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薄紅の小箱

眼前に広がる華やかな祭壇。生前彼女がどれほど人に愛されていたのか、改めて思い知らされる。

遺影の中で微笑む彼女は、手芸店の店主として商店街を支えた一人である。すでに閉店して久しいが、黒川が何度も足を運んだのは、彼女の家だった。


「また寂しくなってしまいましたね」


隣に座った会長が呟いた。

彼にとって、もう一人の母の様な存在だったのだろう。涙ぐむ様子に、胸の奥が僅かに傷んだ。

黒川でさえ、何度経験しても死別の辛さは慣れるものではない。


「でも、こうしてみんなで送ってあげられるだけ、あの人も幸せだと思いますよ」


花を手向ける者は皆、涙を流していた。

死んだ誰もが、こうして弔ってもらえるわけではない。


古本屋のちゃぶ台に置かれたままの、彼の小さな置き土産。

さて、あの小箱はどうしたものか。黒川は小さくため息を吐いた。



─────


鈴木ルカは悩んでいた。

毎日片道一時間半、電車に揺られ出社し、夜遅くに帰宅する生活。疲労はすでに限界だった。

気付けば、2LDKの部屋はゴミや洗濯物で溢れている。だが悩みの種は、散らかった部屋のことではない。


一人で眠るには広すぎるダブルベッドに身を沈め、天井を見つめる。


元々は職場の近くに住んでいたのに何故、今の私は一時間半も掛けて通勤していたのだろう。


ここに住んでいる理由があるはずだ。でもそれが何か、思い出せない。

忙しさのせいで思考が鈍っているのか、ここ数日の記憶が曖昧だ。


─確か、確か私は、誰かと同棲していた、はず。


「…でも、誰と?」


乾いた声が虚しく響いた。

スマホを何度もスクロールしてみても、連絡はおろか写真すら残っていない。

余程、酷い別れ方をしたのだろうか。それにしても、都合良く忘れ過ぎている。


この部屋に決めた日、家具を選んで買い物した時、それ以前に交際した瞬間。

絶対に忘れられない思い出のはずだった。

小さな記念日だって、手帳に書いていても不思議じゃないのに。どこにもそれらしいものは見つからない。


まるで彼に関することだけ、すっぽり抜かれてしまったかのようだった。


「どうしちゃったんだろ、私」


親友に何度も連絡しようとメッセージを起動するも、なんて伝えればいいか躊躇ってしまう。


『私の彼氏の名前知ってる?』


なんて聞いたところで、まずは病院を勧められそうだ。

親は論外。紹介しているかもしれないけれど、そもそもあまり連絡を取りたくない。


思考は堂々巡りを続け、堪らず毛布を被って身を縮める。顔を埋めたシーツからは、ルカの匂いしかしなかった。




微睡みの底で、これは夢だとすぐに悟った。目の前の人物が、ただのシルエットだったからだ。

声は聞こえてこない。それでも、二人の影が激しく言い争っていることだけは伝わってくる。

ルカは少し離れた場所から、言い争う二人を見つめていた。覚えのない光景なのに、胸が苦しい。



「そうやってすぐ車に逃げないでよ!」


気付けば、ルカは声を出して叫んでいた。

カーテンから漏れる影が、夜が近い事を知らせる。ゆっくり起き上がり、荒い呼吸を整える。

結局、せっかくの休みを無駄に過ごしてしまった。それでも身体は動けず、ぼんやりしていると、突然インターホンが鳴り響いた。


荷物かもしれない。でもあまりにもタイミングのいいチャイムに鼓動が早くなる。

もう一度鳴る。

静かに寝室から出てモニターを確認すると、そこには知らない男が立っていた。


同世代くらいだろうか。カーディガンを羽織り眼鏡を掛けた男は、顔は悪くないが少し野暮ったい印象だった。

少なくとも、恋人と呼ぶには違和感が拭えない。


モニター越しの視線が、こちらの内側まで見透かしているようで落ち着かなかった。

対応すべきか悩んでいる間に、向こうが先に諦めたのかすっと画面から消えていく。


「待って」


スイッチを押していないインターホンでは、声が届くことはない。慌てて玄関を出るも、そこには誰も居なかった。


呼び止めたところで、どうするつもりだったのだろう。


過ぎたことを考えてもどうしようもない。扉を閉めるため視線を落とすと、小さな箱が置いてあることに気付いた。


手のひらに収まるほどのジュエリーボックス。拾い上げ開けてみれば、小さな石が一つ付いたシンプルなリングが収まっていた。


初めて見たはずの、正直に言えば地味としか思えない指輪なのに。

自然と涙が溢れてくる。


これを贈ってくれるはずだった彼は、名前も顔も思い出せないその彼は、もうどこにもいない。

理解した途端、ルカはその場で泣き崩れてしまった。


─────


これで自分を轢き殺した彼も救われるだろうか。

自分から尋ねておいて、相手が出てこなかったことに黒川は安堵していた。




あの日、暗い道を明かりも持たず歩いていた理由は、すでに忘れてしまった。

町には街灯が少なかった。

法定速度を遥かに超えて走る車は、黒川に気付かなかったのだろう。ぶつかるその瞬間まで、ブレーキが踏まれることはなかった。

吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた黒川は、その場で命を落とした。


そのため、運転手がどんな人物で、その後どのような行動を取ったかは分かりようがない。

唯一確かなのは、運転手は焼き付くような痛みを全身で味わったことだけだ。

やがて再び運転手が顔を上げた時、そこに以前の姿はない。

代わりに死んだはずの黒川が、静かに立っていた。


前方がひしゃげた青い車が、事故の衝撃を物語っている。

遠くに転がるかつて黒川だった身体は、見るも耐えないほど歪なものと化していた。近くには粉々となった眼鏡も落ちている。


「また買い直さなければなりませんね」


普段なら決して選ばない派手な服装は、前の持ち主が高身長だった名残りなのか、裾が余り落ち着かない。

不意にポケットに違和感を覚え取り出してみると、そこには件の小箱があった。

その内消えるものだと思っていたが、何故かその小箱だけがいつまでも存在を主張していた。

それは黒川にとって、初めての経験だった。




帰り際、泣き声が耳に届いて足を止めた。

これでようやくあの小箱も、明日には跡形もなく消えているだろう。

振り返ることはしなかった。

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