百彩の小瓶
唸りを上げて山を下る濁流は、夜を裂いてうねる黒龍のようだった。
物音に気付いた瞬間、家ごと土砂の波に呑み込まれた。あまりにも一瞬で、痛みを認識する暇さえなかった。
次に目が覚めた時、隙間から覗く眩しい光に、嵐が去ったことを知る。どうやら、村の残骸に身体が埋もれているようだ。
力を振り絞り、重なる木材を押し退ける。
見渡す限り広がる晴天が、村の全てが失われたことを如実に物語っていた。
「…ぉおーい」
精一杯張り上げた掠れる声は、虚しく風に流された。
まだ誰か、助けを求める者がいるかもしれない。手元にあった木材を支えに、頼りない足取りで歩き始めた。
夕焼けの空が目に染みる。歩き疲れ、ぬかるんだ地面に腰を落とした。
いくら人を探しても、そこにあるのは無惨に壊された亡骸だけだった。
「だれかぁ!いないのかぁ!」
しかし応えてくれるのは、風で揺らぐ木々の音だけだ。
運良く、自分だけ生き延びてしまった。
泥だらけになるのも構わず、地面に蹲り泣き叫ぶ。
運が良かったわけではない。
それを知るのは、もっとずっと先のことであった。
─────
屋根を叩く雨音が、微睡んでいた意識をくすぐる。淀んだ空気が、古い記憶を呼び寄せたのだろう。テレビでも連日、大雨の話題で持ち切りだ。
雨を嫌うのは黒川だけではない。この店の品々も湿気を嫌うものばかりだ。
読みかけの本を、静かに捲り直す。
目を閉じたら、またあの地獄が映る気がした。
午後、少しだけ弱まった雨音に、入口の鈴の音が交じる。
「…すみません」
尋ねた声は戸惑いの色を隠せていない。
本から視線を上げると、そこには無造作な金髪の女が佇んでいた。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
抱えた小さな紙袋を握り締める様子に、本を買いに来たようには見えなかった。
また呪いの品だろうか。黒川は眼鏡を押し上げた。
「探してるもんはないんだけど、渡すものはあるっていうか。でも、ここじゃない気がして」
「おや、なぞなぞですか?」
要領を得ないやり取りが、黒川の好奇心を揺さぶる。
なるほど、その紙袋が届け物らしい。
「ここに行きたかったんだけど、何度やってもこの店に来ちゃうんだよね」
差し出されたスマートフォンの地図には、目的地であろう住所が写っている。
しかし案内開始を押した瞬間、目的地にはすでに到着していると、機械が冷たく告げた。
「目的の場所はそう遠くはありませんが、確かにここではないようですね」
疑惑が確信に変わったのか、彼女から微かな嘆声が漏れた。
「もし差し支えなければ、紙袋の中身を見せて頂けますか?」
機械のことは分からないが、ここを指し示すなら何か意味があるのかもしれない。
彼女も素直に頷き、紙袋から小瓶を一つ取り出す。中には金平糖だろうか、色鮮やかな粒が詰められていた。
だが、そんな華やかさより気を引くのは、鼻先を掠める香りだった。
「おや、愛らしい見た目の割に、随分と生臭いものですね」
「やっぱ臭いよね!?」
詰め寄る彼女から、香水の匂いが過剰なほど漂ってくる。
しかし香水は強いだけで、嫌悪感はない。彼女の反応が肯定するように、異臭は小瓶から発生しているのだろう。
「みんな甘くていい匂いって言ってて、臭いって言うのあたしだけなんだよね」
「…なるほど、ところでこの中身はなんですか?」
「てか、見たことない?けっこうSNSとかでバズってるやつだけど」
異臭と知らない単語に目眩がした。
もっと世間を知る努力が必要らしい。今は少しだけ後悔した。
「なんか肌がキレイになるとか、頭が良くなるとか。お菓子みたいなサプリって人気があって、なかなか手に入らないんだよ」
ラベルのない小瓶に、そんな効果があるとは正直信じ難い。だが、怪しい健康法はいつの時代も幅を効かせるものだ。
「そんな貴重なものを届ける最中、迷子になってしまったわけですね」
状況を整理できたところで、再び彼女の顔が曇った。
「心配しなくても先程お伝えした通り、ここから目的地は遠くありません。届ける先はお知り合いですか?」
彼女は首を横に振った。
「ううん、あたしこれを詰めるバイトしてて、頼まれただけ」
彼女も臭いに耐えかねたのか、小瓶を汚物のように扱い、紙袋へとしまい込む。
忌まわしい記憶を掻き回す臭いに、黒川の眉も寄る。
さて、どうしたものか。
黒川は手近の棚に刺さった、ハードカバーを一冊取り出した。
「怪しい店主に言われても難しいかもしれませんが、あまりそのお仕事に関わらない方が身のためかと」
小さく彼女の喉が鳴る。思うところがあったのかもしれない。
「これがなんなのか、あなた知ってるんですか?」
「昔、同じ臭いをした物を見たことがあります。その時はお菓子ではありませんでしたが、良くないものだと思っています」
ハードカバーに挟まっていた栞を抜き、彼女に差し出す。おずおずと彼女は受け取ると、その栞から香る匂いに気付き、顔を近付けた。
「いいにおい」
紫色の小さな押し花の栞は、どうやらお気に召したようだ。
「もし希望されるなら、そちらのお荷物を預かりましょうか?」
手を差し伸べる黒川に、彼女の視線が泳いだ。
やがて決心がついたのか、再び首を横に振った。
「…ううん、大丈夫」
「そうですか」
紙袋は相変わらず、彼女の手の中に収まっている。しかしその表情に心配はなさそうだった。
頭を軽く下げ、彼女は退店していく。その足先は、目的地とは逆方向へと向かって行った。
静かになった店内に雨音だけが響く。また雨足が強くなったようだ。
「…本当に、嫌な臭いだ」
まだ仄かに臭いが漂っていた。




