第五話
魔狼討伐から、さらに二週間が経った。
アルディスたちの冒険者生活は順調そのものだった。
矢の自作によって経費は劇的に減り、狩りの効率は上がった。
ギルドでの評価も「弓使いの変人」から「凄腕の狙撃手」へと変わりつつある。
だが、新たな問題は突然やってきた。
ガキンッ!
硬質な音が森に響いた。
目の前では、巨大な亀――アイアンタートルが首を引っ込めている。
その甲羅に、蒼太の短剣が弾かれたのだ。
「あ……」
蒼太が呆然とした声を出す。
彼の手にある短剣は、半ばから無惨に折れていた。
「下がれ、蒼太!」
アルディスは即座に矢を放った。
狙うは甲羅の隙間、首の付け根。
吸い込まれるように飛んだ矢は、正確に急所を貫いた。
アイアンタートルが苦悶の声を上げ、動かなくなる。
「大丈夫か?」
アルディスが駆け寄る。
蒼太は怪我こそないものの、折れた短剣を悲しそうに見つめていた。
「すみません……俺の使い方が悪くて」
「いや、違う」
アルディスは折れた刃を拾い上げた。
断面がボロボロだ。金属疲労を起こしている。
「限界だったんだ。お前の成長に、武器が追いついていない」
ギルドから支給されたFランク用の短剣。
レベル28に到達した蒼太の脚力と踏み込みには、もう耐えられなかったのだ。
「帰ろう。武器屋に行かないと」
「ご愁傷様。こりゃ修復不可能だ」
武器屋のグレンは、カウンターに置かれた短剣を見て首を振った。
「安物の鉄だ。研いで誤魔化して使ってたんだろうが、芯までヒビが入ってる」
「……代わりの武器は?」
アルディスが尋ねる。
グレンは顎を擦りながら、棚から一本の短剣を取り出した。
「今の坊主のレベルなら、最低でも鋼鉄製……いや、ミスリル配合のがいいだろうな。これなら魔力伝導率もいい。魔法剣も使いやすくなるはずだ」
蒼太が息を呑む。
鈍く銀色に輝く刀身。見るからに業物だ。
「いくらだ?」
「金貨二枚」
「……ッ」
アルディスは絶句した。
金貨二枚。銀貨に直せば二百枚だ。
魔狼の毛皮で多少の蓄えはできたが、それでも全財産の半分以上が吹き飛ぶ。これからの矢の材料費や生活費を考えると、あまりに痛い出費だ。
「……もう少し、安いのはないか?」
「あるにはあるが……」
グレンは渋い顔をした。
「今の坊主の成長速度だと、鋼鉄製じゃまたすぐに折れるぞ。安物買いの銭失いになるだけだ」
正論だった。
蒼太の成長は異常だ。それに耐えうる武器となると、必然的に値が張る。
「……考えさせてくれ」
その場での購入を諦め、二人は店を出た。
帰り道、蒼太はずっと俯いていた。
「アルディスさん、俺……」
「気にするな」
アルディスは先回りして言った。
「武器は冒険者の命だ。必要な投資だ」
「でも、高すぎます。俺、また別の安い短剣で頑張りますから……」
「ダメだ」
アルディスは強く言った。
「武器が折れれば、お前が死ぬかもしれない。そんな危険は冒せない」
「……」
蒼太は唇を噛み締めた。
アパートに戻ると、重苦しい沈黙が流れた。
蒼太は部屋の隅で膝を抱えている。自分のせいでアルディスを困らせていると思っているのだろう。
アルディスは椅子に座り、天井を見上げた。
金貨二枚。
払えない額ではない。だが、払えば生活はギリギリになる。
もし怪我をしたり、不測の事態が起きれば詰む。
かといって、蒼太に安物を使わせるわけにはいかない。あいつは前衛だ。武器の性能が生死に直結する。
(どうすればいい……)
視線を巡らせる。
部屋の隅。
立てかけられた、一本の剣が目に入った。
父の形見の剣。
二十九年間、共に戦ってきた相棒。
手入れは欠かしていない。今でも美しい輝きを放っている。
Bランク剣士だった父が愛用していた業物だ。売れば、それなりの値がつくだろう。
(……売るのか?)
心の中の自分が問いかけてくる。
これは父さんの形見だ。俺が剣士であることの、最後の証だ。
これを手放したら、俺は本当に剣士ではなくなってしまう。
アルディスは剣を手に取った。
ずっしりとした重み。
柄に巻かれた革の、右手の親指が当たる部分だけが擦り切れている。それは、俺が二十九年間、何万回と素振りをしてきた証だ。父さんの教えを守り、必死に剣にしがみついてきた痕跡だ。
懐かしさと、微かな痛みが込み上げてくる。
だが。
(……今の俺には、もう重すぎる)
弓を持った時の、あの羽のような軽やかさはない。
ただ、過去のしがらみが詰まった重鉄の塊に感じられた。
アルディスは蒼太を見た。
膝を抱えて悩む少年の背中。
これから無限に伸びていく才能の塊。
俺が守ると誓った、新しい相棒。
過去の遺物と、未来の可能性。
どちらが大切かなど、比べるまでもなかった。
「……決めた」
アルディスは立ち上がった。
「アルディスさん?」
蒼太が顔を上げる。
「ちょっと出かけてくる。夕飯までには戻る」
「えっ、どこに……」
「散歩だ」
アルディスは剣を布で包み、背負った。
「留守番、頼むな」
「あ、はい……」
外に出ると、夕闇が迫っていた。
市場を抜け、再び武器屋へ向かう。
足取りは、不思議と軽かった。
「おう、どうした? 忘れ物か?」
店じまいをしていたグレンが、顔を上げた。
アルディスは背中の包みを解き、カウンターに置いた。
「これを、買い取ってほしい」
グレンは剣を抜き、刃文を確認してから、鋭い目でアルディスを見た。
「アルディス。俺は商売人だ。一度買い取ったら、あとで『やっぱり返してくれ』と言われても返せねえぞ。……本当にいいんだな?」
アルディスは迷わず頷いた。
「ああ。頼む」
「正気か? お前にとっちゃ、命の次に大事なもんじゃねえのかよ」
「……ああ、大事だったよ」
アルディスは剣を見つめた。
傷だらけの鞘。何度も研ぎ直された刃。
父の背中を追いかけて、必死に振るった記憶。
「でも、もう必要ない」
アルディスははっきりと言った。
「俺には今、守るべきものができた。過去の思い出よりも、そいつの未来の方が大事なんだ」
グレンは数秒間アルディスの目を見て、それからニヤリと笑った。
「……いい目になりやがって」
グレンがカチンと鞘に収めた。
「金貨三枚だ。それ以上は出せねえ」
「十分だ」
相場よりかなり高い。グレンなりの誠意だろう。
商談は成立した。
カウンターに置かれた三枚の金貨。
そして、ミスリル配合の短剣。
「あと、これもつけてやる」
グレンが革製の鞘メンテナンスキットを投げ渡してきた。
「おまけだ。大事に使えよ」
「……ああ。ありがとう」
店を出る時、一度だけ振り返った。
カウンターの奥に置かれた父の剣。
それが、どこか安堵しているように見えたのは、気のせいだろうか。
(さよなら、父さん)
心の中で呟く。
(俺は行くよ。新しい道へ)
アパートに戻ると、蒼太が心配そうに待っていた。
「アルディスさん、遅いです……」
「悪かった」
アルディスは包みを差し出した。
「ほら、受け取れ」
「え……?」
蒼太がおずおずと包みを開ける。
中から現れたのは、鈍く輝くミスリルの短剣。
「あ……これ……!」
蒼太が息を呑む。
「でも、どうして……お金、なかったんじゃ……」
「なんとかなったんだよ」
アルディスは笑った。
「ヘソクリを崩しただけだ。気にするな」
「嘘です! だって……」
蒼太の視線が、部屋の隅に向く。
いつもそこにあったはずの、父の剣がない。
「アルディスさん……まさか、剣を……」
蒼太の声が震えた。
「あれ、形見なんですよね? 大事なものなんですよね?」
「……ああ」
「だったら、どうして! 俺なんかのために!」
蒼太が泣きそうな顔で叫ぶ。
アルディスは、そっと蒼太の頭に手を置いた。
「お前『なんか』じゃない」
真っ直ぐに目を見て言う。
「俺は、お前の才能に賭けたんだ。この短剣は、その投資だ」
「投資……?」
「ああ。だから、強くなれ。あの剣よりも、もっと価値のある男になれ」
それは、半分は本心で、半分は照れ隠しだった。
でも、蒼太には伝わったようだ。
「……はい」
蒼太が短剣を胸に抱きしめ、涙を流しながら頷いた。
「絶対、強くなります。アルディスさんが後悔しないくらい、強くなります……!」
その夜。
二人で夕食を食べながら、蒼太が不意に口を開いた。
蒼太は、真新しいミスリルの短剣を、まるで壊れ物を扱うようにそっと撫でていた。
「……アルディスさん」
「ん?」
「これ、すごく高いものですよね。アルディスさんの大事なものと引き換えにした、一生モノですよね」
「ああ。だから大事に使えよ」
蒼太の手が止まる。
「……もし」
蒼太が顔を上げずに呟く。
「もし、いつか……僕が、どこか遠くに行かなきゃいけなくなったら。……この投資が無駄になったら、アルディスさんはどう思いますか?」
その言葉に、アルディスの手が止まった。
高価な短剣を受け取ったことで、「いつか裏切るかもしれない」という罪悪感が刺激されたのかもしれない。
アルディスは少し考えた。
蒼太がいなくなる。
その想像は、胸に鋭い痛みを走らせた。
だが、すぐに首を振る。
今の自分たちの関係は、損得ではない。信頼だ。
「お前が行かなきゃいけないなら、俺は送り出すよ」
アルディスは静かに言った。
「お前には、お前の人生がある。俺が引き止める権利なんてない。それに、投資が無駄になったなんて思わない」
「でも……」
蒼太の声が震えた。
「寂しいです」
「俺も寂しい。……だが、大切な人が自分の道を歩むのを邪魔するのは、もっと嫌だ」
蒼太が、涙を浮かべながらアルディスを見た。
「まあ、お前がいなくなる日なんて、まだ先の話だろ?」
湿っぽさを振り払うように、アルディスは笑った。
「今は、今を楽しもうぜ。せっかくいい武器が手に入ったんだ」
「……はい!」
蒼太が、涙を拭いて笑った。
夕食後、アルディスは一人で窓辺に立った。
部屋の隅にあったはずの、父の形見の剣。
もう、そこに影はない。
喪失感があるかと思ったが、意外なほど心は軽かった。
まるで、長く背負っていた重荷を下ろしたような。
(これでいい)
アルディスは、新しい短剣を嬉しそうに磨く蒼太を見た。
その横顔を見ているだけで、金貨三枚分の価値はあると思えた。
今の俺には、剣はいらない。
この手には弓があり、隣には相棒がいる。
それだけで、どこまでだって行ける気がした。
これが、アルディス・フェルナンドという一人の男が、真の意味で「剣士」を辞め、「弓使い」になった日だった。




