3.
空港に着いたのは、出発四十五分前。
計画的ギリギリ。
というか、これ以上削れねぇ。
駐車場から走る。
冷たい朝の空気が肺に刺さる。
RTAチャレンジ、最終ステージ突入。
手荷物検査、セキュリティ、出国審査――全部が蛇の列だ。
「おいおい、勘弁してくれ……」
息を整えながらパスポートを出す。
その瞬間、目に入った名前に思考が止まった。
Haruya D. Shoed
……誰だよ。
俺の名前はヨシハル・ナントカだ。ナントカは知らん。
“Haruya”ってなんだ。しかもミドルネーム付き。
“D.”? いつから貴族になった?
審査官は無表情にパスポートをめくり、
スタンプを押す直前、俺はもう一度その綴りを追った。
H A R U Y A D S H O E D。
……ん?
Y O S H I H A R U D E A D。
……
数秒の沈黙。
理解した瞬間、口の端が引きつった。
「総務課の悪ふざけかよ……」
マジでセンスが死んでやがる。
“ヨシハル・デッド”のアナグラム。
よりによって出国審査で死を宣告されるとはな。
Good morning to hell。
スタンプが押される。
乾いた音。
機械的な声で「Have a nice flight」。
はいはい、地獄行き片道フライト、行ってきます。
――搭乗。
幸いにも、三列席の真ん中。
左右は空いてる。
他人の存在を気にせず死んだ魚の目で座れるなんて、むしろラッキーだ。神に感謝。
離陸。
体が浮く。
あの瞬間が嫌いだ。
地に足がつかねぇ感覚って、昔からどうにも落ち着かない。
人生も仕事も宙ぶらりんなのに、これ以上浮かされてどうすんだ。
ベルト着用サインが消える。
しばらくして、機内サービスが回ってきた。
キャビンアテンダントが微笑みながら声をかけてくる。
「コーヒーでよろしいですか?」
「……ああ。ブラックで。」
俺はコーヒー派じゃねぇが、眠気覚ましのためだ。
紙コップがトレーに置かれる。
その瞬間、彼女が小さく手を滑らせるように――1枚のメモ帳を置いた。
無言で、微笑みのまま去っていく。
見間違いじゃない。
A6サイズ、無印系の安いメモ。もしやデートのお誘い。
開くと、そこに書かれていたのは――
R7hD0nPqWk
10桁の英数字。大文字小文字入り。
はぁー、神は死んだ。
ログインパスワードだ。
……マジかよ。
膝の上でノートPCを起動する。
暗転した画面に、黒い反射で自分の顔が映る。
死人がPCを開けてる。
ジョークにも程がある。
入力。
ログイン成功。
デスクトップにファイルが二つ。
一つは「LOCKED」――名前の通り、開けねぇ。
もう一つは「TO_YOSHIHARU」。
嫌な予感しかしない。
それでも開く。
――メッセージが表示された。
「世界で唯一、信頼できる君へ。」
一行目で背筋が冷えた。
この時点で既におかしい。
俺には“世界で唯一信頼できる誰か”なんて存在しねぇ。
読み進める。
「現地の調整者は裏切っている。
このノートを必ず届けてほしい。
君にしか頼めない。」
……誰だよ、お前。
ノート?こっちのパソコンでもUSBメモリでもなく、
S8で受け取ったバックの中の、あの使いかけの大学ノートか?
ざらり、と指先に冷や汗が浮く。
何かがもう、俺の知らない段階で動いてる。
座席の隣を見る。
誰もいない。
でも――ほんの一瞬、視界の端でスーツ姿の誰かが立ち上がった気がした。
錯覚か?
いや、機内の空調が低すぎて寒気がしてるだけか。
コーヒーはすっかり冷めていた。
味もしない。
窓の外、雲の下に広がる青が、まるで冷たい海の底みたいに見えた。
「裏切ってる、ね……」
呟きながら、俺はPCを閉じた。
どうせ、どこにいても地に足なんかつかねぇ。
なら、最後まで笑ってとことん落ちてやるさ。




