第二十七話
焚き火が、パチパチと音を立てている。
二人は、無言で火を見つめていた。
言葉が、出てこない。
何を話せばいいのか、わからない。
明日の夜には、別れる。
そう思うと、何を言っても薄っぺらく感じてしまう。
アルディスが、口を開いた。
「……なあ」
「はい」
蒼太が顔を上げる。
アルディスは、しばらく黙っていた。
何かを言おうとして、でも言葉が見つからない。
「……やっぱり何でもない」
アルディスが、視線を火に戻す。
蒼太も、何も言わなかった。
言葉にならない想いが、胸の中で渦を巻いている。
しばらくして、蒼太が口を開いた。
「アルディスさん」
「ん?」
「初めて会った時のこと、覚えてますか?」
アルディスが、少し笑った。
「ああ。覚えてるよ」
「お前、路地裏で倒れてたな」
「はい」
蒼太が頷く。
「あの時、本当に死ぬかと思いました」
「三日間、何も食べてなくて」
「魔物に追われて、必死で逃げて」
「気がついたら、あの路地裏にいました」
あの日のことを、今でも鮮明に覚えている。
衰弱しきった体。
冷たい石畳。
もう動けない、と思った瞬間。
誰かの足音が聞こえた。
顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。
それが、アルディスだった。
「でも、アルディスさんが助けてくれて」
蒼太が言う。
「部屋に連れて行ってくれて」
「シチューを、作ってくれて」
涙が、目に滲む。
「あの時のシチュー、すごく美味しかったです」
「泣きながら食べてたな、お前」
アルディスが苦笑いする。
「最初は言葉も通じなくて、苦労したよ」
「お前、変な言葉ばかり喋ってたし」
「すみません」
蒼太が笑う。
「でも、アルディスさん、嫌な顔一つしなかったです」
「……そうか?」
「はい。ずっと優しかった」
二人は、しばらく思い出話をした。
初めてのクエスト。
ゴブリンに囲まれて、蒼太がパニックになった時。
アルディスが全部倒してくれた時。
「大丈夫か!?」と叫びながら駆け寄ってきた時。
「あの時、本当に情けなかったです」
「初心者なんだから仕方ないだろ」
「でも、アルディスさんは俺を責めなかった」
「責めてどうする。お前は悪くない」
アルディスが言う。
蒼太は、その言葉を噛みしめた。
いつも、そうだった。
アルディスさんは、いつも自分を責めなかった。
守ってくれた。
育ててくれた。
「弓、勧めて良かったです」
蒼太が言った。
「あの時、アルディスさんに弓を勧めた時」
「最初は半信半疑だったな」
「でも、的に当たった瞬間」
「アルディスさんの顔、すごく驚いてました」
「そりゃ驚くだろ」
アルディスが笑う。
「初めて弓を引いて、50メートル先の的に当たったんだから」
「お前が教えてくれなかったら」
「俺はずっと、間違った道を歩いてた」
「剣にしがみついて、何者にもなれないまま」
蒼太が首を振る。
「アルディスさんは、最初から英雄でした」
「僕が気づかせただけです」
「……そうか?」
「はい。才能はずっとあった」
「僕は、それを見つけただけ」
アルディスが、懐から何かを取り出した。
懐中時計。
父親の形見だ。
蓋の裏には、家族の写真が入っている。
「これ、持って行くか?」
アルディスが、蒼太に差し出す。
「え……いいんですか?」
蒼太が驚く。
「お前が持ってろ」
「向こうに帰っても、これを見れば俺のことを思い出せるだろ」
蒼太は、懐中時計を見つめた。
大切なもの。
アルディスさんにとって、とても大切なもの。
父親の形見。
「でも……」
蒼太が言う。
「これ、アルディスさんの大切な……」
「だからこそ、お前に持っていてほしいんだ」
アルディスが言う。
でも、蒼太は首を振った。
「だめです」
「アルディスさんが、持っていてください」
「でも……」
「僕は」
蒼太が、アルディスを見つめる。
「アルディスさんの背中を、心に焼き付けますから」
「物がなくても、忘れません」
「アルディスさんのこと、絶対に」
アルディスの目が、潤んだ。
「……そうか」
「はい」
懐中時計は、アルディスの懐に戻った。
蒼太は、ふと思い出した。
昨夜のこと。
エトワールに会う前の夜。
手紙を書こうとしていた。
アルディスさんへの手紙。
感謝の言葉を、全部書こうと思った。
でも、書けなかった。
「ありがとう」
その五文字しか、書けなかった。
それ以上の言葉が、見つからなかった。
言葉じゃ、足りない。
この一年間の感謝を、言葉で表すことなんてできない。
だから、破り捨てた。
代わりに、心に刻もうと思った。
アルディスさんのすべてを。
背中を。
笑顔を。
優しさを。
アルディスが、静かに言った。
「なあ、蒼太」
「はい」
「向こうに帰ったら、ちゃんと生きろよ」
その言葉が、蒼太の胸に響いた。
「……はい」
「母さんの墓参り、してやれ」
「……します」
「それで、友達作って」
「学校にも行って」
「普通の人生を歩め」
アルディスの声が、少し震えていた。
「お前は、まだ若いんだ」
「これから、いくらでもやり直せる」
「だから、諦めるな」
「逃げるな」
「前を向いて、歩け」
蒼太の涙が、溢れた。
「……はい」
「約束だぞ」
「……約束、します」
蒼太が、声を震わせながら答えた。
夜が、更けていく。
焚き火が、少しずつ小さくなっていく。
蒼太の瞼が、重くなってきた。
「眠いか?」
アルディスが聞く。
「少し……」
「寝ろ。明日は、長い一日になる」
「でも……」
「いいから」
アルディスが、自分のコートを蒼太にかける。
「俺が見張ってるから」
蒼太は、抵抗できなかった。
体が、限界だった。
昨夜も、ほとんど眠れていない。
二晩連続で、起きていられるほど強くない。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
蒼太は、アルディスに寄りかかったまま、眠りに落ちた。
蒼太の寝息が聞こえてきた。
規則正しい、穏やかな呼吸。
アルディスは、蒼太の寝顔を見つめた。
あどけない顔。
まだ、十五歳だ。
たった十五歳で、こんな苦労をして。
でも、強くなった。
この一年で、本当に強くなった。
アルディスは、顔を上げた。
星空を見つめる。
無数の星。
その中の一つが、特に強く輝いている。
明日の夜、あの星が他の星と重なる。
そして、門が開く。
蒼太が、帰る。
この子が、いなくなる。
涙が、頬を伝った。
アルディスは、声を殺して泣いた。
蒼太を起こさないように。
「……嫌だな」
小さく呟く。
「本当は、行かせたくない」
「ずっと一緒にいたい」
「お前と、ずっと冒険したい」
でも、それは言えない。
「それを言っちゃ、いけないんだ」
「俺は、大人だから」
「お前の未来を、邪魔しちゃいけない」
涙が、止まらなかった。
声を殺して、泣き続けた。
蒼太の寝顔を見つめながら。
どれくらい泣いただろう。
やがて、涙が枯れた。
アルディスは、蒼太の頭を撫でた。
柔らかい黒髪。
「……元気でな」
小さく呟く。
「向こうでも、頑張れよ」
「お前なら、大丈夫だ」
「俺が保証する」
蒼太は、何も聞いていない。
安らかに眠っている。
でも、アルディスは言い続けた。
言わずにはいられなかった。
空が、少しずつ明るくなってきた。
東の空が、白み始めている。
夜明けが近い。
アルディスは、空を見上げた。
「……朝か」
最後の朝が、来る。
蒼太が帰る日の、朝が。
アルディスは、深呼吸をした。
泣いた顔を、見せるわけにはいかない。
笑顔で、送り出すんだ。
それが、俺にできる最後のことだから。
雪山が、朝日に照らされ始めた。
オレンジ色の光。
美しい景色。
蒼太が、目を覚ました。
「……朝ですか」
「ああ。朝だ」
アルディスが答える。
蒼太が、アルディスの顔を見上げた。
一瞬、何かを感じたようだった。
目が、少し赤い気がする。
でも、何も言わなかった。
聞かない方がいい。
そう思ったから。
「今日ですね」
蒼太が言う。
「ああ。今日だ」
アルディスが答える。
二人は、朝日を見つめていた。
最後の朝日を。
別れの日の、朝日を。
朝食を作った。
最後の朝食。
いつものシチュー。
蒼太が、それを口にした。
「……美味しいです」
「そうか」
「アルディスさんのシチュー」
「もう、食べられなくなりますね」
蒼太の声が、震える。
アルディスは、何も言えなかった。
ただ、蒼太の頭を撫でた。
荷物をまとめる。
といっても、もう残りは少ない。
蒼太が持っていくものは、何もない。
向こうの世界には、持っていけない。
エトワールが、そう言っていた。
肉体だけが、転移する。
物は、残る。
「これ」
蒼太が、短剣をアルディスに渡した。
「お前の武器だろ」
「向こうでは、使えません」
「アルディスさんに、持っていてほしいです」
アルディスは、短剣を受け取った。
蒼太が、ずっと使っていた短剣。
一緒に戦った、相棒。
「……わかった。預かっておく」
「はい」
蒼太が、笑った。
悲しいけど、温かい笑顔。
準備が終わった。
二人は、遺跡へ向かった。
星の門へ。
別れの場所へ。
足が重い。
でも、進むしかない。
これが、二人の選んだ道だから。
エトワールの試練を乗り越えて、選んだ道だから。
「行くか」
アルディスが言う。
「はい」
蒼太が答える。
二人は、遺跡の中へ入っていった。
最後の時へ向かって。




