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プロローグ

 酒場の喧騒が、やけに遠く聞こえた。


 いつもなら賑やかな笑い声や怒号が飛び交うギルド併設の酒場も、今夜ばかりは俺たちの席だけが妙に静かだった。四人がけのテーブルに並んだジョッキからは、もう湯気も立っていない。


「三十歳か……もう、そんな歳になったんだな」


 ガルドが自嘲気味に呟いた。金髪を無造作に撫でつけながら、ジョッキを傾ける。その横顔は、いつもの快活さとは程遠い、どこか疲れた表情をしていた。


「ガルド、まだまだ若いよ」


 エリカが明るく言った。赤い髪をポニーテールに結んだ彼女は、いつも通りの笑顔を浮かべている。でも、その笑顔がどこか硬いことに、俺は気づいていた。


「そうだな。まだまだこれからだ」


 ドランが静かに頷く。茶色の髪を掻き上げながら、彼もまたジョッキに視線を落とした。いつもは冷静沈着な彼が、今夜は珍しく言葉少ない。


 俺——アルト・フェルナンドは、三人の会話を聞きながら、自分のジョッキを見つめていた。琥珀色の液体が、テーブルの明かりを反射してゆらゆらと揺れている。


「乾杯、しようぜ」


 ガルドがジョッキを持ち上げた。


「ああ」

「うん」

「……ああ」


 四つのジョッキが、鈍い音を立てて触れ合った。


 パーティ「蒼穹(そうきゅう)の剣」結成七周年。そして、ガルドの三十歳の誕生日。本来なら祝福すべき夜のはずだった。


 だが、誰もそれ以上言葉を続けられなかった。


 沈黙が、テーブルを支配する。


 周囲の冒険者たちは相変わらず騒いでいる。今日の戦果を自慢する者、明日のクエストについて相談する者、単に酒を煽って笑い合う者。


 七年前、俺たちもあんな風に希望に満ちていた。


 ガルドが声をかけてくれた時のことを、今でも覚えている。


『なあアルト、俺たちとパーティを組まないか?』


 当時二十二歳だった俺は、ソロで活動していた。パーティを組む自信がなかったからだ。剣士としてのレベルはそこそこ上がっていたが、どこか自分に自信が持てなかった。


 でも、ガルドは笑顔で言った。


『お前は真面目だし、堅実だ。俺たちに必要な人材だよ』


 エリカも頷いた。


『そうそう。私たち、前衛が足りなくて困ってたの。ぜひ来て』


 ドランは相変わらず無表情だったが、小さく頷いた。


 俺は、初めて「必要とされている」と感じた。


 パーティ「蒼穹(そうきゅう)の剣」は、こうして結成された。


 最初の二年間は、本当に楽しかった。


 四人の連携は日に日に良くなり、クエストの成功率も上がった。レベルも順調に伸びた。ギルドのランクも、FからEへ、EからDへと昇格していった。


 このまま行けば、いつかCランク、Bランクにも届く——そう信じていた。


 でも、五年前から空気が変わった。


 レベルの伸びが、急激に鈍くなったのだ。


 最初は気のせいかと思った。でも、半年経っても、一年経っても、レベルは一向に上がらない。同じダンジョンを何度も攻略し、同じ敵を何度も倒しても、経験値は雀の涙ほどしか入らなくなった。


 何度ステータスプレートを確認しただろう。


 Lv37。


 Lv37。


 Lv37。


 数字は、決して変わらなかった。


 ギルドの職員が「成長限界」という言葉を口にするたび、俺は耳を塞ぎたくなった。Lv30の壁。Lv40の壁。多くの冒険者がそこで立ち止まる。天井を見上げても、その先には何もない。ただ冷たく硬い石があるだけだ。


 俺もその一人に過ぎなかったのだと、思い知らされる。


 努力は、報われなかった。


 朝練をした。筋トレをした。剣の素振りを何千回も繰り返した。


 それでも、レベルは上がらなかった。


 ガルドはレベル四十二。二年間、一ミリも成長していない。


 エリカはレベル三十九。レベル四十の壁を前に、四年間停滞している。


 ドランはレベル三十八。彼もまた、四年間足踏みしている。


 そして俺は、レベル三十七。五年間、まったく成長していなかった。


 パーティの中で最もレベルが低い。


 足を引っ張っているのは、俺だ。


 そう思うと、胸が締め付けられた。


「なあ……」


 不意に、ガルドが口を開いた。


「俺たち、いつまで冒険者を続けるんだろうな」


 その一言が、凍りついた空気を叩き割った。


 エリカが顔を上げる。ドランも、ゆっくりとガルドを見る。


 俺は、ジョッキを握る手に力を込めた。


「……どういうことだ?」


 ドランが静かに問う。


 ガルドは苦笑した。


「いや、なんていうか……俺たち、もう三十歳だろ? エリカは二十六、ドランは二十八、アルトは二十九」


「それが、何か?」


 エリカの声が、わずかに震えている。


「俺たち、五年間レベルが上がってない。このまま冒険者を続けても、たぶんもう伸びない。だったら、そろそろ次のことを考えた方がいいんじゃないかって思うんだ」


 次のこと。


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 沈黙が、再び訪れる。


 ドランが、ゆっくりと息を吐いた。


「……実は、俺も同じことを考えていた」


「え?」


 エリカが驚いた顔をする。


「出身の教会から、神父として戻ってこないかって打診されてるんだ。冒険者としては限界かもしれないが、僧侶としての経験は活かせるって」


 ドランの告白に、ガルドが頷いた。


「俺も、実家から家業を継げって言われてる。父親からは『三十歳までに区切りをつけろ』ってずっと言われてた」


 エリカが、テーブルに視線を落とした。


「……私も」


 彼女の声が、一瞬だけ途切れた。


 俺の方を見ようとして、それから視線を伏せる。


「姉から、宮廷魔法使いの話をもらってる。このまま冒険者を続けても、姉を超えられないって、自分でもわかってるから」


 何かを言いかけて、飲み込んだ言葉があったような気がした。


 でも、俺にはそれが何なのか、わからなかった。


 三人が、それぞれの事情を語った。


 そして、三人の視線が俺に集まる。


「アルトは、どうする?」


 ガルドが問いかけてくる。


 俺は、何も答えられなかった。


 次の予定? セカンドキャリア?


 そんなもの、何もない。


 俺には家族もいない。天涯孤独だ。冒険者以外のスキルもない。剣を振ること以外、何もできない。


 冒険者を辞めたら、俺には何が残るんだ?


「……わからない」


 ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。


 ガルドが、申し訳なさそうな顔をする。


「そうか……無理に決めなくていい。ゆっくり考えろ」


「でも、次のパーティを探すっていう手もあるぞ」


 エリカが前向きに提案する。


「もっと若いメンバーと組めば、また成長できるかもしれない」


 でも、それは慰めにしかならなかった。


 レベル三十七の、もうすぐ三十歳になる剣士を、誰が欲しがる?


 ドランが、静かに言った。


「なあ、一度……解散しないか?」


 その言葉が、宣告のように響いた。


「俺たちは七年間、よくやった。誰も悪くない。ただ、俺たちが年を取っただけだ」


「でも、もう三十代だ。次のことを考える時期だと思う」


 ドランの言葉に、ガルドが頷いた。


「……俺も、そう思ってた」


 エリカも、小さく頷く。


「私も……」


 三人が、俺を見る。


 俺は、何も言えなかった。


 解散。


 その言葉が、頭の中でこだまする。


 もう、このパーティは終わりなんだ。


 七年間、共に戦ってきた仲間と、別れるんだ。


 胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 でも、俺には反対する権利なんてなかった。


 だって、足を引っ張っていたのは俺だ。


 みんなが次のステップに進もうとしているのに、俺だけが足枷になっている。


 だったら、せめて笑顔で送り出さなきゃいけない。


「……ああ」


 俺は、無理に笑顔を作った。


「それが、いいと思う」


 ガルドが、ホッとしたような、でも悲しそうな顔をした。


「お前は悪くない。ただ、俺たちが年を取っただけだ」


「お前なら、きっと新しい道を見つけられる」


 ドランが、珍しく優しい声で言った。


「また、どこかで会おうね」


 エリカが、涙声で言った。


 俺は、何度も頷いた。


 言葉にすると、泣いてしまいそうだったから。


「じゃあ……最後に、乾杯しようぜ」


 ガルドがジョッキを掲げた。


「七年間、ありがとう」


「ありがとう」

「ありがとう」

「……ありがとう」


 四つのジョッキが、再び触れ合った。


 今度は、誰も彼もが涙を流していた。


 俺も、我慢できずに泣いた。


 七年間の思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る。


 初めてのダンジョン。


 初めての大物討伐。


 ランク昇格の喜び。


 仲間が傷ついた時の恐怖。


 それでも、四人で乗り越えてきた日々。


 それが、今夜で終わる。


 酒場を出る時、エリカが振り返って手を振った。


「また会おうね、アルト」


 ドランも頷いた。


「いつでも教会においで」


 ガルドが、最後に俺の肩を叩いた。


「焦るな。お前のペースでいい」


「……ああ」


 俺は、もう一度頷いた。


 三人が、それぞれの方向へ歩いて行く。


 俺は、一人でアパートへの道を歩いた。


 夜風が冷たい。


 春の訪れを感じさせる、少しだけ柔らかい風。


 でも、俺の心は凍りついたままだった。


 部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、膝から力が抜けた。


 壁に背中を預けて、ずるずるとその場に座り込む。


 目の前には、磨き上げた剣が立てかけてある。


 父の形見の剣。


 手入れされたその剣は美しかったが、今の俺には、その輝きが酷く冷たく感じられた。


 父さんは、この剣で多くの魔物を倒した。


 そして、俺にこう言った。


『お前には才能がある。立派な剣士になれ』


 でも、俺は才能なんてなかった。


 レベル三十七で止まったまま、五年間。


 何度修行しても、何度ダンジョンに潜っても、成長しなかった。


 俺は、父の期待に応えられなかった。


 そして今、パーティからも必要とされなくなった。


 剣を見つめる。


 父の期待。剣士としての誇り。


 それらが今は、俺の心を押し潰す鉛のように重かった。


 みんなには次がある。


 でも、俺には何もない。


 冒険者を辞めたら、俺には何が残るんだ?


 警備員? 荷物運び?


 そんな未来しか見えない。


 部屋の中を見回す。


 剣。鎧。冒険者としての装備。


 それだけが、俺のすべてだった。


 でも、もうそれすらも、意味を失った。


 俺は今日、何者でもなくなった。


 部屋の暗闇の中で、俺は一人、膝を抱えた。


 涙は、もう出なかった。


 ただ、空虚だけが胸を満たしていた。


 これから、どうすればいい?


 答えは、見つからなかった。


 窓の外では、街が眠りにつこうとしている。


 明日になれば、また朝が来る。


 でも、俺には明日が見えなかった。


 ただ、暗闇だけがそこにあった。

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