第十一話
訓練場に朝日が差し込む。
まだ人影はまばらだ。冒険者たちの多くは朝食の時間で、訓練に来るには少し早い。
アルディスと蒼太は、いつものように的を前にして弓を構えていた。
アルディスが矢をつがえる。
五十メートル先の的を見据え、呼吸を整える。
そして、放つ。
矢は一直線に飛び、的の中心を貫いた。
「さすがです」
蒼太が横で呟く。
その声には、素直な尊敬が込められている。
アルディスは何も言わず、次の矢をつがえた。
もう一度、放つ。
また中心。
三本目も、四本目も、すべて中心。
技術は確かだ。
命中精度は、おそらくこの街でも最高クラスだろう。
だが、レベルは上がらない。
レベル四十九のまま、動かない。
「アルディスさん、次は僕の番ですね」
蒼太が控えめに言う。
アルディスは頷いて、場所を譲った。
蒼太が弓を構える。
姿勢はまだぎこちないが、以前よりずっと良くなっている。
矢を放つ。
的の中心から少しずれたが、十分に命中範囲内だ。
もう一本。
今度は中心に近い。
三本目。
中心を貫いた。
「やりました!」
蒼太が嬉しそうに振り返る。
「ああ、よくやった」
アルディスは笑顔で応じた。
だが、その笑顔の裏で、胸が軋む。
蒼太の命中率は、確実に上がっている。
数ヶ月前は六割程度だったのに、今は九割近い。
このペースなら、あと数週間で完璧になるだろう。
そして、その時。
俺が教えることは、何もなくなる。
その思考が、頭をよぎった。
アルディスは無理やりそれを振り払う。
「もう一度、撃ってみろ」
「はい」
蒼太が矢をつがえる。
今度も、中心に近い位置に当たった。
「いい感じだ。その調子で続けろ」
アルディスが言う。
蒼太が嬉しそうに頷いた。
だが、その笑顔を見るたびに、アルディスの胸には複雑な感情が渦巻く。
嬉しい。
誇らしい。
でも、同時に。
怖い。
その感情を、アルディスは必死に押し殺した。
午後、二人は東の岩場へ向かった。
ギルドから受けたCランクの討伐依頼だ。
岩竜という、岩肌に擬態する魔物の討伐。
レベル五十二の強敵だが、二人なら問題ないはずだ。
岩場に到着すると、巨大な影が動いた。
全長五メートルはある、岩のような鱗を持つ竜。
その目が、二人を捉える。
「来ます!」
蒼太が短剣を抜く。
「俺が援護する。いつも通りだ」
アルディスが弓を構えた。
岩竜が突進してくる。
地面が揺れる。
蒼太が横に跳び、回避する。
その瞬間、アルディスの矢が岩竜の右目を射抜いた。
「ギャアアッ!」
岩竜が悲鳴を上げる。
視界が奪われ、動きが鈍る。
「今です!」
蒼太が懐に潜り込み、腹部に短剣を突き立てる。
炎の魔法を纏った刃が、硬い鱗を貫いた。
岩竜が暴れる。
尾を振り回し、蒼太を薙ぎ払おうとする。
だが、蒼太はそれを読み切って跳び退いた。
アルディスが次の矢を放つ。
岩竜の喉を狙う。
だが、岩竜が頭を振り、矢は外れた。
蒼太が再び切り込む。
魔法剣の連撃が、岩竜の体を切り裂く。
一撃、二撃、三撃。
岩竜が倒れた。
戦闘終了。
「ふぅ……」
蒼太が息を整えながら振り返る。
「お疲れ様です、アルディスさん」
「ああ、よくやった」
アルディスも笑顔で応じた。
だが、心の中では別のことを考えていた。
今の戦い、俺が放った矢は二本だけだった。
一本は右目を射抜き、もう一本は外れた。
蒼太が倒したようなものだ。
俺は……本当に必要だったのか?
その疑問が、胸の奥で渦巻く。
「アルディスさん、大丈夫ですか?」
蒼太が心配そうに尋ねる。
「ああ、問題ない。戻ろう」
アルディスは笑顔を作った。
その表情が硬いことに、自分でも気づいている。
ギルドで依頼の報告を済ませると、周囲から声が聞こえてきた。
「あの少年、また討伐成功したのかよ」
「レベル五十一だろ? 化け物だな」
「師匠、完全に超えてるじゃねえか」
その声が、蒼太の耳に刺さる。
蒼太は俯いた。
リナが報酬を渡しながら、優しく声をかけてきた。
「蒼太君、すごいね。この調子なら、すぐにレベル六十も夢じゃないよ」
その言葉に、蒼太は複雑な表情を浮かべた。
「……ありがとうございます」
小さく答える。
だが、その声には喜びがない。
アルディスが蒼太の肩を叩く。
「お前は誇っていい。本当によくやってるよ」
優しい声だ。
だが、蒼太にはわかる。
その声に、力がない。
街の食堂で、二人は昼食を取った。
テーブルには、シチューとパンが並んでいる。
蒼太がスプーンを持ったまま、ちらりとアルディスを見た。
アルディスは黙々と食事をしている。
いつもなら、今日の戦いを振り返ったり、次のクエストの話をしたりするのに。
今日は、会話が続かない。
蒼太が意を決して、口を開いた。
「あの……アルディスさん」
「ん?」
アルディスが顔を上げる。
「最近、僕のせいで……」
蒼太が言いかける。
だが、アルディスがそれを遮った。
「気にするな」
笑顔だった。
いつもの、優しい笑顔だ。
「お前は何も悪くない。お前が強くなることは、俺の誇りだ」
その言葉は、本心だ。
確かに誇りに思っている。
でも、同時に。
蒼太は、その笑顔の裏に隠された何かを感じ取った。
だが、それ以上は聞けなかった。
聞いたら、アルディスさんを責めているみたいだ。
「……わかりました」
蒼太は言葉を飲み込んだ。
二人は再び、黙って食事を続けた。
食堂の喧騒が、二人の沈黙を際立たせていた。
陽だまり荘に戻ったのは、夕方だった。
蒼太が夕食の準備を手伝い、アルディスがシチューを作る。
いつもの光景。
でも、何かが違う。
夕食を食べ終えると、蒼太が先に寝た。
疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。
アルディスは一人、椅子に座っていた。
窓の外では、月が昇り始めている。
静かな夜だ。
アルディスは、自分の手のひらを見つめた。
弓を引く手。
矢をつがえる手。
この手で、俺は何を守っているんだろう。
「俺には役割がある」
小さく呟く。
「戦況を読むこと。敵の動きを予測すること」
「こいつを勝たせること。それが俺の役割だ」
自分に言い聞かせる。
自己暗示のように。
だが、その言葉は空虚に響いた。
本当にそうか?
こいつがもっと強くなったら、俺の援護すら要らなくなるんじゃないか?
その疑問が、頭の中で繰り返される。
アルディスは深く息を吐いた。
もう、限界かもしれない。
その思考が、ふと浮かんだ。
アルディスは慌ててそれを振り払う。
いや、違う。
俺はまだやれる。
こいつを守り続けられる。
だが、心の奥では。
その確信が、揺らぎ始めていた。
同じ頃、蒼太は浅い眠りの中にいた。
夢を見ている。
暗い森の中を、一人で歩いている。
「アルディスさん!」
叫ぶが、返事はない。
ただ、風の音だけが聞こえる。
蒼太が走る。
だが、どこにもアルディスの姿はない。
不安が胸を締め付ける。
蒼太が目を覚ました。
汗をかいている。
心臓が早鐘を打っている。
夢だ。
ただの夢だ。
蒼太は深呼吸をして、落ち着こうとした。
そして、隣のベッドを見る。
アルディスは、いない。
ベッドは空だった。
蒼太が慌てて起き上がる。
部屋を見回すと、窓辺にアルディスの姿があった。
月明かりに照らされたその背中が、とても孤独に見えた。
蒼太は声をかけようとした。
でも、言葉が出てこない。
その背中が、夢の中で見失ったアルディスと重なる。
怖い。
その感情が、蒼太の胸を締め付けた。
アルディスさんが、遠くに行ってしまいそうだ。
僕の手の届かないところへ。
蒼太は拳を握りしめた。
何とかしなきゃ。
その決意が、心の中で芽生える。
でも、どうすればいいのかわからなかった。
蒼太は再びベッドに横になった。
だが、眠れなかった。
ただ、天井を見つめ続けた。
翌朝。
アルディスは、いつもと同じように朝食を作った。
蒼太も、いつもと同じように起きてきた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
二人は笑顔で挨拶を交わす。
いつもと同じ光景。
でも、その笑顔の裏に、お互いが何かを隠していることを、二人とも知っていた。
朝食を食べながら、アルディスが口を開いた。
「今日は、訓練場に行こう。実戦ばかりじゃ体が持たない」
「わかりました」
蒼太が頷く。
二人は朝食を済ませ、街を出た。
朝日が二人を照らしている。
訓練場で、蒼太が的に向かって矢を放つ練習をしていた。
一本、二本、三本。
命中率は九割を超えている。
もう、初心者ではない。
アルディスがその様子を見ていた。
「すごいな」
アルディスが呟く。
だが、その声には力がなかった。
蒼太がそれに気づく。
振り返ると、アルディスが少し疲れた表情をしていた。
目の下に、うっすらと隈がある。
ちゃんと眠れていないのだろうか。
「アルディスさん……」
蒼太が心配そうに声をかける。
「ん?」
アルディスが笑顔を作る。
だが、その笑顔は、どこか硬かった。
「何でもないです」
蒼太は言葉を飲み込んだ。
聞いても、きっとまた笑顔で誤魔化される。
それは、もっと辛い。
蒼太は再び的に向き直った。
でも、心の中では決意していた。
このままじゃ、ダメだ。
アルディスさんは、本当に辛そうだ。
何とかしなきゃ。
その思いが、蒼太の胸を満たしていた。
二人は訓練を終え、陽だまり荘へ戻った。
夕日が二人の影を長く伸ばしている。
部屋に入ると、蒼太が荷物を整理し始める。
アルディスは窓辺に立ち、街を見下ろした。
いつもの光景。
でも、何かが違う。
二人の間に、見えない壁ができている。
お互いに相手を思いやるあまり、本音を言えなくなっている。
このすれ違いは、やがて大きな転機を迎える。
だが、その時はまだ来ない。
アルディスは窓辺に立ち続けた。
蒼太は荷物を整理しながら、時折アルディスの背中を見つめた。
二人とも、心の中で限界を感じていた。
だが、それを口にすることは、まだできなかった。
窓の外では、夕日が静かに沈んでいく。
新しい夜が、訪れようとしていた。




