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透明な魚

人が幾人か集まると、そこには決まって卓が用意される。

人間とはそういう生き物で、目的や理念より先に杯を交わす理由を探し始める。


廃れた商店街も例外ではない。表向きは慰労会、実態は顔馴染み同士の生存確認のようなもの。

数十年変わらぬ顔触れは安心感を生み、同時に停滞も連れてくる。


店内は騒がしい。笑い声、皿の擦れる音、醤油と酢の混ざった匂い。それらが波のように押し寄せる中で、黒川だけが輪の外に身を置いている。


「黒川さん、呑んでいますか?」


そう声を掛けた会長のグラスは、すでに空に近い。黒川はそれに気付き、ほんの一瞬だけ視線を落とす。


「ええ、会長さんこそ、お注ぎしましょうか」


互いに瓶を譲り合う。注がれることを遠慮し、注ぐことに遠慮する。この国特有の美徳は、時として実に滑稽だ。


皮肉な思考に傾いてしまうのは、やけに艶のいい魚のせいかもしれない。

活きが良すぎると、人はどうにも余計なことを考えてしまう。


今夜の会場は、会長が営む寿司屋。長年、この商店街と同じ速度で古びてきた店の一つだ。

他の者は食事を済ませ、雑談に花を咲かせている。


黒川のお膳は綺麗に揃えられたままだった。

今朝、日の光を波間で浴びた彼らは、甘酸っぱい白い粒に乗せられる未来を見ていただろうか。それを黒川が知る術はない。


「お口に合いませんでしたか?」


互いのグラスは程良く黄金色に満たされていた。流石に一口も手を付けていないのは良くなかったと、今更気付いても遅い。

隣に腰を降ろした会長に、逃げ場を奪われてしまった。


「すみません、実は生魚が少し苦手で」

「そうだったんですか?それは申し訳ない、何か別のものを持ってきますよ」

「いえ、お酒を頂いているのでお構いなく」


合間を取り繕うようにグラスを傾ければ、口の中で酒が踊る。


「昔、宴でこんな風に魚を振舞ってもらったことがあります。そこは山里の村だったので、生魚を食べることはとても珍しかったんです」


独り言のような語り出しだったが会長は杯を止めてこちらを見た。手近な瓶を引き寄せながら、再び杯を口に運んだ。

どうやら、酒の肴にはなりそうだ。



─────


その日、村はどこかざわついていた。

あの商人の息子が、人を集めてご馳走を振る舞うらしいと、家に飛び込んだ友人が息を荒らげていた。


「へぇ、珍しいこともあるもんだな」

「なに呑気にしてんだ、早く行くぞ」

「行くって…、野次馬なんか嫌だよ」

「馬鹿野郎、俺たちも呼ばれてんだよ」


草履もまともに履けぬ間に、腕を引かれる。

商人の息子とは歳は近いものの、言葉を交わしたことは自分も友人もないはずだった。


刺身だ、酒だと、はしゃぐ友人とは対照的に、意図が見えない招待に疑心暗鬼になる。


屋敷の前は、すでに人だかりとなっていた。

その顔触れは様々で、何の集まりなのか判然としない。


しばらくして、使用人に案内された座敷は見たことの無い広さだった。

そこには綺麗に並べられた座布団があり、人々は誘導されるまま腰を下ろしていく。

女中がお膳を掲げ、滑るように並べていく。その所作は妙に整っていて、目を引いた。

初めての経験に、友人も自分も胸が踊る。


だが、どうしてだろう。

鼻を掠める臭いに、自然と眉が寄る。お膳から香る、胃の奥を刺激する臭い。

白い皿には、三切れだけの刺身が静かに乗っていた。


お膳が並べられていくにつれ、強くなる香りに目を背けると、他の人々は感嘆の声を上げている。

信じられない光景に友人へ視線を移せば、切り身を一つ、箸でつまみ上げていた。

白く透き通った身は、光を眩しく反射する。

友人は、その美しさに目を奪われているようだった。


「まだ触るな!」


声を上げたのは商人の息子だった。いつの間にか、座敷の奥でこちらを見下ろすように立っている。

友人は無作法を咎められ、慌てて背筋を伸ばす。異臭について話したくとも、主人に目を付けられる気配に、自分も乱れてもいない帯を整える。

腐敗臭が室内を満たしていくのを感じ、静かに手を口に当てる。先程までの高揚感は、跡形もなく消えていた。


やがて部屋には物音一つ、鳴らなくなった。

誰もが主人の合図を待っている。


「いただきます」

「いただきます」


座敷に響く主人の号令に、他の者も遅れず続く。ただ一人、自分だけが黙って膳を睨むばかりだ。

箸が皿を叩く、乾いた音が煩わしい。とてもじゃないが、口にする気はしなかった。


─さっさと友人に押し付けてしまおう。


声を掛けようと振り返ると、こちらを凝視する友人の視線とかち合う。

瞳孔が開き、そこに知った感情はなかった。

あまりの気迫に、持ち上げようとした皿から手を離してしまった。


友人だけではない。気付けば、座敷にいる人間の視線が、こちらに向いていた。


息を飲むことすら、憚られる異様な雰囲気に、血の気が引く。

その視線は、まだ食べていない自分を責めているようだった。


恐る恐る箸を掴むが、震える手は言うことを効かない。

やっとのことでつまんだ刺身も、腐った臭いが鼻を突く。嘔吐感に耐えきれず、箸を落としてしまった。

大きく咳き込むも、誰一人として心配する者はいない。


落とした箸を、滲む視界の先で見つける。

本当は、一口も入れたくない。それでも自分を追い立てるように、無理やり刺身を口に放り込んだ。

舌に乗った瞬間、強烈な刺激が鼻腔を突き抜け、腹の底がひっくり返る。

吐き出せばいいものを、自ら口元を手で覆い、その場に留める。

噛み締めると魚とは思えぬ、歯と歯の間に糸を引くような、粘つく食感に涙が零れた。

もう味など感じない。この不快感から逃げたくて、飲み込めるまで噛み砕く。


やっとの思いで、喉の奥に押し込む。

すると今度は熱の塊を流し込んだかのような、焼け付く痛みが襲う。膳を蹴散らし、畳の上をのたうち回る。

喉を掻き毟るも楽になるわけもなく、藻掻くたび、畳の藁が指に絡み、辺りに飛び散った。


暴れ回る指先に、何かが触れた。

気づけば、商人の息子が目の前に立っていた。変わらぬ表情でこちらを見下ろしている。


誰でもいい、今すぐこの苦しみから解放されたかった。

助けを求めようにも声にならない。腫れ上がった気道から、漏れるような空気が音を立てるばかりだった。


「おめでとう」


商人の息子はただ一言残し、あとは興味を無くしたのかそのまま座敷から出ていってしまった。

他の者たちもそれに倣うように、次々部屋から出ていく。

人混みの中、友人の背中が見えた。


「…っ、ぁ、まっ…」


─置いていかないでくれ!


声にはならず、友人は振り返ることなくいなくなってしまった。


後に残されたのは、散らかった膳と、自分一人だけだった。




─────




会長の喉が小さく鳴った。

どうやらいつの間にか会はお開きになっていたらしい。辺りには寝息を立てる者もいる。


「そんな物語を読んだもので、なんだか生魚が怖くなってしまったんですよ」

「…なんだ、お話だったんですね」


乾いた笑いを浮べる会長の頬は赤い。それなりに楽しんで貰えたようだ。

黒川は鞄から一冊の文庫本を差し出す。


「良かったら読んでみますか?」

「え…?いや、歳のせいか細かい文字はどうにも…」

「おや、残念です」


やんわり断られ、再び本は鞄へと戻っていく。


「長く引き止めてすみませんでした。自分も帰りますね」

「はい、お疲れ様でした」


会長の言葉を背に、黒川は静かに襖を閉めた。

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