第二話
蒼太を拾ってから三日が経った。
少年の顔色は随分良くなり、頬にも少し肉がついてきた。アルディスが毎日三食きちんと食べさせた成果だろう。
「アルディスさん、もう大丈夫です」
朝、ベッドから起き上がった蒼太が申し訳なさそうに言った。
「無理するな。まだ本調子じゃないだろう」
「でも、ずっとベッドを占領してるのは悪いです。俺、床で寝ます」
「バカ言え」
アルディスは蒼太の頭を軽く叩いた。
「お前はまだ回復中だ。ベッドで寝てろ。俺は椅子で十分だ」
「でも……」
「いいから」
アルディスは有無を言わせぬ口調で言った。蒼太は、小さく頷いた。
実際、アルディスは椅子で寝ることに慣れていた。冒険者時代、野宿も珍しくなかった。これくらい、どうということはない。
それから一週間。
蒼太は少しずつ、アルディスの生活に馴染んでいった。
朝、アルディスが起きると、蒼太はもう起きて部屋の掃除をしている。最初は止めようとしたが、蒼太が「何もしないと落ち着かない」と言うので、そのままにした。
朝食はアルディスが作る。パンと目玉焼き。シンプルだが、蒼太は毎回「美味しい」と言って食べてくれた。
食後、アルディスは市場へ買い出しに行く。蒼太も付いてくるようになった。
「この街、すごいですね」
蒼太が目を輝かせながら言った。
「何がだ?」
「人がたくさんいて、みんな活気があって」
「そうか? 普通だと思うけどな」
アルディスには見慣れた光景だったが、蒼太にとっては新鮮なのだろう。
露店を見て回る蒼太の横顔は、少年らしい好奇心に満ちていた。
ある日、武器屋の前を通りかかった時だった。
「あ」
蒼太が立ち止まった。
「どうした?」
「あれ……」
蒼太が指差したのは、露店の隅に無造作に置かれた弓だった。
木製の長弓。表面は傷だらけで、弦も古びている。誰も欲しがらないような、みすぼらしい代物だ。
「弓か」
アルディスは興味なさそうに言った。
「弓使いは珍しいからな。需要がないんだ」
実際、ギルドでも弓使いは少数派だった。剣士や魔法使いに比べて、圧倒的に人気がない。理由は単純で、弱いからだ。適性が低ければ命中率も低く、矢代もかさむ。誰も好んで選ばない武器だった。
「でも……」
蒼太が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「ん? どうした?」
「……いえ、何でもないです」
蒼太は俯いた。
アルディスは少し気になったが、それ以上聞かなかった。
その夜、部屋で夕食を食べていると、蒼太が不意に口を開いた。
「アルディスさん」
「ん?」
「あの……聞いてもいいですか?」
「ああ」
蒼太が、少し迷ってから言った。
「アルディスさんは、どうして剣を使ってるんですか?」
アルディスは手を止めた。
「どうしてって……俺は剣士だからだ」
「でも……」
蒼太が言葉を選ぶように続けた。
「もし、他の武器の方が合ってたら、どうしますか?」
「他の武器?」
「例えば……弓とか」
アルディスは少し考えた。
「考えたこともないな。俺は子供の頃から剣を習ってきたし、今更変えるつもりもない」
父が剣士だった。だから、自分も剣士になった。それだけのことだ。
「でも、試してみたことは?」
「ない」
アルディスは首を横に振った。
「それに、弓は……あまり良い評判を聞かないしな」
王国では三百年前、弓の名手が王を暗殺した事件があった。以来、弓は「卑怯者の武器」として蔑まれている。表立って禁止されているわけではないが、冒険者の間でも敬遠される傾向があった。
蒼太が、少し悲しそうな顔をした。
「……そうですか」
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
「……いえ」
蒼太は首を横に振った。
「ただ、気になっただけです」
アルディスは蒼太の表情を見て、何か引っかかるものを感じた。
でも、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
翌朝。
アルディスが目を覚ますと、蒼太がベッドに座って何かを見つめていた。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
蒼太が慌てて顔を上げた。
「どうした? 何を見てたんだ?」
「……いえ、何も」
蒼太は誤魔化すように笑った。
アルディスは少し気になったが、朝食の準備を始めた。
パンを焼き、卵を焼く。いつもの朝だ。
二人で食事をしながら、アルディスは今日の予定を考えていた。
ギルドに行って、何か簡単なクエストでも受けるか。
金は減る一方だ。そろそろ働かないと、本当に生活できなくなる。
でも、蒼太を一人で置いていくのは心配だった。
「なあ、蒼太」
「はい」
「お前、ギルドに行ってみるか?」
蒼太が目を丸くした。
「ギルド……ですか?」
「ああ。冒険者が集まる場所だ。お前もこの街で暮らすなら、知っておいた方がいい」
「……はい!」
蒼太が嬉しそうに頷いた。
ギルドは街の中心部にあった。
石造りの大きな建物。入り口には「冒険者ギルド」の看板が掲げられている。
中に入ると、広いホールに大勢の冒険者たちが集まっていた。
剣を背負った戦士。杖を持った魔法使い。弓を担いだ狩人。様々な装備の冒険者たちが、クエストの話や戦果の自慢をしている。
「すごい……」
蒼太が小さく呟いた。
「ここがギルドだ」
アルディスは受付に向かった。
受付嬢のリナが、いつもの笑顔で迎えてくれた。
「あら、アルディスさん。久しぶり」
「ああ、久しぶり」
リナは茶色の髪をお団子にまとめた、明るい雰囲気の女性だ。アルディスが剣士時代からの知り合いで、何かと世話を焼いてくれる。
「その子は?」
リナが蒼太を見て言った。
「……知り合いだ。少し、ギルドを見せようと思って」
「そう。可愛い子ね」
リナが微笑んだ。蒼太が少し照れたように俯いた。
「それで、今日はクエスト?」
「ああ。何か簡単なのはないか?」
「簡単なの?」
リナが少し意外そうな顔をした。
「アルディスさんなら、もっと難しいクエストでも大丈夫だと思うけど」
「いや、今はあんまり危険なのは避けたい」
「……そう」
リナは何か察したようだった。
「じゃあ、これは? 街の外れで野犬が出るって報告があるの。討伐してくれたら、報酬は銀貨二枚」
「それでいい」
アルディスはクエストを受け取った。
ギルドを出ようとした時、掲示板の前で蒼太が足を止めた。
「どうした?」
「あの……これ」
蒼太が指差したのは、求人の張り紙だった。
「武器屋グレン、見習い募集。住み込み可」
「ああ、グレンの店か。あそこはいつも人手不足だからな」
「アルディスさん、俺……」
蒼太が真剣な顔で言った。
「働きたいです」
「働く?」
「はい。アルディスさんにずっと世話になってるわけにはいきません」
「別に、気にしなくていいぞ」
「でも……」
蒼太の声が震えた。
「俺、何もできないんです。アルディスさんの役に立ちたいのに」
アルディスは蒼太の肩に手を置いた。
「お前は十分、役に立ってる」
「え……」
「お前がいてくれるだけで、俺は助かってるんだ」
アルディスは本心からそう言った。
一人で部屋にいた時の、あの空虚な感覚。
それが、蒼太がいることで少し和らいでいた。
「だから、焦るな。まずは体力を戻すことが先だ」
「……はい」
蒼太が小さく頷いた。
街の外れ。
野犬の群れが現れた場所は、廃屋が並ぶ寂れた一角だった。
「ここか」
アルディスは剣を抜いた。
蒼太は少し離れた場所で待っている。
「何かあったら、すぐに逃げろ」
「はい」
アルディスは廃屋の中に入った。
薄暗い。窓から差し込む光だけが頼りだ。
奥から、低い唸り声が聞こえた。
野犬だ。
三匹。痩せこけた体で、目は血走っている。飢えているのだろう。
一匹がアルディスに飛びかかってきた。
アルディスは剣を振るった。
切っ先が野犬の首を捉える。
一撃で倒れた。
残り二匹も同じように倒す。
あっけなかった。
レベル三十七の剣士にとって、野犬程度は相手にもならない。
でも――
アルディスは剣を鞘に収めながら、虚しさを感じていた。
これでいいのか?
こんな簡単なクエストを、これからずっと続けるのか?
かつてパーティで挑んでいたような、高難度のダンジョン。あの緊張感。達成感。仲間と共に困難を乗り越える喜び。
もう、二度と味わえないのか?
胸に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。まるで、自分だけが取り残されたような。
「アルディスさん!」
蒼太の声で、我に返った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、終わった」
アルディスは無理に笑顔を作った。
「帰るぞ」
その帰り道。
蒼太が、また例の武器屋の前で足を止めた。
「……また、あの弓か」
アルディスは苦笑した。
「お前、弓が好きなのか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
蒼太が何か言いかけて、また口をつぐんだ。
「なんだよ、はっきり言えよ」
「……あの」
蒼太が意を決したように言った。
「アルディスさん、一度だけでいいので、弓を撃ってみませんか?」
「弓を?」
「はい」
蒼太の目は、真剣だった。
「どうしてそんなに弓にこだわるんだ?」
「……わからないです。でも、なんとなく」
蒼太が俯いた。
「アルディスさんには、弓が合ってる気がするんです」
アルディスは少し考えた。
弓。
確かに、興味がないわけではなかった。
遠距離から敵を狙撃する。剣とは違う戦い方。
でも、弓は卑怯者の武器だと言われている。
それに、今更武器を変えて――
「……一回だけだ。試しに撃ってみる」
蒼太の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「ああ。でも、期待するなよ。俺は剣士だ。弓なんて撃ったことないんだからな」
「はい!」
蒼太が嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見て、アルディスは少しだけ心が軽くなった。誰かがこんなに喜んでくれる。それだけで、弓を試してみる価値はあるかもしれない。
武器屋の店主、グレンは太った中年男だった。
いつも汗をかいていて、商売人らしい愛想の良い笑顔を浮かべている。
「おう、アルディス。久しぶりだな」
「ああ」
「今日はどうした? 剣の手入れか?」
「いや……その、弓を見せてくれ」
「弓?」
グレンが意外そうな顔をした。
「お前が弓をねえ。珍しいこともあるもんだ」
「試しに撃ってみたいだけだ」
「ああ、いいぜ。あの露店のやつか?」
グレンは店の奥から、例の古びた弓を持ってきた。
「こいつ、もう三年も売れ残っててな。五銀貨でいいや」
「五銀貨……」
アルディスは懐の財布を確認した。
ぎりぎり、払える。
「矢は?」
「ああ、矢は一本五銅貨だ。十本で五十銅貨な」
「結構するな」
「弓使いは矢代がバカにならないからな。魔法と違って、矢は消耗品だ」
グレンが肩をすくめた。
「しかも適性が低いと命中率も悪い。外した矢は回収できても、折れたり失くしたりする。報酬の三割が矢代で消えるなんてザラだ」
「そんなに……」
「だから、弓使いは儲からないんだよ。剣士や魔法使いを選んだ方が賢いってもんさ」
アルディスは五銀貨を払い、弓と矢十本を買った。
これで、残りの貯金はさらに減った。もう後がない。
でも――
弓を手に取った瞬間、不思議な感覚があった。
手に馴染む。
まるで、ずっと昔から持っていたような。いや、待っていたような。
心臓が、少しだけ早く打った。
「……試してみるか」
「ああ、訓練場を使っていいぜ。裏にあるから」
グレンが店の裏を案内してくれた。
そこには簡単な的が置かれた、小さな訓練場があった。
「ここで好きなだけ撃ってくれ」
「ありがとう」
アルディスは弓を構えた。
初めて持つ武器。
でも、不思議と違和感はなかった。むしろ、自然だった。
矢をつがえる。
弦を引く。
肩、肘、手首。体の軸がひとりでに整っていく。
狙いを定める。
五十メートル先の的。
風はない。晴れた日の午後。条件は悪くない。
呼吸を整える。
心を静める。
放つ――
弦が指を離れた瞬間、時間が止まったように感じた。
矢が、真っ直ぐに飛んだ。
空気を切り裂く音。
そして。
的の中心を、正確に貫いた。
ずん、という鈍い音。
アルディスは息を呑んだ。
「……え?」
自分でも信じられなかった。
初めて撃った矢が、真ん中に。
しかも、迷いなく。
「すごい!」
蒼太が叫んだ。
「当たりました! ど真ん中です!」
「……まぐれだ」
アルディスはもう一本、矢をつがえた。
今度は、慎重に狙う。
放つ。
また、中心。
三本目。
中心。
四本目。
中心。
五本目――
すべて、的の中心を射抜いた。
アルディスは弓を下ろし、自分の手を見つめた。
震えている。
でも、恐怖ではない。
これは――
興奮だ。
高揚だ。
何かを掴んだという、確信だ。
「なんだ、これ……」
アルディスは呟いた。
二十九年間、剣を握り続けてきた。
父の形見の剣を、ずっと大切にしてきた。
でも、一度も感じたことがなかった。
この、体の奥底から湧き上がってくるような感覚。
弓が、自分の体の一部になったような一体感。
まるで、ずっと探していたものを、ようやく見つけたような。
失くした何かを、取り戻したような。
「アルディスさん」
蒼太が、満面の笑みで言った。
「やっぱり、アルディスさんには弓が合ってます」
「どうして……」
アルディスは蒼太を見た。
少年の目は、確信に満ちていた。まるで、最初からこうなることを知っていたような。
「どうして、お前はそう思ったんだ?」
「……勘です」
蒼太が少し誤魔化すように笑った。
「でも、すごいです。初めてなのに、全部真ん中に当てるなんて」
グレンが店の奥から出てきた。
「おいおい、マジかよ」
グレンが的を見て、目を丸くした。
「お前、本当に初めてか?」
「ああ」
「嘘だろ……」
グレンが呆れたように言った。
「お前、弓の適性あるんじゃねえか?」
「適性?」
「ああ。ギルドで適性検査、受けてみろよ。もしかしたら、高いかもしれねえぞ」
アルディスは弓を見つめた。
この感覚。
これが、適性というものなのか。
剣では感じたことのなかった、確かな手応え。
「……行ってみるか」
アルディスは蒼太を見た。
「ギルドに、もう一度行こう」
「はい!」
蒼太が嬉しそうに頷いた。
その目は、何かを確信したような光を湛えていた。
ギルドに戻ると、リナが驚いた顔をした。
「あら、また来たの?」
「ああ。適性検査を受けたい」
「適性検査? でも、アルディスさんは剣で検査済みじゃ……」
「弓だ。弓の適性を調べたい」
リナが目を丸くした。
「弓? アルディスさんが?」
「ああ」
「……わかったわ。じゃあ、検査室に来て」
ギルドの奥にある、小さな部屋。
そこには魔法陣が描かれた台座があった。
「ここに手を置いて」
リナが言った。
アルディスは台座に手を置いた。
魔法陣が淡く光る。
しばらくして、光が消えた。
リナが魔法陣の結果を読み取る。
その顔が、みるみる驚愕に染まった。
「……嘘でしょ」
「どうした?」
「アルディスさん、あなた……」
リナが震える声で言った。
「弓の適性、Sよ」
「S?」
「そう。最高ランクのS」
リナが信じられないという顔でアルディスを見た。
「しかも、剣の適性はC。完全に武器を間違えてたのね」
アルディスは言葉を失った。
適性S。
最高ランク。
それが、弓に。
自分が二十九年間、見つけられなかった才能。
それが、今ここにある。
「アルディスさん……」
リナが静かに言った。
「あなた、本気で弓に転向する気はない?」
「……わからない」
アルディスは正直に答えた。
「でも、さっき弓を撃った時、確かに何かを感じた」
「そう……」
リナが少し考えてから言った。
「もし転向するなら、手続きが必要よ。武器変更届を出して、ギルドに登録し直すの」
「今すぐ決めなきゃいけないのか?」
「いいえ。ゆっくり考えて」
リナが微笑んだ。
「でも、私は応援するわ。あなたが本当にやりたいことを」
「……ありがとう」
アルディスは礼を言って、ギルドを出た。
外に出ると、蒼太が待っていた。
「どうでした?」
「……Sだった」
「やっぱり!」
蒼太が嬉しそうに言った。
「アルディスさん、すごいです!」
「でも、まだ決めたわけじゃない」
アルディスは弓を見つめた。
「剣を捨てて、弓に転向する。それは、今までの自分を否定することになる」
「そんなことないです」
蒼太が真剣な顔で言った。
「アルディスさんが弓を選ぶことは、新しい自分を見つけることです」
「新しい自分……」
「はい。アルディスさんは、もっと強くなれます」
蒼太の言葉が、胸に響いた。
もっと、強く。
剣では辿り着けなかった場所へ。
弓なら、行けるかもしれない。
「……考えさせてくれ」
アルディスは言った。
「今日は、もう帰ろう」
「はい」
二人は並んで、アパートへの道を歩いた。
夕日が、街を赤く染めている。
春の風が、少しだけ温かくなってきた。
アルディスは、自分の中で何かが変わり始めているのを感じていた。
それが何なのか、まだはっきりとはわからない。
でも――
確かに、何かが動き出している。
その夜。
部屋に戻ると、アルディスは弓を壁に立てかけた。
蒼太は夕食の準備を手伝いながら、時々弓を見ている。
「なあ、蒼太」
「はい」
「お前、どうして弓を勧めたんだ?」
蒼太が手を止めた。
「……勘です」
「勘か」
アルディスは苦笑した。
「でも、お前の勘は当たったな」
「……はい」
蒼太が少し嬉しそうに微笑んだ。
夕食を食べ終え、蒼太が眠った後。
アルディスは一人、弓を見つめていた。
父の剣が、部屋の隅に立てかけてある。
二十九年間、自分を支えてきた武器。
父の形見。
でも――
弓を持った時の、あの感覚。
あれは、剣では決して得られなかったもの。
アルディスは深く息を吐いた。
「父さん、ごめん」
小さく呟く。
「でも、俺は……」
答えは、まだ出ない。
でも、確かに心は動いている。
窓の外では、星が瞬いていた。
長い夜が、静かに更けていく。
明日になれば、また朝が来る。
その時、自分はどんな答えを出しているだろうか。
アルディスは目を閉じた。
心の中で、弓を撃つ感覚を何度も反芻する。
的を射抜く瞬間の、あの確かな手応え。
それが、夢の中でも繰り返された。




