてしまったようで、あの後、残骸だけが黒川の手元に戻ってきた。
あんなに執拗に刺されることになるなら、鳴らさなければ良かったと後悔したのは、会長にはとても言えない。彼からすれば、立てた対策が次々とすぐに効果をもたらした今を、誇らしく思っていることだろう。
「そうですね。今回はあのきつねに助けていただきました」
黒川は一拍置いて、口角だけを持ち上げた。




