第九話
ギルドの昼下がりは、いつもより静かだった。
朝の依頼受付ラッシュが終わり、冒険者たちは街を出た後だ。広いホールに残っているのは、報告書を書く者と仲間を待つ者だけ。天井から差し込む光が、木の床に幾何学模様を描いている。
アルディスはカウンターの前に立ち、クエストの報酬を受け取るために順番を待っていた。
前には二人組の冒険者がいる。彼らの話し声が、嫌でも耳に入ってきた。
「なあ、聞いたか? あの天才少年、師匠を追い越したらしいぜ」
「ああ、櫻井蒼太だろ? Fランクから始めて、半年経ってないのにレベル51だってよ」
「師匠の方はまだ49らしいな。いや、師匠が弱いわけじゃないんだが」
「天才ってのは、恐ろしいもんだな」
アルディスの背筋が、強張った。
視線は前を向いたまま、表情は変えない。
だが、胸の奥が、ギリギリと締め付けられる。
「次の方、どうぞ」
リナの声に我に返る。
アルディスは報告書をカウンターに置き、淡々と報告を続けた。
「西の森、森狼の討伐です。5体を確認して、全て討伐しました」
「はい、確認しました。報酬は銀貨20枚ですね」
リナが笑顔で銀貨の袋を差し出す。
その時、彼女はアルディスの顔をじっと見た。
「アルディスさん、顔色が……少し悪いですよ?」
「いえ、問題ありません」
アルディスは笑顔を作った。
その表情が、わずかに硬いことに自分でも気づいている。
「最近、無理してませんか? 蒼太君のレベルがどんどん上がって、嬉しい反面、プレッシャーもあるんじゃ……」
リナの優しい言葉が、かえって胸に刺さる。
「大丈夫です。俺は、こいつの成長を誇りに思ってます」
嘘ではない。
確かに誇りに思っている。
でも、それと同時に、別の感情も渦巻いている。
リナは少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
「無理しないでくださいね。あ、そうだ。今日は午後から手が空きますか?」
「……はい、特に予定はありませんが」
「実は、装備の補充とかどうですか? 矢の在庫、少なくなってませんか?」
リナの言葉に、アルディスは自分の矢筒を確認した。
確かに、矢は残り少ない。
「そうですね。補充が必要かもしれません」
「グレンさんの店に行くといいですよ。今日は特売日らしいです」
リナが笑顔で教えてくれる。
アルディスは頷き、銀貨の袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「いえいえ。蒼太君によろしくお伝えください」
アルディスはカウンターを離れた。
待合のベンチには、蒼太が座っていた。彼は虚空を見つめている。あの癖だ。自分のステータスを確認しているのだろう。
アルディスが近づくと、蒼太が顔を上げた。
「お疲れ様です。報酬、受け取れましたか?」
「ああ。今日はこれから、武器屋に行こうと思う」
「武器屋ですか?」
「矢の補充だ。お前の短剣も、そろそろ研ぎ直しが必要じゃないか?」
蒼太が自分の短剣を見る。
確かに、刃には細かい傷が入っている。
「そうですね。お願いします」
二人は街を歩いた。
石畳の通りには、午後の陽射しが柔らかく降り注いでいる。
露店が並び、商人たちの呼び込みの声が響く。
「新鮮な野菜だよ!」
「魔除けのお守り、いかがですか!」
蒼太が興味深そうに周りを見回している。
その無邪気な表情を見て、アルディスは少しだけ心が軽くなった気がした。
武器屋に到着すると、店主のグレンが笑顔で迎えてくれた。
「おう、アルディスじゃねえか。今日は何の用だ?」
「矢の補充と、この短剣の研ぎ直しをお願いしたい」
アルディスが蒼太の短剣を差し出す。
グレンが刃を確認し、頷いた。
「ああ、いい刃だ。ミスリルは硬いが、ちゃんと手入れしないと欠けるからな。明日の昼には仕上がるぜ」
「ありがとうございます」
蒼太が礼を言う。
グレンは矢の在庫を確認しながら、アルディスに話しかけた。
「なあ、アルディス。お前、最近すごい評判だな」
「……そうですか?」
「ああ。弓使いでレベル49なんて、この街じゃ珍しい。それに、その坊主も天才って噂だ」
グレンが蒼太を指差す。
蒼太が照れ臭そうに頭を掻く。
「俺、天才じゃないですよ」
「いやいや、謙遜すんなって。レベル51だろ? すげえじゃねえか」
グレンの言葉に、アルディスの胸が微かに痛んだ。
だが、表情は変えない。
笑顔を保ち続ける。
「この子は、本当によく頑張ってますよ」
アルディスが蒼太の頭を撫でる。
蒼太が嬉しそうに笑う。
グレンが矢の束を持ってきた。
「これで20本だ。お前なら、無駄撃ちしないから長持ちするだろ」
「ありがとうございます」
アルディスが銀貨を支払い、矢を受け取る。
店を出る時、グレンが声をかけてきた。
「なあ、アルディス。無理すんなよ」
「え?」
「お前、最近顔色悪いぞ。ちゃんと休めよ」
グレンの心配そうな顔に、アルディスは笑って応じた。
「大丈夫です。気にかけてくれて、ありがとうございます」
武器屋を出て、二人は街を歩いた。
夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めている。
「アルディスさん、何か買い物とかあります?」
蒼太が尋ねる。
「いや、特にないが……お前は?」
「僕も、特には」
二人は並んで歩く。
以前なら、こういう時間が心地よかった。
でも、今日は何か違う。
気まずい沈黙が、二人の間に流れている。
蒼太が何度か話しかけようとするが、言葉が続かない。
アルディスも、何を話せばいいのかわからなかった。
街の人々が、二人を見て囁き合う声が聞こえる。
「あれが、天才少年か」
「師匠を超えたらしいな」
その声が、アルディスの耳に刺さる。
でも、表情は変えない。
笑顔を保ち続ける。
陽だまり荘に戻る。
部屋に入ると、蒼太が装備を整理し始める。
アルディスは窓辺に立ち、街を見下ろした。
夜が近づき、街灯が灯り始めている。
人々が家路につき、店が閉まっていく。
いつもの光景だ。
「アルディスさん」
蒼太が声をかけてきた。
振り返ると、蒼太が心配そうな顔をしていた。
何か言いたげな表情だ。
だが、蒼太は言葉を飲み込んだ。
「……どうした?」
アルディスが尋ねる。
「いえ、何でもないです」
蒼太は首を横に振った。
だが、その目は、アルディスを心配そうに見つめている。
アルディスは笑って、蒼太の頭を撫でた。
「疲れてるなら、早く寝ろ。明日も早いんだ」
「……はい」
蒼太は小さく頷いた。
何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
「……はい。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
蒼太がベッドに入り、目を閉じる。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
アルディスは椅子に座り、天井を見上げた。
俺は、何をしているんだ。
蒼太に心配をかけている。
それは、俺が弱いからだ。
自分の感情を、コントロールできていないからだ。
嫉妬なんて、くだらない。
そう思う。
でも、消えない。
胸の奥で、黒い感情が蠢いている。
アルディスは深く息を吐いた。
そして、立ち上がった。
少し、外の空気を吸おう。
部屋を出て、宿の裏手にある林へ向かった。
誰もいない。
静かな夜だ。
アルディスは木に背中を預けて座り込んだ。
月明かりが木々の間から差し込んでいる。
俺は、どうすればいい。
問いかけが、頭の中で繰り返される。
蒼太を守りたい。
蒼太の成長を喜びたい。
でも、同時に。
俺は、置いていかれるのが怖い。
その本音が、胸の奥から溢れてくる。
アルディスは膝を抱えた。
涙が出そうになる。
でも、泣かない。
泣いたら、認めることになる。
自分の弱さを。
俺は、大人だ。
そう自分に言い聞かせる。
蒼太の前では、笑顔でいよう。
それが、俺にできる唯一のことだ。
アルディスは立ち上がり、宿へ戻った。
部屋に入ると、蒼太はまだ眠っている。
穏やかな寝顔だ。
アルディスは椅子に座り、蒼太を見つめた。
お前は、何も悪くない。
そう思う。
俺が勝手に悩んでいるだけだ。
でも、その悩みを、蒼太に見せるわけにはいかない。
それが、アルディスの矜持だった。
窓の外では、月が静かに街を照らしていた。
翌朝。
アルディスは、いつもと同じように目を覚ました。
蒼太が既に起きて、朝食の準備をしている。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
アルディスは笑顔で応じた。
昨夜の悩みは、心の奥に押し込めて。
「今日は、どこに行きますか?」
「東の岩場だ。地竜の討伐依頼がある」
「わかりました。頑張ります!」
蒼太が元気よく答える。
その笑顔を見て、アルディスは思った。
この笑顔を守るために、俺はここにいる。
それが、アルディスの答えだった。
完璧な答えではないかもしれない。
でも、今の俺には、これしかない。
二人は朝食を済ませ、街を出た。
朝日が二人を照らしている。
新しい一日が、始まった。
その日の午後、二人は郊外の訓練場にいた。
蒼太が的に向かって矢を放つ練習をしている。
命中率は6割程度。まだまだ安定していない。
「うーん、アルディスさんみたいに当たらないです」
蒼太が悔しそうに言う。
「焦るな。お前はまだ弓を始めて数ヶ月だ」
アルディスは穏やかに言った。
だが、内心では別のことを考えている。
でも、こいつなら……すぐに俺を超えるんだろうな。
レベルだけじゃない。
技術も、いつか俺を追い越す。
その思考を、無理やり振り払う。
「次は、魔法剣の練習をしてみるか」
「はい!」
蒼太が短剣を抜き、炎の魔力を纏わせる。
赤い炎が刃を包み、熱が空気を揺らす。
蒼太が木の標的に向かって振り下ろす。
標的が真っ二つに割れた。
「やった!」
蒼太が嬉しそうに笑う。
「すごいな」
アルディスは笑顔で応じた。
だが、その笑顔の裏で、心が軋む。
あの頃の俺なら、何ヶ月かかっただろうか。
いや、もしかしたら、一生できなかったかもしれない。
その思考が、胸を締め付ける。
訓練を終え、二人は宿へ戻った。
夕食の席で、蒼太がふと口を開いた。
「アルディスさん、昨日のグリフォン戦、すごかったです」
「ん?」
「俺が危ない時、すぐに矢で助けてくれました。アルディスさんがいなかったら、落ちてましたよ」
「……そうか」
蒼太の言葉は、素直な感謝だ。
だが、アルディスには別の意味に聞こえる。
俺は、援護役だ。
主役は、お前だ。
「俺、もっと強くなりたいです。アルディスさんみたいに」
蒼太がまっすぐな目で言う。
「アルディスさんは、俺の目標ですから」
その言葉が、棘のように刺さった。
目標。
もう、俺はお前の目標じゃないだろう。
お前は、俺を追い越したんだ。
「……そうだな」
アルディスは笑顔を作った。
顔の筋肉が、悲鳴を上げている。
「明日も頑張ろう」
「はい!」
夜。
陽だまり荘の部屋で、蒼太は疲れて先に寝てしまった。
アルディスは一人、テーブルに座っていた。
また、あの安い酒を取り出す。
棚の奥から、普段は飲まない銘柄を。
グラスに注ぎ、一気に煽った。
苦い。喉が焼ける。
もう一杯。
酔いが回り始める。
頭がぼんやりとしてくる。
だが、考えることは止まらない。
師匠を追い越した。
天才ってのは、恐ろしい。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
アルディスは天井を見上げた。
木目が、ぼやけて見える。
「でも、俺には役割がある」
口に出して、呟いてみる。
「戦況を読むこと。敵の動きを予測すること」
「こいつを勝たせること。それが俺の役割だ」
自分に何度も言い聞かせる。
自己暗示のように。
「俺は、こいつの師匠だ」
「こいつを勝たせるのが、俺の役割だ」
何度も、何度も。
だが、心の奥では、疑問が湧く。
本当にそうか?
こいつがもっと強くなったら、俺の援護すら要らなくなるんじゃないか?
俺は、また足手纏いになるんじゃないか?
グラスを握りしめる。
手が震える。
ベッドで眠る蒼太を見る。
あどけない寝顔だ。
安心しきっている。
この少年は、俺を信じている。
俺を尊敬している。
アルディスは立ち上がり、蒼太のベッドの傍に立った。
そっと、蒼太の髪を撫でる。
柔らかい髪が、指の間をすり抜ける。
「お前は、何も悪くないんだ」
小さく呟く。
「才能があることは、罪じゃない」
涙が一筋、頬を伝った。
すぐに拭う。
「でも、俺は……」
その先が、言葉にならない。
アルディスは酒瓶を片付け、ベッドに横になった。
天井を見つめたまま、また眠れない夜が過ぎていく。
三日目の朝。
アルディスの目の下には、隠しきれない隈ができていた。
蒼太がそれに気づき、心配そうな顔をする。
「アルディスさん、ちゃんと眠れてますか?」
「ああ、大丈夫だ」
アルディスは笑って誤魔化す。
「今日は、訓練でもするか。実戦ばかりじゃ体が持たない」
「そうですね」
二人は訓練場へ向かった。
途中、街の人々が二人を見て、囁き合う声が聞こえる。
「あれが、天才少年か」
「師匠、大変だろうな」
その声が、アルディスの耳に刺さる。
でも、表情は変えない。
笑顔を保ち続ける。
訓練場で、アルディスは的を射る練習をした。
50メートル先の的の中心に、矢が吸い込まれるように突き刺さる。
もう一本。
また一本。
全て中心。
技術は確かだ。
命中精度は、おそらくギルド内でもトップクラスだろう。
だが、レベルは上がらない。
49のまま、動かない。
隣で、蒼太も矢を放っている。
まだ命中率は低いが、確実に上達している。
その成長速度を見て、アルディスは複雑な気持ちになった。
嬉しい。
誇らしい。
でも、同時に。
怖い。
その日の夜も、アルディスは一人で酒を飲んだ。
自己暗示のように、自分の役割を繰り返し唱えた。
「俺は、こいつの師匠だ」
「こいつを勝たせるのが、俺の役割だ」
でも、その言葉は、自分を納得させるためのものだった。
本当の答えは、まだ見つからない。
役割を見つけたはずなのに、嫉妬は消えない。
むしろ、日に日に重くなっていく。
だが、その感情を表に出すことは、絶対にしない。
それが、アルディスの矜持だった。
それが、大人である俺が、蒼太にしてやれる唯一の誠実だった。
窓の外では、月が静かに街を照らしている。
物語は、まだ続く。




