第二十六話
エトワールの瞳が、アルディスを捉えている。
逃げられない。
心の奥底まで、見透かされている。
すべてが、曝け出される。
「問おう」
エトワールが言う。
「お前は、この子を本当に手放せるのか?」
その問いが、アルディスの胸を貫いた。
手放せるのか。
蒼太を。
この一年間、共に過ごしてきた子を。
朝食を一緒に食べて。
クエストに一緒に行って。
夜は一緒に眠って。
笑い合って、時には泣いて。
かけがえのない日々を過ごした、この子を。
「……ああ」
アルディスが答える。
だが、声が震えていた。
エトワールの目が、鋭くなる。
「嘘をつくな」
「お前の心は、泣いている」
アルディスの体が、びくりと震えた。
見透かされている。
すべて。
沈黙が、流れた。
やがて、アルディスが口を開く。
「……そうだ」
「俺は、こいつと別れたくない」
本音が、こぼれ出た。
「この一年で、こいつは俺の……俺の大切な存在になった」
「手放したくない。ずっと一緒にいたい」
「でも」
アルディスが、拳を握る。
「こいつには、帰る場所がある」
「俺が引き留めてはいけないんだ」
エトワールが、問いを重ねる。
「何故だ?」
「何故、お前は自分を犠牲にする?」
アルディスが、苦笑いする。
「……こいつは、まだ若い」
「十五歳だ。これから先、もっと広い世界を見るべきだ」
「俺と一緒にいても、こいつの人生を狭めるだけだ」
「お前は、自分を卑下しすぎている」
エトワールが言う。
「わかってる」
アルディスが答える。
「でも、これが俺の答えだ」
エトワールが、さらに問う。
「では、なぜお前はこの子を育てた?」
「別れるとわかっていながら、なぜ一年も共にいた?」
アルディスの目に、涙が滲んだ。
「……俺は、パーティを解散した時」
「もう誰の役にも立てないと思ってた」
「また誰かの足を引っ張る。そう思ってた」
七年間、仲間の足手纏いだった記憶。
剣士として限界を悟った夜。
解散の夜、泣きながら乾杯した記憶。
「でも、そんな時に」
アルディスが、蒼太を見る。
「こいつが現れた」
「路地裏で、死にかけていたこいつを、拾った」
その夜のことを、今でも覚えている。
衰弱しきった少年。
見知らぬ言葉を話す、怯えた目。
でも、シチューを食べた時。
涙を流しながら、「美味しいです」と言ってくれた。
「こいつは、俺を必要としてくれた」
「俺の弓を信じてくれた」
「だから、こいつが帰れるその日まで」
「全力で守ろうと思った」
「それが、俺にできる唯一のことだと思ったから」
エトワールが、長い沈黙の後に言った。
「……良い答えだ」
エトワールの視線が、今度は蒼太に向く。
「次は、お前だ」
「転移者よ」
蒼太の体が、強張った。
「お前は、本当にこの男を置いて行けるのか?」
その問いが、蒼太の心を抉った。
置いて行く。
アルディスを。
路地裏で死にかけていた自分を拾ってくれた人を。
弓を教えてくれた人を。
生きる意味を教えてくれた人を。
「……僕は」
蒼太が、声を絞り出す。
「日本に帰らなきゃいけないんです」
「何故だ?」
エトワールが問う。
「母さんの墓参りを……」
「それだけか?」
蒼太の声が、詰まった。
それだけじゃない。
本当は。
「……転移した夜」
蒼太が、ゆっくりと話し始める。
「僕は、『死にたい』と願ってしまったんです」
アルディスが、息を呑む。
この話は、今まで詳しく聞いたことがなかった。
「母さんが死んで、父さんとうまくいかなくて」
「居場所がなくて、消えてしまいたくて」
「神社で、『ここじゃない場所に行きたい』と願った」
「そしたら、光に包まれて……この世界に来たんです」
蒼太の涙が、頬を伝う。
「それは、母さんへの裏切りでした」
「母さんは、『立派な大人になってね』って言ったのに」
「僕は、逃げた」
「逃げたまま、終わりたくないんです」
エトワールが、静かに問う。
「では、何故ここに留まらない?」
「この男と共にいれば、お前は幸せになれるだろう」
蒼太が、首を振る。
「……僕がここにいたら」
「アルディスさんの邪魔になる」
「僕なんかより、もっと良い仲間がいるはずです」
「お前も、自分を卑下しているな」
エトワールが言う。
蒼太の涙が、止まらなかった。
「でも……」
「僕、本当は帰りたくないんです」
声が震える。
「この世界にいたい」
「アルディスさんと一緒にいたい」
「でも……それじゃダメなんです」
エトワールが、重ねて問う。
「では、お前にとってこの男は何だ?」
蒼太が、アルディスを見つめる。
この人は。
「……命の恩人です」
「師匠です」
「それだけか?」
エトワールの声が、深く響く。
「……父親のような」
「兄のような」
蒼太の声が、震える。
「いや、違う」
「言葉じゃ表せない」
「ただ、僕にとって」
「世界で一番大切な人です」
アルディスの目から、涙がこぼれた。
「ならば、何故別れを選ぶ?」
エトワールが問う。
「何故、大切な者を置いて行く?」
蒼太が、涙を拭った。
そして、真っ直ぐにエトワールを見つめる。
「……アルディスさんが、教えてくれたんです」
「逃げずに、新しい武器に向き合う姿を」
「剣を捨てて、弓を握った」
「それまでの自分を否定するのは、怖かったはずなのに」
「でも、アルディスさんは逃げなかった」
「だから僕も、現実から逃げない」
「日本に帰って、父さんと向き合って、ちゃんと生き直す」
「それが、母さんへの本当の供養だから」
エトワールが、長い沈黙の後に言った。
「……では、見せてやろう」
「もし、お前たちが別れなかった場合の未来を」
二人の目の前に、光が広がった。
そして。
幻が、現れた。
アルディスの目の前に、未来が映し出された。
蒼太と共に、伝説の冒険者になっている自分。
Aランクを超え、Sランクへ。
二人で数々の魔物を倒し、名声を得ている。
表面上は、幸せそうだ。
でも。
ある日の夜、焚き火を囲んでいる時。
蒼太が、ふと空を見上げた。
その目に浮かんでいるのは。
望郷の寂しさ。
母親を思い出しているのだ。
墓参りに行けなかった、罪悪感。
アルディスは、それに気づいている。
でも、見て見ぬふりをしている。
何も言えない。
言ったら、蒼太が帰りたがるかもしれないから。
だから、黙っている。
そうして、年月が過ぎていく。
蒼太の心のどこかに、消えない棘。
アルディスの心のどこかに、消えない罪悪感。
二人は笑っている。
でも、本当の幸せではない。
「これは……」
アルディスが呟く。
「幸せなのか?」
蒼太の目の前にも、別の未来が映し出されていた。
アルディスと共に、英雄になっている自分。
強くなった。
誰よりも強くなった。
でも。
日本にいる母親の記憶が、少しずつ薄れていく。
母さんの顔が、思い出せなくなっていく。
母さんの声が、遠くなっていく。
父親とも、和解できないまま。
心のどこかに、一生「逃げた」という棘が残る。
笑っている。
でも、何かが欠けている。
大切なものを、置いてきた。
取り返しのつかないものを、失った。
「僕は……」
蒼太が呟く。
「これでいいのか?」
幻が、消えた。
二人は、再びエトワールの前に立っていた。
「見たか」
エトワールが言う。
「『別れなかった未来』を」
アルディスが、首を振った。
「……違う」
「これは、俺たちの幸せじゃない」
蒼太も、涙を流しながら言った。
「僕も……こんな未来は嫌です」
エトワールが、二人を見下ろす。
「ならば、お前たちの答えは?」
二人は、顔を見合わせた。
そして、同時に言った。
「別れます」
エトワールが、長い沈黙の後に口を開いた。
「……お前たちは」
「『幸せだが何かが欠けた未来』を否定した」
「『辛い別れ』を選んだ」
その声は、どこか満足そうだった。
「これこそが、真の愛だ」
「相手の幸せを、自分の幸せより優先する」
「それができる者は、稀だ」
「お前たちの覚悟、確かに受け取った」
エトワールの翼が、光を放った。
「門を開こう」
エトワールが、アルディスに向き直った。
「弓使いよ」
「お前に、祝福を与えよう」
アルディスが、顔を上げる。
「お前は、もう独りではない」
「この子と過ごした日々が、お前の中に生き続ける」
「孤独の中で腐りかけていたお前を」
「この子が救った」
「その記憶を胸に、新たな道を歩め」
アルディスの体が、淡い光に包まれた。
温かい。
心の奥から、温かさが広がっていく。
「……ありがとうございます」
アルディスが、頭を下げた。
エトワールが、今度は蒼太に向き直った。
「転移者よ」
「お前にも、祝福を与えよう」
蒼太が、涙で濡れた顔を上げる。
「お前も、もう独りではない」
「この男の背中が、お前の中に生き続ける」
「死にたいと願った夜から、お前は生まれ変わった」
「この男に出会い、生きる意味を見つけた」
「向こうの世界で、その背中を思い出せ」
「辛い時は、この男のことを思い出せ」
蒼太の体も、光に包まれた。
温かい。
アルディスさんと一緒にいる時みたいに、温かい。
「……ありがとうございます」
蒼太も、頭を下げた。
エトワールが、静かに言った。
「明日の夜、星が重なる」
「その時、門が完全に開く」
「それまで、最後の時を過ごすがいい」
二人は、顔を見合わせた。
最後の時。
明日の夜まで。
「いつの日か」
エトワールの声が、優しくなった。
「再び会えることを願っている」
「お前たちの物語は、まだ終わっていない」
そう言って、エトワールの姿が薄れていく。
光が収まる。
残ったのは、淡く光る星の門だけ。
二人は、門の前に立っていた。
エトワールはいなくなった。
でも、彼の言葉は心に残っている。
「お前たちの物語は、まだ終わっていない」
蒼太が、呟いた。
「……また、会えるのかな」
アルディスが、蒼太の頭を撫でた。
「わからない」
「でも、エトワールがそう言ったなら」
「きっと、会えるさ」
蒼太が、小さく笑った。
「……そうですね」
二人は、門を見つめた。
淡い光が、脈動している。
まるで、生きているかのように。
明日の夜、この門が開く。
そして、蒼太は帰る。
二人は、遺跡の外へ出た。
外は、もう夕暮れだった。
空が、オレンジ色に染まっている。
雪山が、夕日に照らされている。
美しい景色。
でも、二人の心は複雑だった。
試練は終わった。
門は開く。
明日の夜、蒼太は帰る。
別れが、すぐそこまで来ている。
遺跡の前で、最後のキャンプを張った。
焚き火を起こし、二人で火を囲む。
アルディスが、食事を作る。
いつものシチュー。
蒼太が、それを口にした。
「……美味しいです」
いつもの言葉。
でも、今日の意味は違う。
「これが、本当に最後ですね」
アルディスは、何も言えなかった。
ただ、蒼太の頭を撫でた。
食事を終え、二人は火を見つめていた。
言葉は少なかった。
でも、心は通じ合っている。
手を繋いだまま。
離さないように。
明日の夜まで。
この温もりを、忘れないように。
やがて、星が空に現れ始めた。
無数の星。
その中の一つが、ひときわ強く輝いている。
蒼太が、星を見上げた。
「あの星の向こうに、日本があるのかな」
「かもしれないな」
アルディスが答える。
「明日の夜、あの星が他の星と重なる」
「その時に、門が開く」
蒼太が頷く。
「……怖いです」
小さく呟いた。
「日本に帰るのが」
「アルディスさんと別れるのが」
アルディスが、蒼太を抱き寄せた。
「俺もだ」
「怖い」
「でも、それでいいんだ」
「怖くて当然だ」
蒼太が、アルディスの胸に顔を埋めた。
「……はい」
夜が更けていく。
でも、二人は眠れなかった。
明日が来るのが、怖かったから。
別れの時が、もうすぐそこまで来ているから。
だから、二人は起きていた。
焚き火を囲んで。
手を繋いだまま。
最後の夜を、過ごしていた。
言葉はいらなかった。
ただ、一緒にいるだけでよかった。
この温もりを、心に刻み込むために。
永遠に忘れないために。




