02 奈央とバイト
「奈央〜、今日カラオケ行くんだけど行くー?」
「ごめん今日バイトー!」
友人の誘いをそんなふうに断りながら、スマホの画面を確認する。
げ、電車遅延してるじゃん。バイト間に合うかな。
三上紗枝。
きっと、掘り下げようと思えばいくらでも調べられた。
ネットリテラシーなんてあってなかったような時代だ、写真くらいはすぐに見つかったと思う。
――けれど。
ああ、実在した女の子なんだな。
多分、この子の記憶なんだろうな。
そう思ったところで、私は考えることを止めた。
パンドラの箱。
経験していないことを知っている。
子供の頃は、意味も分からなかった。
ただの映像で、知識だった。
でも多分これから先は、分かってしまう。
予測が出来てしまう。
それだけ私は大人になった。
これからもっと、彼女の、“18歳”に近付いていく。
それは、ダメだと思った。
私が私でなくなるような、そんな気がしたから。
だから私は、紗枝さんの顔をはっきりとは知らない。
名前と年齢と高校くらいしか、客観的な情報は持っていない。
ただ、存在に輪郭が与えられたというのは想像以上に大きかったらしい。
それまでは単なる映像記録だったものに、紗枝さんの感情や思考が乗ることは一気に増えた。
これ好きだったんだよな〜とか、懐かしいな〜とか。
だからと言って私の人格に何か影響があったかと言えばそんなこともなく、やっぱり「紗枝さん」というひとりの女の子のことをより深く知っただけのような気はする。
(人生2周目だからって、イージーモードじゃないってのも分かったし)
駅のホームの電光掲示板を眺めながらほっと息をつく。
学校から移動している間にどうにか遅延は解消したらしい。
これなら滑り込みセーフくらいでバイトには間に合いそうだ。
混み合う電車内にどうにか空席を見つけて座ると、鞄から英単語帳を開く。来週は小テストだ。
(紗枝さんは英語、得意だったっぽいんだけどなぁ)
記憶は、薄れる。覚えたことは、忘れる。
トレースだけではどうにもならないことは、間々ある。
身体能力の話と同じく、知識·記憶の方面においても、丸っと全部覚えていられるような超人的な能力は私には備わっていない。
なんかやったよな〜なんだっけな〜程度だ。
というか、全体的に私より紗枝さんの方が頭良いんだよな…。
好奇心から一度だけ紗枝さんの通っていた高校を調べたことがあるけれど、その偏差値と大学進学率にびっくりした。超進学校じゃん。
ポケットに入れたスマホが、ヴヴヴ…、と低い振動音と共にメッセージの通知を知らせる。
単語帳を鞄に放り込んでから画面をタップすれば、『てんちょう』の文字が浮かんでいた。
『電車遅延してるってー?
無理しなくて良いから気をつけておいで〜』
待ってるよ♡とハートを抱えた猫のスタンプに和む。
てんちょう、こと、浅野太一さん。
言葉の通り、私がバイトで働くイタリアンレストラン『ルーチェ』の店長である。
30代半ば。
長身細身。
サラッサラの金髪に伊達らしい丸眼鏡。
イケメン。
シゴデキ。
優しくて気さくで気配り上手、やや軽い。
店長目当ての女性客で店の売り上げが3割伸びたという逸話を持つ男だ。
当然ながらめちゃくちゃにモテるらしいのだが、本人は独身主義らしく長く続いた特定のお相手はいないとか。
バイトの先輩の話なので真偽は知らない。
ご迷惑おかけします、とメッセージ付きのスタンプを返してスマホをポケットに戻す。
***
なんとかバイト開始までに店に滑り込み、更衣室でバタバタとユニフォームに着替える。
控えめなノックの後ドアの開く音がして反射的に顔をそちらへと向けた。
「おはようございます、和泉さん」
「おはよう、学校お疲れさま」
夕方なのにおはようって、変な文化よね。
彼女は橘和泉さん。この店の料理長であり、オーナーの一人娘。
涼やかな目元と、話すたびにさらりと揺れる綺麗な黒髪が目を引く美人だ。
慣れた手つきで肩口の長さの髪を結い上げながら「電車遅れてたんだって?大変だったねー」と声をかけてくれる。
「そうなんですよー、ギリギリ間に合いましたけど」
「うん、佐々木君は間に合わないってさっき浅野くんの方に連絡来てた」
「了解です」
和泉さんは、店長を“浅野くん”と呼ぶ。
彼女の方が少し年上なことと、オーナーの一人娘と雇われ店長という微妙な関係性であることと……仕事上だけの付き合いだけではない感情の表れ。
和泉さんの店長に対する「気持ち」は、長年一緒に働いていればなんとなく感じ取れるものがある。
……バイト歴1年足らずの私がそうなのだから、多分、他のバイトやパートの皆さんは勿論、店長本人だって少なからず察しているだろうに、誰もそこには触れない。
外野も、店長も、和泉さん本人も。
本当は付き合ってるけど職場には内緒で、なんて話もあるようだけれど、あの2人に限ってそれはないと思う。
オーナーが店長を娘婿に迎えたがっているのは周知だし、スタッフ間の恋愛が発覚したからと言って雰囲気が悪くなるような職場でもないし。
事実上、夫婦経営みたいな店なのだ。
そのくらい、息ぴったりのビジネスパートナー……なのだけれど。
店長の方が、一歩引いている。
壁を作っている。
ビジネス以上に踏み込ませる事を、避けている。
(大人の事情は難しいや)
適齢期の男女が、とりあえず付き合ってみる、なんてわけにもいかないのだろう。
——私のように。
はぁ、とひとつ、ため息を吐き出して。
「さて、働こ。」
鏡に営業スマイルを映してから、更衣室を後にする。
しばらく前から届いているもう一件の通知は、あえて未読のままだった。




