第七話
西の渓谷へ向かう山道を、二人は並んで歩いていた。
初夏の風が頬を撫でる。道端には小さな黄色い花が咲き、鳥たちが枝から枝へと飛び移っている。穏やかな午前だった。
「アルディスさん、見てください。あの鳥、珍しいですよね」
蒼太が指差した先に、青い羽根の小鳥がいた。
この地域では滅多に見られない種類だ。
「ああ、瑠璃鳥だな。幸運の象徴って言われてる」
「へえ。じゃあ、今日の討伐も上手くいきますね!」
累いっぱいの笑顔。
アルディスも笑顔で応じた。
「そうだな」
蒼太は軽い足取りで前を歩いている。
背中には新調したミスリル製の短剣。ひと月ほど前、俺の父の形見の剣を質に入れて手に入れたものだ。よほど気に入っているのか、暇さえあれば鞘から抜いて眺めている。
「この短剣、本当に軽いです。前のやつより振りやすくて」
「そうか。お前にはミスリルが合ってたんだな」
「はい! これなら、もっと速く動けそうです」
無邪気に笑う蒼太。
その横顔を見ながら、アルディスは胸の奥に温かいものを感じていた。
(いいコンビになったな)
出会って三ヶ月。
あの時、路地裏で倒れていた少年を拾わなければ、今の自分はどうなっていただろう。
おそらく、まだ部屋に引きこもって剣を磨いていたに違いない。
蒼太がいてくれたから、俺は弓に出会えた。
蒼太がいてくれたから、俺はもう一度冒険者として歩き出せた。
感謝している。
心の底から。
「アルディスさん、どうかしました?」
「ん?」
「なんか、じっと見てたから」
「いや、お前が立派になったなと思ってな」
本心だった。
三ヶ月前は栄養失調で倒れていた少年が、今ではCランクの魔物を相手にできるまでに成長した。
「えへへ、アルディスさんのおかげです」
蒼太が照れ臭そうに頭を掻く。
その仕草が、年相応の子供らしさを感じさせた。
「今日の岩竜、強いって聞きましたけど、大丈夫ですよね?」
「ああ。お前の魔法剣なら、岩の鱗も貫けるだろう」
蒼太は最近、独学で魔法剣の技術を習得した。
短剣に炎の魔力を纏わせ、攻撃力を高める技だ。
まだ不安定だが、それでも十分な威力がある。
「頑張ります!」
拳を握って、意気込む蒼太。
アルディスは笑って、その頭を撫でた。
この時のアルディスは、まだ知らなかった。
この日が、二人の関係に決定的な亀裂を刻む日になることを。
西の渓谷。
切り立った崖に囲まれたその場所は、岩石の迷路と化していた。
「グルルルルゥ……!」
巨大な岩竜が、地響きと共にその巨体を現す。
全長五メートル。全身が硬質な岩のような鱗で覆われた、Cランク上位の魔物だ。
物理攻撃に対する耐性が高く、生半可な剣では刃が通らない。
「来るぞ!」
アルディスが弓を構えた。
矢をつがえ、狙いを定める。
だが、その前に蒼太が駆け出していた。
「俺が行きます!」
短剣を抜き、岩竜へ突進する。
その速度は、アルディスが想定していたよりも速かった。
(速い……!)
アルディスが援護の矢を放とうとした瞬間には、もう蒼太は岩竜の懐に入り込んでいた。
間に合わない。
俺の援護が、追いつかない。
岩竜が尻尾を振り回す。
巨大な鞭のような一撃が、蒼太を薙ぎ払おうとする。
「蒼太!」
アルディスが叫んだ。
だが、蒼太はその軌道を完全に見切っていた。
最小限の動きで回避し、岩竜の足元に滑り込む。
そして――
「炎よ!」
短剣が紅蓮の炎に包まれた。
魔法剣。
蒼太が独自に習得した技術だ。
「ハァッ!」
炎を纏った短剣が、岩竜の右足の付け根に突き刺さる。
そこはアルディスが狙おうとしていた急所だった。
言葉にする前に、蒼太は気づいていたのだ。
高熱が岩の鱗を焼き、内部の肉を溶かす。
「ギョオオオオオッ!」
岩竜が苦悶の声を上げてのたうち回る。
その暴れる背中に、蒼太は張り付いたまま離れない。
さらに追撃を加えようと、蒼太が短剣を振り上げた瞬間――岩竜が捨て身の回転攻撃を仕掛けた。
回避が間に合わない。
空中に投げ出された蒼太に、岩の尻尾が迫る。
ヒュンッ!
乾いた音が渓谷に響いた。
アルディスの放った矢が、岩竜の右目に深々と突き刺さっていたのだ。
「ギャッ!?」
視界と痛覚を同時に奪われ、岩竜の動きが一瞬止まる。
その隙に蒼太は空中で体勢を立て直し、岩壁を蹴って着地した。
「畳みかけるぞ!」
「はい!」
アルディスが二の矢、三の矢を放つ。
それらは全て、岩竜の関節や視界を奪うための布石だ。
動きを制限され、怒り狂う岩竜。
その意識が遠距離のアルディスに向いた瞬間、蒼太の姿がブレた。
身体強化魔法による超加速。
赤い残像を残し、懐へ飛び込んだ蒼太の短剣が、岩竜の喉元を真横に薙ぎ払った。
ズズズ……ンッ。
数瞬の遅れを置いて、岩竜の巨体が崩れ落ちる。
土煙が舞い上がった。
「ふぅ……」
蒼太が短剣の炎を消し、額の汗を拭う。
乱れのない呼吸。
Cランク上位の魔物を相手にして、ほとんど消耗していない。
「見事だ。魔法剣の制御も、随分と板についてきたな」
アルディスが岩陰から歩み寄る。
称賛の言葉に嘘はない。
的確な魔法運用、判断速度、そして身体能力。
どれをとっても一級品になりつつある。
「ありがとうございます。でも、アルディスさんの矢がなかったら、やられてました」
蒼太はいつものように謙遜し、屈託のない笑みを向けてくる。
そして、ふと虚空を見つめた。
彼特有の癖だ。
自分のステータスを確認しているのだろう。
「あ」
蒼太が小さく声を漏らした。
その表情が、驚きと、隠しきれない喜びで輝く。
「アルディスさん! 上がりました!」
その言葉を聞いた瞬間、アルディスの心臓が嫌な予感で跳ねた。
「……そうか。いくつになった?」
アルディスは努めて穏やかに聞いた。
心臓の奥が、早鐘を打ち始めているのを自覚しながら。
「51、です」
世界から音が消えた気がした。
51。
レベル50の壁。
多くの冒険者がその手前で停滞し、あるいは挫折して引退していく才能の限界点。
アルディス自身、剣士として5年間足踏みし、今も弓使いとして49で止まっているその壁を。
この少年は、またしてもあっさりと飛び越えていった。
出会ってから、わずか三ヶ月あまりで。
「……すごいな」
アルディスの口から、乾いた言葉がこぼれ落ちた。
表情筋を総動員して、笑顔を作る。
「レベル50の壁を突破するなんて、並大抵のことじゃない。お前は本当に……すごいよ」
「えへへ、アルディスさんのおかげですよ。俺一人じゃ、ここまで来れませんでした」
蒼太の言葉に嘘はない。
純粋な感謝と信頼がそこにはある。
だからこそ、アルディスの胸は焼かれるように痛んだ。
俺は49で止まっているのに。
お前はもう、俺の先に行ってしまったのか。
その日の野営は、静かな川辺だった。
パチパチと爆ぜる焚き火の音が、沈黙を埋めている。
アルディスが作ったシチューを、蒼太が美味しそうに頬張っていた。
「美味しいです! いつもよりお肉が柔らかい!」
「そうか。良かった」
アルディスも自分の皿を見下ろす。
だが、食欲がわかなかった。
スプーンを口に運ぶ。
確かに、いつも通りの味だ。
だが、何も感じない。
味がしない。
「アルディスさん、今日の戦い、すごく楽しかったです」
蒼太が無邪気に言う。
「岩竜、強かったですけど、俺たちなら倒せるって確信がありました」
「……そうか」
「次はもっと強い敵と戦いたいですね! Bランクの魔物とか!」
蒼太の目がキラキラと輝いている。
レベルアップの高揚感と、戦いの充実感。
若さゆえの無限の可能性。
それが、アルディスの胸を抉った。
「お前、本当に強くなったな」
アルディスは言った。
声が、わずかに震えていた。
「俺、もっと強くなりたいです。アルディスさんみたいに」
蒼太がまっすぐな目でアルディスを見る。
「アルディスさんは、俺の目標ですから」
その言葉が、棘のように刺さった。
目標。
もう、俺はお前の目標じゃないだろう。
お前は、俺を追い越したんだ。
「……そうだな」
アルディスは笑顔を作った。
顔の筋肉が、悲鳴を上げている。
「明日も頑張ろう」
「はい!」
夕食を終え、蒼太は満足そうに毛布にくるまった。
レベルアップの疲れからか、すぐに寝息を立て始める。
あどけない寝顔だ。
昼間、岩竜を解体した修羅と同じ人物とは思えない。
アルディスは、冷めかけたコーヒーをマグカップの中で揺らした。
飲もうとしたが、喉を通らない。
(51、か……)
数字が頭から離れない。
ヴォルフたちは今頃、レベル44あたりだろうか。
彼らを見返した時の優越感は、もうどこにもなかった。
今度は自分が、見返される側になったのだ。
「……ちょっと、散歩してくるか」
眠っている蒼太に小声で告げ、アルディスは立ち上がった。
蒼太は起きない。
安心しきっている証拠だ。
キャンプサイトから離れ、森の奥へと歩く。
川の音が遠ざかり、闇が濃くなる。
十分に離れたことを確認して、アルディスは一本の太い樫の木に手をついた。
「うっ……ぇっ、オロロッ……」
胃の内容物が、逆流した。
地面に膝をつき、激しく嘔吐する。
酸っぱい臭いが鼻をつく。
胃の中はほとんど空だったのに、嗚咽が止まらない。
体が、心が、現実を拒絶していた。
「はぁ……はぁ……ッ」
口元を袖で乱暴に拭い、アルディスは木に背中を預けて座り込んだ。
情けない。
みっともない。
相棒の成長を祝うどころか、その才能に押し潰されて吐いているなんて。
(俺が5年かけても……1ミリも動かせなかった壁を)
5年だ。
雨の日も風の日も剣を振り、筋肉が断裂するほど鍛え、魔物の返り血を浴び続けた5年間。
それでもレベルは37で止まったままだった。
弓に変えて、ようやく光が見えたと思った。
俺にも才能があったのだと。
だが、それすらも。
(こいつは、たったの三ヶ月で)
才能の格差。
残酷なまでの現実。
そして何より恐ろしいのは、自分の中に芽生えた黒い感情だ。
――あいつの成長が、止まればいいのに。
ふと、そんな思考が過ぎった瞬間、アルディスは自分の頭を拳で殴りつけた。
ゴッ、と鈍い音がする。
「最低だ……俺は、最低だ……」
蒼太は命の恩人だ。
俺に弓を教えてくれた。
俺を信じてついてきてくれた。
息子のように、弟のように、大切に思っているはずの存在だ。
その蒼太に対して、俺は今、足を引っ張ることを望んだのか?
自分が自分でないような感覚。
ドス黒い嫉妬と、強烈な自己嫌悪が、胸の中で渦を巻いて暴れ回る。
ヴォルフたちが俺を置いていった時の気持ちが、今は痛いほどわかる。
いや、それ以上だ。
置いていかれる恐怖。
不要とされる恐怖。
(あいつがレベル60、70になった時……俺はまだ、49のままかもしれない)
そうしたら、俺はまた「お荷物」になる。
蒼太の足枷になる。
あの時、「銀の翼」の仲間たちに感じさせた重荷を、今度は俺が蒼太に背負わせるのか。
「……くそッ!」
アルディスは地面を殴った。
土と枯れ葉が爪の間に食い込む。
涙が滲んで、視界が歪む。
誰にも言えない。
ヴォルフにも、エリカにも。
ましてや、蒼太になど絶対に。
これは俺の問題だ。
俺の弱さだ。
あいつは何も悪くない。
あいつはただ、正しく努力し、正しく成長しているだけだ。
「……っ、うぅ……」
森の闇に紛れて、アルディスは声を殺して泣いた。
30歳手前の大人が、膝を抱えて子供のように。
ひとしきり泣いて、涙が枯れた頃。
アルディスは川辺へ戻り、顔を洗った。
冷たい水が、熱を持った瞼を冷やしてくれる。
(……戻ろう)
深呼吸を一つ。
鏡はないが、水面に映る自分の顔を確認する。
赤い目は暗闇で見えないはずだ。
表情を作る。
頼れる師匠の顔。
相棒を導く先輩の顔。
仮面を被れ。
心の内側がどれほどドロドロに溶け崩れていても、表面だけは鉄のように硬く、滑らかに。
それが、大人である俺が、蒼太にしてやれる唯一の誠実だ。
翌朝。
鳥のさえずりと共に、蒼太が目を覚ました。
「ん……おはようございます、アルディスさん」
「ああ、おはよう。よく眠れたか?」
アルディスは既に朝食の準備を終え、コーヒーを啜っていた。
いつもと変わらない光景。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔。
「はい! 昨日はレベルアップしたからか、体が軽くて」
「それは良かった。若いってのはいいな、回復が早くて」
アルディスは軽口を叩きながら、焼けたベーコンを皿に取り分ける。
その所作に、淀みはない。
だが、蒼太はふと、小首を傾げた。
「アルディスさん、顔色が少し悪くないですか? 目の下にクマが……」
「ん? ああ、昨夜は見張りで少し夜更かしをしたからな。気にするな」
アルディスは笑って、蒼太の頭をポンと撫でた。
大きく温かい手。
いつもの、安心できる手だ。
「さあ、食ったら出発だ。今日は渓谷の奥を探索するぞ」
「はいッ!」
蒼太は元気に返事をして、パンにかじりつく。
その横顔を見つめながら、アルディスは手元のブラックコーヒーを飲み干した。
舌に残る苦みが、今の自分にはお似合いだと思った。
二人の間にあるレベル差は、2つ。
数字にすれば僅かな差。
だがそこには、決して埋まることのない断絶が、口を開けて待っていた。




