第二十二話
早春。
出会いから、ちょうど一年が経とうとしていた。
アルディスと蒼太が、共に過ごした一年。
そして、別れの日も近づいていた。
陽だまり荘二〇三号室。
二人は、部屋を片付けていた。
一年間住んだ部屋。
思い出が詰まった部屋。
荷物を袋に詰め、ベッドを整える。
何も言わずに、黙々《もくもく》と作業を続ける。
蒼太が、窓辺に立った。
外を見つめている。
「……最後ですね、この部屋」
小さく呟く。
アルディスが、蒼太の隣に立った。
「ああ」
「楽しかった?」
蒼太が振り向く。
涙を堪えた顔。
「……はい。とても」
アルディスが、蒼太の頭を撫でた。
「俺もだ」
階段を下りると、女将が待っていた。
小柄な老女。
いつも笑顔で迎えてくれた人。
「本当に、行くんですか?」
女将が、悲しそうに言う。
「ああ。世話になった」
アルディスが頭を下げる。
「……また、帰ってくるんだよ」
女将が、涙ぐむ。
アルディスは、答えられなかった。
帰ってこられるかどうか。
それは、わからない。
蒼太が、女将に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「元気でね、蒼太君」
女将が、蒼太を抱きしめる。
「あなたは、良い子だった」
「幸せになるんだよ」
蒼太の目から、涙が溢れた。
「……はい」
二人は、陽だまり荘を後にした。
振り返ると、女将が手を振っていた。
アルディスは、小さく手を振り返した。
そして、前を向いた。
ギルドへ向かう道。
街は、いつもと変わらない。
朝の活気に満ちている。
でも、二人にとっては。
この街を見るのも、最後かもしれなかった。
ギルドに着くと、リナが待っていた。
いつもの笑顔。
でも、今日は少し寂しそうだ。
「行ってらっしゃい」
リナが、二人のギルドカードを確認する。
アルディス、レベル六十三、ランクC。
蒼太、レベル六十八、ランクC。
「二人とも、立派になりましたね」
リナが微笑む。
「リナさんのおかげです」
アルディスが答える。
「また、クエスト報告に来てくださいね」
リナが言う。
蒼太が、複雑な表情で頷いた。
「……はい」
でも、その声は小さかった。
来れるかどうか、わからないから。
街の中を歩く。
一人一人に、別れを告げるために。
肉料理屋の店主。
いつも美味しい料理を作ってくれた人。
「また来いよ!」
力強く肩を叩かれる。
アルディスが笑った。
「ああ。必ず」
武器屋の親父。
最初のボロボロの弓を売ってくれた人。
「その弓、大事にしろよ」
月影の弓を見つめながら言う。
「はい。一生、大切にします」
訓練場の老人。
弓の基礎を教えてくれた人。
「良い旅を」
静かに手を差し出す。
アルディスが、その手を握った。
「ありがとうございました」
一人一人の顔が、心に刻まれていく。
蒼太も、同じだった。
この街が、好きだった。
この街の人々が、温かかった。
でも、別れなければならない。
北門に着いたのは、昼前だった。
大きな門。
そこを通れば、街の外だ。
アルディスは、振り返った。
街が、見える。
一年間、過ごした街。
蒼太を拾った街。
弓と出会った街。
成長した街。
すべての始まりの場所。
「……行くか」
アルディスが呟く。
「はい」
蒼太が頷く。
二人は、門をくぐった。
街の外へ。
北へと続く道へ。
街道を歩く。
荷物を背負い、弓を持ち。
二人並んで、北へ向かう。
空は晴れていた。
でも、風は冷たい。
冬の名残りが、まだ残っている。
蒼太が、後ろを振り返った。
街が、遠くに見える。
でも、もう小さい。
「……さようなら」
小さく呟く。
アルディスは、何も言わなかった。
ただ、前を向いて歩き続けた。
夕方。
街道沿いの森で、野営の準備をした。
焚き火を起こし、テントを張る。
携帯食を温め、二人で分け合う。
火の温もりが、心地よかった。
でも、二人とも無口だった。
何を話せばいいのか、わからなかった。
やがて、アルディスが口を開いた。
「あと……何日だ?」
蒼太が、少し考える。
「七十一日、です」
「そうか」
沈黙。
火がパチパチと音を立てる。
蒼太が、星空を見上げた。
「綺麗ですね」
「ああ」
アルディスも、空を見上げる。
無数の星。
その中の一つが、蒼太が帰る世界を照らしているのかもしれない。
「アルディスさん」
「ん?」
「僕……怖いです」
蒼太が小さく言う。
「何が?」
「帰るのが。別れるのが」
蒼太が膝を抱える。
「母さんに会いたい。でも、アルディスさんと離れたくない」
「この気持ち、どうすればいいんですか」
アルディスは、蒼太の肩を抱いた。
「……わからない」
「俺も、同じだから」
蒼太が顔を上げる。
「お前を帰すのが、正しいことだとわかってる」
「でも、お前と別れたくない」
「その気持ちも、ある」
アルディスが、火を見つめる。
「でもな、蒼太」
「俺たちは、この一年を一緒に過ごした」
「それは、何があっても変わらない」
蒼太が頷く。
「……はい」
「だから、怖がらなくていい」
「お前が帰っても、俺はお前を忘れない」
「お前の中にも、俺がいる」
アルディスが、蒼太の頭を撫でる。
「それで、いいんじゃないか?」
蒼太の目から、涙が溢れた。
でも、泣きながら笑った。
「……はい。ありがとうございます」
二人は、焚き火を囲んで座っていた。
星空の下で。
何も言わずに。
でも、心は通じ合っていた。
翌朝。
二人は、再び北へ向かった。
気温が、さらに下がっている。
雪が、降り始めた。
白い雪が、二人を包む。
「寒いですね」
蒼太が、息を白くする。
「ああ。北部は、もっと寒いぞ」
アルディスが答える。
「でも、アルディスさんがいれば、大丈夫です」
蒼太が笑う。
アルディスは、その笑顔を見つめた。
この笑顔も、あと二ヶ月。
そう思うと、胸が痛んだ。
でも、今は。
この笑顔を、心に刻もう。
アルディスは、そう思った。
雪の中を歩く。
足跡が、二つ並んでいる。
それは、やがて雪に消えていく。
二人の軌跡。
それも、いつかは消える。
でも、心の中には残る。
アルディスは、前を向いた。
北へ。
星の門へ。
別れの場所へ。
昼過ぎ。
雪が、さらに強くなった。
視界が悪くなる。
「少し休もう」
アルディスが、木の下で立ち止まった。
二人は、木の根元に座る。
雪を避けながら。
蒼太が、荷物から水筒を取り出す。
温かいお茶。
それを、二人で分け合う。
「……温まりますね」
蒼太が微笑む。
「ああ」
アルディスが頷く。
雪が、静かに降り続けている。
世界が、白く染まっていく。
蒼太が、呟いた。
「日本でも、雪が降りました」
「そうか」
「母さんと、雪だるまを作ったんです」
蒼太が、遠くを見つめる。
「小さい頃、母さんが元気だった頃」
「二人で、庭で遊びました」
アルディスは、黙って聞いていた。
「母さん、笑ってました」
「とても、嬉しそうに」
蒼太の目が、潤む。
「……また、会いたいです」
アルディスが、蒼太の肩を抱いた。
「会えるよ」
「お前を、必ず帰してやる」
「母さんに、ちゃんとお別れを言えるように」
蒼太が、アルディスにもたれかかった。
「……ありがとうございます」
二人は、しばらくそのままだった。
雪が降る中で。
温かいお茶を飲みながら。
静かな時間。
でも、心は満たされていた。
夕方になり、二人は再び歩き始めた。
雪は止んでいた。
空が、少し晴れてきた。
振り返ると、もう街は見えなかった。
完全に、遠ざかってしまった。
でも、前を向けば。
北の山々《やまやま》が見える。
雪に覆われた、険しい山。
その向こうに、星の門がある。
「……遠いですね」
蒼太が呟く。
「ああ。でも、必ず辿り着く」
アルディスが答える。
二人は、歩き続けた。
北へ。
別れの日へと。
確実に、近づいていった。
その夜の野営地。
二人は、再び焚き火を囲んだ。
テントを張り、温かい食事を作る。
シチュー。
アルディスが作った、いつものシチュー。
蒼太が、それを口にする。
「……美味しいです」
いつもの言葉。
でも、その言葉が。
今は、とても大切に感じた。
アルディスも、シチューを食べる。
温かい。
体が、温まる。
でも、心は。
少しずつ、冷えていくような気がした。
別れが、近づいているから。
食事を終え、二人はテントに入った。
寝袋に入り、横になる。
外では、風が吹いている。
冷たい風。
冬の風。
「アルディスさん」
蒼太が、暗闇の中で呟く。
「ん?」
「明日も、一緒ですよね」
「ああ」
「明後日も」
「ああ」
「ずっと……」
蒼太の声が、震える。
アルディスは、答えなかった。
ずっと一緒。
それは、叶わない願いだから。
でも、今は。
「……ああ。ずっと一緒だ」
そう、答えた。
嘘でもいい。
今は、そう言ってあげたかった。
蒼太が、小さく笑った気がした。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
二人は、眠りについた。
明日も、また北へ向かうために。
夢の中で。
アルディスは、蒼太と笑っていた。
いつまでも、一緒にいる夢。
別れのない、幸せな夢。
でも、それは夢だと。
アルディスは、わかっていた。
目が覚めれば。
また、現実が待っている。
別れへと続く、道が。
朝。
アルディスが目を覚ますと、蒼太はもう起きていた。
外で、雪を見つめている。
「早いな」
声をかける。
蒼太が振り向いた。
「はい。なんだか、眠れなくて」
「そうか」
アルディスも、外に出た。
雪が、一面に広がっている。
真っ白な世界。
足跡一つない、静かな世界。
「綺麗ですね」
蒼太が呟く。
「ああ」
二人は、並んで雪景色を見つめた。
これから、この雪の中を歩いていく。
北へ。
星の門へ。
別れの場所へ。
でも、今は。
この景色を、目に焼き付けよう。
二人は、そう思った。
朝食を済ませ、荷物をまとめる。
テントを片付け、焚き火を消す。
出発の準備が、整った。
「行くか」
「はい」
二人は、再び歩き始めた。
雪の中を。
北へ。
足跡が、二つ並んでいる。
それは、やがて雪に消えるだろう。
でも、二人の記憶には残る。
この旅の記憶が。
別れまでの、大切な時間が。
アルディスは、前を向いた。
北の山々が、近づいている。
もう、逃げられない。
別れの日は、確実に近づいている。
でも、それでいい。
アルディスは、覚悟を決めていた。
蒼太を、帰してやる。
それが、自分の使命だと。
二人は、歩き続けた。
雪の中を。
風の中を。
北へ。
星の門へ。
別れの日へと。
足跡が、道を作っていく。
二人だけの、道を。
それは、やがて消える。
でも、心には残る。
永遠に。




