第二十四話
六日目の夕方。
二人は、ついに遺跡の前に立っていた。
雪山を越え、数々の魔物を退けて、ようやく辿り着いた場所。
巨大な石造りの門。
それは、月光に照らされて神秘的に輝いている。
古代文字が刻まれた柱。
その奥に見える、銀色の扉。
これが、星の門。
蒼太を元の世界へ帰す、唯一の場所。
「……これが」
蒼太が、呟いた。
声が震えている。
「ああ。星の門だ」
アルディスが答える。
彼の声も、いつもより低かった。
二人は、しばらく門を見つめていた。
風が吹く。
雪が舞う。
月光が、門を照らしている。
蒼太の目から、涙が溢れた。
帰れる。
母さんに、会える。
墓参りができる。
でも、同時に。
アルディスと、別れなければならない。
その現実が、胸を締め付けた。
「アルディスさん……」
蒼太が、震える声で言う。
アルディスは、蒼太を抱き締める。
「大丈夫だ」
「お前を、ちゃんと帰してやる」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
遺跡の手前で、最後のキャンプを張った。
焚き火を起こし、二人で火を囲む。
いつものように。
でも、今夜が最後だ。
二人とも、それを意識している。
だから、言葉が出なかった。
火がパチパチと音を立てる。
静かな夜。
星が、空一面に広がっている。
蒼太が、空を見上げた。
「綺麗ですね」
「ああ」
アルディスも、星を見る。
「明日の夜、星が重なるんだよな」
「はい」
蒼太が頷く。
「それで、門が開く」
「僕は、帰れる」
言葉にすると、現実味が増した。
帰る。
本当に、帰るのだ。
蒼太の手が、震えた。
しばらく、沈黙が流れた。
やがて、蒼太が口を開いた。
「アルディスさん」
「何だ?」
「一緒にいてくれて、ありがとうございました」
蒼太が、アルディスを見つめる。
「僕、アルディスさんに会えて、本当に良かった」
「生きる理由を、もらいました」
アルディスの胸が、熱くなった。
「……俺もだ」
「お前がいなかったら、俺は……」
言葉が詰まる。
パーティを解散した後。
空虚な日々を過ごしていた、あの頃。
もし蒼太に会わなかったら、自分はどうなっていただろう。
きっと、今も剣を握って。
何者にもなれないまま、彷徨っていたはずだ。
「お前が、教えてくれたんだ」
アルディスが言う。
「弓のことを。俺の本当の才能を」
「お前がいたから、俺は変われた」
蒼太の涙が、頬を伝う。
「僕こそ、アルディスさんに救われました」
「転移した時、死にかけてた僕を」
「拾ってくれて、育ててくれて」
「本当に、幸せでした」
火の前で、二人は向き合った。
沈黙。
でも、それは重苦しい沈黙ではなかった。
言葉はいらない時間。
心が、通じ合っている時間。
やがて、アルディスが口を開いた。
「なあ、蒼太」
「はい」
「俺は……お前と別れたくない」
その言葉が、蒼太の胸を貫いた。
アルディスが、そんなことを言うとは思わなかった。
いつも強くて、いつも頼りになる人。
自分の弱さを見せない人。
その人が、今。
本音を、吐露していた。
蒼太の涙が、さらに溢れた。
「僕も……帰りたくないです」
声が震える。
「この世界にいたい」
「アルディスさんと一緒にいたい」
「ずっと、一緒に冒険したい」
でも。
二人とも、わかっていた。
それは、叶わない願いだと。
アルディスが、蒼太を抱き締めた。
強く、しっかりと。
蒼太も、アルディスにしがみついた。
離したくない。
離れたくない。
でも。
「お前は、帰らなきゃいけない」
アルディスが、静かに言う。
「……はい」
蒼太が頷く。
「母親と、ちゃんと向き合え」
「逃げたままじゃ、ダメだ」
蒼太の体が、震えた。
逃げた。
そうだ。
自分は、逃げたのだ。
母さんが死んで、父さんとうまくいかなくて。
居場所がなくて、死にたいとすら思って。
この世界に来たのは、逃避だった。
でも、アルディスに会って。
生きる意味を見つけた。
だからこそ、今度は逃げずに向き合わなければならない。
「わかってます」
蒼太が言う。
「だから……行きます」
「日本に帰って、母さんのお墓に行きます」
「父さんとも、ちゃんと話します」
「逃げずに、向き合います」
アルディスが、蒼太の頭を撫でた。
「お前なら、大丈夫だ」
「この一年で、お前は強くなった」
「もう、一人でもやっていける」
蒼太が顔を上げる。
涙で濡れた顔。
でも、その目には強さがあった。
「はい。頑張ります」
二人は、焚き火のそばに座り直した。
肩を並べて。
星空を見上げながら。
「なあ、蒼太」
「はい」
「思い出、話そうか」
蒼太が、小さく笑った。
「はい。話しましょう」
そして、二人は語り始めた。
初めて会った日のこと。
路地裏で倒れていた蒼太を、アルディスが拾った日。
「あの時、アルディスさんが通りかからなかったら」
「僕、死んでました」
「ああ。危なかったな」
「でも、シチューが美味しくて」
「泣きながら食べてたな、お前」
「恥ずかしいです」
二人で笑う。
弓を初めて引いた日のこと。
「あの時、なんで弓を勧めたんだ?」
「……勘です」
蒼太が答える。
本当は、真理の眼で見えていた。
アルディスの適性が、弓で最大になることが。
でも、それは言わなかった。
「お前の勘は、正しかったな」
「はい。アルディスさんは、最初から弓聖でした」
「僕が気づかせただけです」
アルディスが苦笑いする。
「お前がいなかったら、俺は一生気づかなかった」
「感謝してる」
Dランクに昇格した日のこと。
「あの日、リナさんがすごく喜んでくれましたね」
「ああ。『天才少年』とか言ってたな」
「恥ずかしかったです」
「でも、お前は確かに天才だよ」
蒼太が首を振る。
「僕は天才なんかじゃないです」
「アルディスさんがいたから、成長できたんです」
「お前が師匠で良かった」
アルディスの胸が、熱くなった。
「……ありがとう」
元パーティと再会した日のこと。
「ヴォルフさん、驚いてましたね」
「ああ。目が点になってた」
「エリカさんは、アルディスさんのこと……」
蒼太が、言葉を濁す。
「わかってる。でも、俺にはお前がいたから」
「断れたんだ」
あの時、エリカから再びパーティを組まないかと誘われた。
昔の自分なら、迷っていたかもしれない。
でも、蒼太がいた。
守るべき存在がいた。
だから、迷わなかった。
「あの人たちは、みんな優しかったです」
「ああ。俺の大切な仲間だ」
蒼太が転移者だと告白した日のこと。
「あの夜、怖かったです」
「嫌われるかと思いました」
蒼太が俯く。
「馬鹿言うな」
アルディスが言う。
「お前がどこから来たって、お前は俺の弟子だ」
「それは変わらない」
「……はい」
蒼太の声が、震える。
「あの夜、アルディスさんが受け入れてくれて」
「本当に、嬉しかったです」
二人は、朝まで語り続けた。
笑って、泣いて。
思い出を、一つ一つ確認していくように。
大切な記憶を、心に刻み込んでいくように。
空が、白み始めた。
夜明けが近い。
蒼太が、呟いた。
「……もう、朝ですね」
「ああ」
アルディスが頷く。
焚き火は、もうほとんど消えかけている。
でも、二人の心は温かかった。
一晩中、語り合ったから。
「今日が、最後の日ですね」
蒼太が言う。
その声は、不思議と落ち着いていた。
「ああ」
アルディスも、静かに答える。
「今夜、門が開く」
「お前は、帰る」
蒼太が、東の空を見つめた。
朝日が、ゆっくりと昇り始めている。
雪山が、オレンジ色に染まっていく。
「綺麗ですね」
「ああ。綺麗だ」
二人は、並んで朝日を見つめていた。
この世界で見る、最後の朝日かもしれない。
蒼太にとっては。
朝食を作った。
いつものシチュー。
アルディスが作る、温かいシチュー。
蒼太は、それを口にした。
「……美味しいです」
いつもの言葉。
でも、今日の意味は違った。
「これが、最後かもしれないですね」
蒼太の声が、少し震える。
「アルディスさんのシチュー」
アルディスは、何も言えなかった。
ただ、蒼太の頭を撫でた。
言葉より、行動で伝えたかった。
荷物をまとめる。
今日使う分だけ残して、片付ける。
「行くか」
アルディスが言う。
「はい」
蒼太が頷く。
二人は、遺跡へと向かった。
石造りの門が、目の前に聳えている。
その奥には、銀色の扉。
星の門。
蒼太を帰す場所。
別れの場所。
門をくぐる。
中は、薄暗かった。
でも、壁に刻まれた文字が、淡く光っている。
古代の魔力が、まだ残っている証拠だ。
長い通路を歩く。
足音が、静かに響く。
蒼太は、アルディスの隣を歩いた。
離れないように。
「緊張するな」
アルディスが言う。
「はい」
蒼太が頷く。
「でも、大丈夫です」
「アルディスさんがいますから」
アルディスは、小さく笑った。
「そうだな」
二人は、奥へと進んでいった。
やがて、大きな部屋に出た。
円形の広間。
天井には、星の模様が描かれている。
そして、部屋の中央には。
巨大な門が、鎮座していた。
銀色に輝く門。
星の紋様が、刻まれている。
これが、星の門。
「……すごい」
蒼太が息を呑んだ。
アルディスも、門を見上げた。
「ああ。これが、お前を帰す門だ」
二人は、門の前に立った。
今はまだ、門は閉じている。
でも、今夜。
星が重なる時。
門は開く。
そして、蒼太は帰る。
部屋の隅に座り、待った。
門が開くのは、夜だ。
それまで、まだ時間がある。
最後の時間。
二人で過ごす、最後の時間。
「なあ、蒼太」
「はい」
「向こうに帰ったら、何をする?」
蒼太が、少し考える。
「まず、母さんのお墓に行きます」
「そうか」
「それから……学校に行きます」
「もう卒業の時期は過ぎてますけど」
「定時制とか、通信制とか、調べてみます」
「お前なら、大丈夫だ」
アルディスが言う。
「お前は頭がいい。何でもできる」
「……ありがとうございます」
蒼太が俯く。
「父さんとも、話してみます」
「うまくいくかわからないけど」
「逃げずに、向き合います」
アルディスが頷く。
「それでいい」
時間が過ぎていく。
昼が過ぎ、午後になり。
やがて、夕暮れが近づいてきた。
窓から見える空が、オレンジ色に染まっていく。
蒼太は、その空を見つめていた。
「……もうすぐですね」
「ああ」
アルディスの声は、静かだった。
二人とも、覚悟を決めていた。
別れが来ることを。
それでも、互いのために別れることを。
日が沈んだ。
星が、空に現れ始めた。
一つ、二つ、三つ。
やがて、無数の星が空を埋め尽くした。
その中の一つが、ひときわ強く輝いている。
そして。
門が、光り始めた。
淡い青白い光。
古代の魔力が、目覚めている。
「……始まった」
アルディスが呟く。
「はい」
蒼太が頷く。
二人は、門の前に立った。
光が、強くなっていく。
これから、試練が始まる。
守護竜との対話が。
そして、別れが。
蒼太は、アルディスを見つめた。
この人に会えて、良かった。
この人に育ててもらえて、幸せだった。
もう、後悔はない。
だから。
笑顔で、別れよう。
そう、心に決めた。
アルディスも、蒼太を見つめた。
この子に会えて、良かった。
この子が、自分を変えてくれた。
もう、迷いはない。
だから。
笑顔で、送り出そう。
そう、心に決めた。
門の光が、さらに強くなった。
二人の影が、長く伸びる。
最後の夜が、始まろうとしていた。
別れの夜が。
でも、二人は恐れなかった。
この一年で築いた絆が、ある。
それは、何があっても消えない。
別れても、消えない。
心の中で、永遠に。
二人は、手を取り合った。
そして、光の中へ。
一歩を踏み出した。




