第四話
弓使いに転向してから、二週間が経った。
アルディスと蒼太の生活は、少しずつだが軌道に乗り始めていた。
朝日が窓から差し込む。いつもより少し早い時間だ。
目を覚ますと、台所からコトコトと鍋の音が聞こえてきた。
「……蒼太?」
アルディスは椅子から体を起こした。この二週間、ベッドは蒼太に譲り、自分は椅子で寝ている。最初は蒼太が「申し訳ない」と固辞したが、アルディスが「気にするな」と言い続けた結果、ようやく受け入れてくれた。
台所に行くと、蒼太が朝食の準備をしていた。
パンを焼き、卵を茹でている。テーブルにはチーズと、昨日買った果物が並んでいた。
「おはようございます」
蒼太が振り向いて、少し照れたように笑った。
「起こしちゃいましたか?」
「いや、ちょうどいい時間だ」
アルディスは蒼太の隣に立った。
蒼太の手つきは、二週間前よりも随分慣れていた。最初は包丁を持つのもぎこちなかったのに、今では手際よく動いている。
「上達したな」
「えへへ」
蒼太が嬉しそうに笑った。
この笑顔を見るのが、最近のアルディスの密かな楽しみになっていた。
二人で食卓に座り、朝食を食べる。
茹で卵とパン。シンプルだが、不思議と一人で食べるよりずっと美味い。
「今日は、東の丘に行く。野犬の討伐依頼だ」
「はい、頑張ります!」
朝食を終え、二人はギルドへ向かった。
街は朝から活気に満ちている。市場では商人たちが開店の準備をしていた。
ギルドに着くと、受付嬢のリナが笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、アルディスさん。蒼太君も」
「おはようございます」
二人が頭を下げる。
リナがクエストの確認書類を渡しながら、小声で言った。
「アルディスさん、最近調子いいみたいね。噂になってるわよ」
「噂?」
「『三十手前で弓に転向した男が、結構やるらしい』って」
リナがくすくすと笑う。
「最初は馬鹿にしてた人たちも、今は少し見直してるみたい」
アルディスは少し驚いた。
確かに、ギルドで受ける視線が変わってきた気がする。最初は嘲笑や憐れみだったのが、今は好奇心や興味に変わっている。
悪い気分じゃなかった。
「行くぞ、蒼太」
「はい!」
東の丘での野犬狩りは順調だった。
蒼太が索敵し、アルディスが射抜く。
野犬の群れ五匹を、相手に気づかれることすらなく殲滅した。
的確な狙撃。無駄のない動き。
剣士時代には感じたことのない、圧倒的な優位性。
だが、問題がないわけではなかった。
「……くそッ」
その夜。
アパートに戻り、家計簿をつけていたアルディスは、悔しげにペンを置いた。
今日の狩りで、苦い失敗をしたのだ。
不意に遭遇した「魔狼」。
格上の獲物だったが、隙をついて狙撃した。だが――安物の矢は、魔狼の硬い毛皮に弾かれたのだ。
矢が通じなければ、弓使いは無力だ。結局、逃げられるしかなかった。
「アルディスさん……」
横で食器を拭いていた蒼太が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……すまん。だが、このままじゃジリ貧だ」
「アルディスさん、どうしたんですか?」
「いや……矢代だ」
俺は羊皮紙に書かれた数字を指差した。
「今日の報酬は銀貨四枚。そこから矢の補充代で銀貨一枚半が消える」
「三分の一以上……結構大きいですね」
「ああ。剣士なら砥石代くらいで済むんだがな」
弓使いにとって、矢は命であり、同時に金食い虫だ。
適性Sの俺は百発百中で矢を無駄にしないが、それでも矢は消耗品だ。骨に当たって折れたり、羽が傷んで軌道が狂ったりする。
このペースで消費していくと、稼いだ報酬の半分近くが矢代で消えてしまう日も来るだろう。強い魔物と戦えばなおさらだ。
「……作るしか、ないか」
俺はポツリと漏らした。
「武器屋のグレンが言ってたんだ。『一流の弓使いは、自分で矢を作るもんだ』ってな」
既製品は高い上に、質もバラバラだ。重心がズレていたり、羽の付け方が甘かったりする。今の俺の感覚(適性S)には、その僅かなズレがノイズのように感じられていた。
自分で作れば、安く済むし、自分好みの矢に仕上げられる。一石二鳥だ。
「俺、手伝います!」
蒼太が元気よく手を挙げた。
「僕、目には自信があるんです。絶対に良い木を見つけてみせます」
「目か……」
「はい! 任せてください!」
根拠のない自信に見えたが、蒼太が言うと妙な説得力がある。
武器屋で俺の弓を見つけた時も、そうだった。こいつの「勘」は、バカにできない。
「わかった。じゃあ明日、グレンのところで道具を買ってから、森に行こう」
翌日。
グレンから矢作りの道具一式を買い込んだ俺たちは、いつもの森に入った。
「どうだ、ありそうか?」
「うーん……」
蒼太は真剣な顔で木々を見上げている。
時折、小首を傾げては、首を横に振る。
「あれはダメです。中が虫食いになってます」
「あれもダメ。曲がってます」
「あ、アルディスさん、あれ!」
蒼太が一本の細い木を指差した。
見上げると、何の変哲もない若木だ。だが、蒼太は確信に満ちた顔をしている。
「あれの、上から二番目の枝。あれが最高です」
「本当か?」
「はい。密度が高くて、芯が真っ直ぐ通ってます」
俺は木に登り、その枝を切り落とした。
手に取って確かめてみる。軽いのに、ずっしりとした密度がある。
指で弾くと、カンッ、と高く澄んだ音がした。
「……すごいな」
俺は思わず唸った。グレンの店で見た最高級の矢の素材よりも、ずっと質が良い。
「お前、本当によくわかったな」
「へへ、なんとなくです」
蒼太は照れくさそうに鼻の下を擦った。
「なんとなく」で、木の内部密度まで分かるはずがない。
蒼太には、俺には見えない「何か」が見えている。
だが、アルディスはそれ以上追求しなかった。
誰にでも秘密はある。こいつが俺を助けようとしてくれている。その事実だけで十分だった。
その夜から、俺たちの新しい日課が始まった。
夕食後、テーブルに材料を広げて矢を作る。
俺がナイフで枝を削り、形を整える。
蒼太が羽を切り揃え、糸で巻き付ける。
最後に鏃を取り付け、松脂で固める。
最初は不格好なものしか作れなかったが、二日、三日と続けるうちに、少しずつ様になってきた。
何より、作業をしている時間が心地よかった。
窓の外からは虫の声。部屋の中には、木を削る音と、時折交わす会話だけ。
「アルディスさん、ここの角度はどうですか?」
「もう少し鋭角だな。風を切るように」
「わかりました」
黙々と手を動かす。一つの目的に向かって、二人で協力する時間。
それが妙に嬉しくて、俺は削りかけの矢を見つめながら、つい口元を緩めた。
「アルディスさん、何笑ってるんですか?」
「いや……なんでもない」
「あ、またズルイ。教えてくださいよ」
「秘密だ」
数日後。
俺たちは完成した矢を持って、再び森へ入った。
標的は、森の奥に棲む「魔狼」。
先日、俺が矢を弾かれ、逃げられた因縁の相手だ。
「蒼太、下がってろ。今度は逃がさない」
「はい……!」
アルディスは真新しい矢をつがえた。
自分の手で削り、蒼太が羽をつけた矢。指先に伝わる感触が、今までとは違う。
重み。密度。指に吸い付く感覚。
茂みから、獣が姿を現した。
あの時と同じ、黒い巨体。
魔狼がこちらに気づき、咆哮を上げる。
(これなら……通る!)
呼吸を整える。
弦を引き絞る。
放つ。
ヒュンッ!
空気を切り裂く鋭い音。安物の矢のようなブレは微塵もない。
矢は美しい軌道を描き――
ドスッ!!
前回は弾かれた硬い眉間を、バターのように貫いた。
深々と突き刺さる矢。
魔狼は悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
「……すごい!」
蒼太が歓声を上げた。
アルディスは弓を下ろし、自分の手を見た。
確かな手応え。
市販の矢よりも飛びが鋭く、ブレがない。
何より、「自分たちで作った」という愛着が、集中力を極限まで高めてくれる。
「ああ。これなら、いける」
俺たちの武器は、俺たちで作る。
それが、俺と蒼太の絆をより深めていった。
それからの日々は、飛ぶように過ぎていった。
朝起きて、共に食事を摂り、森へ向かう。
昼は狩りに精を出し、夜は肩を並べて矢を作る。
単調だが、充実した毎日。
積み重ねた時間は、確かな「力」となって俺たちの体に刻まれていった。
そうして、一ヶ月が過ぎた。
季節は春から初夏へ移ろい始めていた。
ギルドの訓練場。
俺は一日の狩りを終え、最後の確認をしていた。
三十メートル先で不規則に動く的。
目では追わない。気配で捉え、射抜く。
ドスッ!
的のど真ん中。
「よし」
俺は息を吐き、視界の隅でステータスプレートを確認する。
アルディス・フェルナンド
職業:弓使い
Lv:45
レベル四十五。
かつて、五年間一日も休まず鍛錬しても動かなかったレベル三十七の壁。
それが、たった一ヶ月で八つも上がっていた。
剣を振っていた頃の俺が見たら、腰を抜かすだろう。
(俺は、強くなっている)
確かな実感が、拳の中にあった。
「はっ! やっ!」
隣のスペースでは、蒼太が短剣の修練をしていた。
鋭い踏み込み。流れるような刺突。
レベル一だった少年も、既にレベル二十八に到達している。通常の冒険者なら三年はかかる領域だ。
俺の指導が良いからか、それともこいつ自身の才能か。おそらく、両方だろう。
「ふぅ……」
蒼太が汗を拭いながら戻ってくる。
「アルディスさん、どうでした?」
「悪くない」
「本当ですか! やった!」
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
一ヶ月前、路地裏で死にかけていた少年。
全てを失って途方に暮れていた俺。
二人の出会いが、互いの運命を変えた。
「帰ろうか、蒼太」
「はい!」
夕暮れの街を、二人で歩く。
背中には弓と、自作の矢が詰まった矢筒。
隣には、信頼できる相棒。
俺は空を見上げた。
一番星が、薄紫色の空に瞬いている。
かつての俺は、あの星を見上げても「遠い」としか思わなかった。
手なんて届かない。見上げるだけの存在。
でも今は――
(射抜けるかもしれない)
そんな不遜な思いが、頭をよぎる。
今の俺たちなら、どこまでだって行ける。
そんな予感がした。
「今日の夕飯、何にしますか?」
「そうだな。魔狼の肉が手に入ったから、焼くか」
「やった! アルディスさんの焼き加減、最高なんですよね」
他愛ない会話。
それが何よりも愛おしい。
俺たちの新しい生活は、まだ始まったばかりだ。




