黒い月
古本屋のカウンターの上にはすり鉢状の器が置かれていた。覗き込めば、水の中をひらひらと漂う赤い鰭が愛らしい。
黒川のお気に入りの金魚である。立ち寄ったホームセンターで、ふと目に付いたのが出会いだった。
黒川は生き物が好きだ。しかし、その思いは一方通行である。近寄れば犬は吠え、猫は威嚇し、家にはネズミ一匹すら寄り付かない。
魚はどうだろうか。こうして黒川が眺めていても、金魚は何処吹く風であった。
腹を空かした時だけ水面に顔を出し、ご飯をせがむことくらいしかこちらには用がないらしい。その素っ気なく、あるがままの姿が黒川の心を掴んで離さなかった。
「もうご飯の時間ですか?仕方ないですね」
ちょうど御用の時間らしい。引き出しから餌箱を手に取るが、思ったより軽い。そう言えば、昨夜で中身が空になっていたことを失念していた。
「すみません、すぐ戻るので待っていてください」
声を掛けるも、金魚が理解するはずもない。
黒川が去った後も金魚は、ぱくぱくと口を動かし続けていた。
この地域の住人は主に車を使って移動する。
住民の健康や環境の為と、役場は歩道の整備など色々やっているようだが、今のところ、黒川の知る限り効果は見られない。
広い歩道のぽつりと設置されたベンチもその一つだ。そこに、男が一人座っているのが見える。
項垂れるような姿勢で顔は見えないが、風貌は若そうだ。前を通りかかった時、黒川はふと気になり立ち止まる。
「もしもし、大丈夫ですか?」
体調を気遣う言葉を掛け、人物を確かめる。
ゆっくりこちらを見上げる顔に、やはり見覚えがあった。
「…てんちょー?」
始めは訝しんでいた彼も、こちらに気付き声を上げる。
「やはりコウキくんだったんですね。お久しぶりです」
直感は正しかったようだ。
彼と最後に会った時はまだ学生だった。地域の悪童として有名で、黒川の店も一度、硝子を割られたことがあった。
当時金色だった髪も、今は大人しい黒になっていて、まるで別人のようだ。人の成長は早いものだと感心してしまう。
「こんなところで何をされているんですか?」
落ち着いた雰囲気になったとは言え、散歩の休憩などらしくないように思えた。
悩み事なのだろうか。彼の視線は泳ぎ、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「少し、話いいっすか?」
「ええ、構いませんよ。お隣、よろしいでしょうか?」
二人で腰を掛けるにはベンチは心許なく、黒川のスペースを開けるため、コウキは端に寄った。
「…5歳の息子がおかしくなっちまったんです。何かを、ずっと怖がってて。突然叫び出したりするようになって…」
絞り出すような言葉だった。その震える背中に、黒川は静かに手を添えた。
「その子は、何を怖がっているんですか?」
「黒いお月さまが、いるって言うんです」
黒いお月さま。小さく口にしてみるも、黒川に思い当たるものはなかった。
「病院とかで検査も色々したけど、何も異常はなくて。まだ小さいから精神的な不安が幻覚を見せてるんじゃないか、って言われました」
「では今、お子さんは入院しているんですか?」
コウキは力なく首を横に振る。子供のこととあれば、彼の落ち込む様子は腑に落ちた。
「…オレが悪かったのかも」
覗き込んだコウキの表情は暗い。それは今、思い当たったように零れた言葉だった。
「オレがバカばっかしてたから、だから、リュウセイがこんなことに…っ」
「それは、少し違うと思います」
黒川は毅然と、コウキの迷走する思考に歯止めを掛ける。こちらを見つめるコウキが幼く見えた。
「コウキくん、その黒い月に何か心当たりでもありますか?」
「…いや、分かんないっす」
「なら自分を責めても意味はないですよ。お医者様も、リュウセイくんを安心させる為に、ご自宅での療養を選択したのでしょう」
「でも!じゃあ、どうしたら…っ!」
感情が決壊したコウキの背中を、黒川はゆっくりと摩る。
道行く車が時々、こちらに不審な目を向ける。
それらを黒川は気に止めもせず、コウキを宥める頭の片隅で、待っているであろう金魚のことを少しだけ考えていた。
「……っ、すんません」
一頻り泣いたコウキに黒川は自分のハンカチを差し出す。コウキは一瞬躊躇ったが、拭うものを持ち合わせていないことに気付き、小さく礼を言った。
「すっきりしましたか?」
「いやぁ、なんか情けないっす」
「そんなことないですよ。ふふ、あのコウキくんがこんなに立派になるなんて、思ってもみませんでした」
よしてください、とコウキは恥ずかしそうに頭を掻いた。懐かしい顔付きに、黒川の胸が温かくなるのを感じる。
「店長、もしできたらリュウセイに会ってくれないっすか?」
「おや、今からですか?」
「忙しいなら今度でも、いつでもいいんで」
「こちらはいつでも構いませんよ。ですが、お役に立てるとは思えませんが」
それでもいいと縋るコウキの気迫に押される。
医者がお手上げなことを、黒川がどうにか出来るとは考えられない。変化を期待するコウキの背中に、黒川は小さく息を吐いた。
目的地に着いた瞬間、黒川は思わず足を止めた。家屋の周囲に広がる、持て余すほどの敷地。奥に古い平屋と、手前には建って間もないであろう、今時の戸建てがあった。
——ああ、そうだった。コウキの家は農家だった。
「どうぞ、上がってください」
「お邪魔します」
広めの玄関に、子供の三輪車が埃を被っていた。壁の至る所に仲睦まじい姿の写真が飾ってある。コウキがどれほど家族を大事にしているのか、言葉にせずとも伝わってくる。
通されたリビングには畳の小上がりがあり、件の子供はそこに敷かれた布団で眠っていた。
安心させるためだろう、周りにはおもちゃやぬいぐるみがずらりと置かれている。
「初めまして、突然お邪魔してすみません。黒川と申します」
ダイニングテーブルに座っていたコウキの妻へ声を掛けると、慣れない来客に妻もぎこちなく頭を下げた。
「はじめまして、アスカです」
「店長、そっち座ってください」
コウキが指を差す先はさっきまで妻のアスカが座っていた場所だった。アスカも一瞬迷うように立ち上がり、椅子を引いた。
「いえ、お構いなく。お二人ともずいぶんお疲れのようですし、楽にしてください」
良く見れば二人とも目元の隈が酷い。部屋も乱雑で疲弊の色が伺える。
改めて子供へ目を向ければ、頬に影が見える。予想以上に重症のようだ。何か他に変わりはないかと観察していると、ふと枕元に、どこかで見たことがある空の小瓶が置いてあった。
それを認識した途端、どこからか漂う臭いが黒川の鼻を掠めた。
「コウキくん、あそこにある小瓶ですが…」
黒川が尋ねようとしたその時。
「きゃあああああああああああ!!」
耳を貫く高音が室内に響く。悲鳴を上げる子供にコウキとアスカは急いで駆け寄る。
慌ただしくなった部屋に重苦しい空気が這いよる。それは黒川の背後から来るようだ。
何かいる。異様な気配に背筋が震えた。
子供は泣き続けている。原因は間違いなく後ろにあるのだろう。
黒川はぎこちなく振り返る。
「黒い、月…」
そこには大きくぽっかりと空いたような、黒い丸が浮かんでいた。月と呼ぶには歪で、濁った黒は魚の目に似ている。
それはじっと子供を見つめていた。皮膚が焼け付くような視線に、子供の発狂も頷ける。あれを一身に受けている子供への負荷は、到底計り知れないだろう。
「…っ、ぁ」
黒川が声を上げようとするも上手く発声出来ず、空気が抜けるばかりだった。
黒い月は微動だにせず子供を見つめている。傍で眺めている黒川の顔にも嫌な汗が伝った。
とにかく、あの視線を子供から逸らさなければ。
「…そんなに見つめては、子供もかわいそうですよ」
ようやく黒川が絞り出した声は、酷く掠れている。だがそれで十分だった。
黒い月がこちらに気付き視線が合う。初めて目の当たりにする異形に、黒川の心臓が忙しなく音を立てる。
黒い月から感情は読み取れない。そもそも意思の疎通が出来るかどうかも疑わしい。
やがて月が不気味な弧を描いた。
それが笑みだったのかどうか、黒川には判断がつかない。次の瞬間、黒い円は音もなく薄れ、そこにあった異様な気配だけが遅れて消えた。
代わりに、人の声が戻ってくる。コウキたちの声と、泣き疲れた子供のしゃくり上げる息遣いだ。
去ったのか、それとも潜んだだけなのか。分からないまま、黒川は一度だけ胸を撫で下ろした。
コウキは子供から目を離さず、低く続けた。
「……毎回こんな調子なんっすわ」
ようやく落ち着いた子供の傍らで、コウキは項垂れる。月が現れる度、泣き叫ぶ子供の相手をしていれば、心身ともに疲労するのも無理もない。
「状況は良く分かりました。一つお聞きしたいのですが、枕元に置いてあるあの小瓶はなんでしょうか?」
「あれっすか?あれはリュウセイのお気に入りのお菓子だったんです。中身がなくても甘くていい匂いだって言うんで、そばに置いておこうって」
どうやらここでは誰も異臭とは感じていないことに、少しだけ安堵した。
あの小瓶が月と関係があるのか、そもそも黒川が口にした魚と同じものかどうかも、結局分からないままだ。
「あのお菓子は、どこで手に入れたんですか?」
「それがなんか最近売ってたサイトが無くなっちゃって。もう手に入らないんっすよ」
いつの間にか手掛かりを失ってしまったようだ。その内にと、先延ばしにする自分の悪癖を恨む。
さて、どうしたものか。
「ぱぱ…」
か細い声がコウキを呼ぶ。目を覚ました子供が起き上がろうと、父親の腕を掴む。
「リュウセイ、大丈夫か?」
よろける小さな身体を、コウキはしっかり抱き留める。腕の中で子供は何か伝えたいのか、声にならず口をぱくぱくさせる。
「どうした?何?」
夫婦は耳を寄せ合う。距離のある黒川には何を話しているか、全く分からない。
やがて子供が言っていることが分かったのか、コウキたちは視線を黒川へと向ける。
「なんかリュウセイが、みつけた。って」
「みつけた…?リュウセイくんが何か見つけたんですか?」
コウキは子供の言葉をただ繰り返すだけだった。その様子に、黒川も小さく首を傾げる。
「黒いお月さまがみつけたってゆった。リュウくんがそう言ってる」
ようやく聞き取れたアスカが、リュウセイの言葉をそのまま口にする。
月が消えた理由が黒川には分かった気がした。
「そうですか。ではコウキくん、またリュウセイくんが大変な時はいつでも呼んでください」
「え?あ、はい。…もう帰っちゃうんっすか?」
「ええ。それと、もうリュウセイくんは大丈夫だと思いますよ」
唖然とするコウキの腕の中、泣き疲れたリュウセイはすでに眠っている。
後悔したとて時間は戻らない。
「それでは、お邪魔しました」
見送る間も与えず、そそくさと黒川は家を後にした。
帰り道、砂利を大きく鳴らしながら歩く。不気味な黒い円が黒川の頭を離れない。
あれと再び対峙した時、何を差し出すことになるのか。まだ自分を安心させるだけの解答は思い浮かばなかった。
「ただいま戻りました」
誰もいない古本屋だが、黒川は挨拶を欠かしたことはない。いや、今は同居人がいたはずだ。
ハッとして顔を上げれば、カウンターに置かれた鉢が一つ。
「…ご飯、買い忘れてしまいましたね」
外では町のチャイムが鳴っている。
とりあえず、目の前の問題から片付けることにしよう。黒川は吐き出すように深く息をついた。




