不義の澱(なろう版)
14年も愛を囁き合って寝食を共にしたとしても、縁が切れるときは一瞬だということをアルスカは知った。
彼は最愛の人だと思っていた恋人に最後の手紙を残すつもりでペンをとったが、この感情を言い表す的確な言葉がないことに気が付いた。この感情を伝えるべく言葉を尽くしたならば便箋が100枚あっても足りない。
結局、彼はただ別れの言葉と、2人で貯めた金の半分を貰う旨を書いた。
アルスカはこのガラ国で恋人と14年暮らした。彼の恋人――ケランは男である。それでも、男女の夫婦と何ら変わらずに愛し合っていた。
半年ほど前から、ケランの帰りが遅くなることが増えた。ある日、どうしても不審に思う気持ちを抑えきれず、アルスカは恋人を尾行した。このとき、アルスカには確信に似た直感と、どうか誤解であってほしいと願う気持ちがあった。しかし、アルスカは見てしまった。
14年間愛し合ったケランは、仕事場から出ると、その足で見知らぬ男と合流した。2人は手をつなぎ、頬を寄せ合った。愕然とするアルスカの目の前で、その影は宿に消えていった。
それ以来、アルスカはずっと苦しかった。アルスカはガラ国の出身ではない。ケランへの愛のためにこの国にやってきたのだ。その愛が枯渇したことにより、異国の風はより冷たさを増した。
その苦しみは筆舌に尽くしがたい。抉られた魂が痛み、炎に炙られて心が泣く。それでもアルスカは平静を装い、恋人と唇を重ね、体をつなげることもあった。それは彼がこの現実を受け入れていない証拠でもあった。
やがて魂のみならず、体が悲鳴を上げだすと、ようやくアルスカは裏切りの意味を理解した。
アルスカは急に食べ物が食べられなくなった。彼は何度も吐き、えずき、生理的な涙を流して苦しんだ。彼は自暴自棄になった。酒でパンを流し込み、大声を出して、家に寄り付かず、ときには道端で寝ることもあった。
そうして自分を追い込むうちに、ふと彼は正気を取り戻した。
荷物をまとめて家を出る。アルスカは一度だけ家を振り返った。荷物をまとめているときは、無様に泣きはらした目をしてこの家を離れるのだと思っていたが、それは杞憂に終わった。
心はどこまでも晴れやかで、新しい生活への期待に溢れている。長く暮らしたこの家に愛着がないわけではなかったが、アルスカは異国の人間だ。もうここにいる理由はない。それに何より、彼は10代で故郷の東方を出て以来、根なし草だ。どこでも生きていけるという自信があった。
こうしてアルスカは旅に出た。目的地は彼が青年時代を過ごした隣国メルカの地である。そこで友人を頼るつもりだった。
彼は正気ではあったが、まだどこか夢見心地であった。この悪夢が終わり、かつてのまぶしい朝が来ることを願っている。しかし、それが叶わぬことも彼は知っている。
*****
アルスカは隣国メルカのサザンという街の裏通りにある鄙びた宿で友人を待った。その友人とは卒業以来会っていなかったが、ひと月ほど前に来訪を知らせる葉書を出していた。友情を信じるならば、再会を果たすことができるはずだ。
宿の毛布は擦り切れている。井戸の水は赤銅色に濁り、表面に小蠅の死骸が浮いていた。窓の向こうはずっと曇り空であり、時折耐えかねたようにぱらぱらと涙を流す。
ガラ国は乾燥した砂漠の多い国であった。湿った空気を吸い込むと、異国の地にやってきたのだと痛感させられた。
アルスカは酒でも飲んで時間を潰すつもりだったが、この国は戒律により春の三カ月は禁酒と定められていた。酒場であってもこの時期は水と牛乳しか供さない。教会を中心に発展を遂げたこの街は厳格に戒律を尊守しているのだ。
赤毛と碧眼、鷲鼻がこの国に多い顔立ちであり、黒髪黒目で低い鼻をしているアルスカは明らかな異邦人である。それでもこの国の決まりに従うべく、彼は酒を諦めた。
アルスカは手持無沙汰になって窓辺で曇天を眺めながら煙草をふかした。この煙草は非常に強く、大の大人をも陶酔させる。この時期、メルカ国で楽しむことができる唯一の娯楽である。
アルスカもその昔、この国に留学でやって来て初めてこの煙草を吸ったときは、あまりの強さに前後不覚となり憲兵の世話になった。
当時、夜中にわけのわからないこと叫ぶ者の多くが国賊的思想を持っていたため、アルスカも拘束され、思想調査を受けたのだった。異邦人であり、まだ言語を勉強中だったアルスカは四苦八苦しながら自分に危険思想がないことを数週間かかって説明した。
2、3日ほどそうして窓辺で青春時代の苦い記憶に耽っていると、どんどん煙草は灰になり、とうとう残り1本となってしまった。
アルスカは深いため息を漏らした。彼は酒と煙草以外で退屈を誤魔化す手段をすっかり忘れてしまっていたのだ。
窓の外を通行人が通る。人々はシャツとズボンだけで、自分の目的地へと俯いて足早に駆けていく。
長い戦争で、物資を供出し続けているせいだろうか。街に活気はなく、この街に来るまでに通り過ぎてきた街道沿いの街々に比べて全体的に煤け、古びていた。
しかし、この街を出て東に歩くと、すぐに広大な農地を見ることができる。そこでは農夫たちが農道にしゃがみ込んで呑気に雑談をしているのだから、すべてが戦争一色、というわけではないことをアルスカはすでに知っていた。
アルスカは最後の煙草を大事に吸った後、所在なく街の地図を広げて眺めた。この街は古くからある田舎の街と、教会の建物が立ち並ぶ比較的新しい街に分かれている。
この宿は古い街の西端に位置し、こちら側には戦火に追われた東方の人々があちこちで下働きをしている。そのため、アルスカと同じ黒髪に黒い目の人間もよく見かけた。彼らはこの国で使われている言葉とは異なる言葉を話す。それはアルスカの故郷の言葉でもある。アルスカも彼らと同じ東方の出身なのだ。
この国の人々の中にはどうせ分からないだろうとアルスカたち東方の民にからかいの言葉を投げつける者もいる。かつてアルスカが学生の頃にそのような暴言を吐かれたら、アルスカはこの国の言葉で何倍にも反駁し相手を黙らせた。アルスカはこの国の大学で4年間言語だけでなくその手の輩に対する処置も学んだのだ。
もっとも、それは彼の故郷が戦火で焼け落ちる前のことであり、いまはアルスカのような東方の民に対する風当たりはさらに強くなっている。
それは、戦争で物資が不足し、人々の心がすさんでいるからだ。
14年前、信じられないほど豊かだと思ったメルカ国が堕ちる。アルスカはしばしその現実を飲み込めなかった。
アルスカが睡魔の中でぼんやりと考え事をしていると、部屋にノックの音が響いた。
「フェクス、キタ」
東方系の顔立ちの男がたどたどしく、そう告げた。彼はみすぼらしい服を着て、右手に箒を持っている。アルスカは彼に礼を言って宿の入口へ向かった。
宿の薄汚れた扉の脇に、フェクスは立っていた。アルスカはその顔を見て、苦笑いをした。
その昔、学友の間で美少年と名高かったフェクスであるが、十数年の月日で丸い頬が削げ、指が節くれ立って、目じりには皺ができていた。この国でありきたりな赤毛の髪には白いものが混ざり、碧眼までもがくすんでしまったように感じさせる。
それでもフェクスがこちらにくしゃっとした笑顔を向けると、青年のときを共に過ごした鮮やかな記憶が一気に蘇り、アルスカは懐かしさで胸がいっぱいになった。
「長旅だったでしょう。疲れていませんか」
フェクスは丁寧な言葉を使った。それでアルスカも思わず他人行儀に返した。
「もう十分休みました」
「いつ着いたのですか?」
「3日ほど前でしょうか」
「早かったんですね。葉書には春祭りの後と書いてありましたが……念のため寄ってよかったです」
しばらく当たり障りのない会話をした後、フェクスは気楽に笑ってアルスカの背を叩いた。
「歳をとったな、お互い」
それを合図として、彼らは青年のころに戻ったように笑いあった。
「相変わらずお前の発音は完璧だな。この国に来るのは久しぶりじゃないのか」
フェクスに尋ねられて、アルスカは大学を卒業してからの年数を指折り数えた。
「14年ぶりかな」
「それはすごい。ふつう、言語ってのは使わないと忘れるらしいが、お前は前よりうまくなってる」
「ありがとう。少し前まで通訳の仕事をしていて、話す機会があったおかげかな」
「それはいい商売だ。こんなご時世だ。さぞ儲かっただろう」
遠慮のない物言いをする友人に、アルスカは苦笑した。
「まぁ、明日のパンに困らないくらいさ」
「もったいないな。お前がこっちの国の生まれならもっと稼げるのに」
歳をとると円滑な人間関係構築のためのいくつかの技術を自然と身に着けられると思っていたが、そうでもない場合もあるようだ。アルスカは青年時代となんら変わらない奔放な男に安堵を覚えた。
変わってしまった街で、変わらない友人がまぶしかった。
このフェクスという男はかつて大学で政治を学んでいた。若いころのフェクスは野心家の片鱗を見せていたが、その失言の多さから敵が多く、学生時代に大きな実績を残せなかった。
しかし、アルスカたち留学生にも平等に接し、文化を学びたがるような節もあったため、決して政治家に向いていないわけではないとアルスカは思っていた。むしろ、フェクスのような男が失言癖を治して政治家になってくれれば、きっといい未来があると思ったくらいだ。
アルスカは尋ねた。
「フェクスはここで何の仕事を?」
「軍の仕事を手伝って食いつないでる」
その言葉に羞恥が含まれていることにアルスカは気が付いた。
大学時代、2人の青年は壮大な夢を語ったものであった。フェクスは政治家になると息まいていた。それが14年後、ただ日銭を稼ぐだけのくたびれた壮年になってしまったのだ。
アルスカも自身の堕落をよく知っているだけに、フェクスの羞恥が痛いほどわかった。かつて、アルスカも故郷とこの国の懸け橋になると目を輝かせたが、ついに外交の仕事には就けなかった。いつかそのうちもう一度外交の仕事を探そうと思っているうちに、戦火によって故郷を失い、夢は夢のまま終わった。
しかし、アルスカはその羞恥に気づかないふりをした。彼は円滑な人間関係の構築を学んでいたのだ。
「へぇ、いい仕事じゃないか」
フェクスは肩をすくめた。
「いいもんか。手の付けられない連中のお守りだ。ところで、なぜこんな街に? 何も面白くない街なのに」
「実は、仕事を探しているんだ。軍で通訳を探していないか?」
「なんでまた」
「家を飛び出してきたんだ。いま、少しの金と、数着の服しか持ってない」
「はあ?」
アルスカは事の次第を語った。
「ケランと別れた。それで、家を出たんだ。この国に住むのは私の夢だったから、心機一転しようと思って」
フェクスは目を見開いた。
「なんで別れたんだ? あんなに仲良かったのに」
「ケランに浮気された」
「それくらい……」
フェクスの失言を遮って、アルスカは言い切った。
「許せない。私たちは男同士で、子どもを望めないんだ。気持ちがないなら、一緒にいる理由がない。死ぬ気で働けばひとりで生きていくのには困らないさ」
「でも……」
まだ納得しないフェクスに、アルスカは哀れっぽい声を出して懇願した。
「頼むよ。私みたいな異邦人がこの国で仕事を得るためには、あなたの協力が必要不可欠なんだ」
*
アルスカとケランの出会いは今から16年前になる。2人はこの国の大学で知り合った。彼らは同じ留学生の身分であったが、その性質はずいぶん異なっていた。
アルスカは言語を学ぶ奨学留学生であった。奨学留学生とは成績優秀者のことである。彼らは学費の支払いを免除され、また生活費としていくばくかの金が支給される。彼らの多くが貧しい国の出身で、立身出世を目指してがむしゃらに机にかじりついていた。
一方、ケランは裕福なガラ国の金貸しの家の次男で、留学にかかる費用はすべて彼の親が支払っていた。彼は経済学を専攻していたが、勉学はそこそこにして、親の監視がない異国の地で酒を飲み、賭博場に出入りをして、ときには憲兵の世話になることもあった。
このような対照的な2人であったが、あるとき講義で隣に座ったことから友人になった。同性愛は、この宗教が強く国民を支配しているメルカ国では禁止されている。しかし、東方とケランの出身地であるガラ国では認められていた。そして、男を求めている空気というのは、お互いにわかる。
留学生の寮には男しかいない。禁欲的な寮内で同性愛というのはそれほど珍しくもなかった。
彼らは惹かれ合い、ついに愛し合うにいたった。
言語を学ぶにはまず恋人作りから、という先人の言葉は正しい。アルスカは大学で4年掛けてメルカの言葉を話せるようになった。それに対して、ケランの母語であるガラ語を理解するのには半年で十分であった。
アルスカは三か国語を身に着けたことで、自分が立派な外交官になれると信じた。
しかし、それはアルスカの恋ゆえに叶わなかった。卒業と同時に、ケランはアルスカに母国に来るように言った。ケランの家は金貸しをしていて、ケランも国に戻ればその仕事をする。収入は一般的な商人や農民よりはるかに高水準だ。彼はそのうち自分の店を持つつもりだと言った。
「これから、東方もメルカも豊かになって、取り引きが増える。アルスカは俺の店で通訳として働けばいいじゃないか」
この言葉にアルスカは頷いた。外交官の夢を捨てても、ケランと共にいたかった。若い彼らは恋に燃え上がり、そのまま手と手をとってメルカ国を出でガラ国へ向かった。
その恋が鎮火した後のことなど考えもしなかった。
*****
アルスカはスープの匂いで目を覚ました。この感覚はいつぶりだろうか。彼は簡単に身支度をすると、1階へ下りた。
そこでの光景に、アルスカは心底驚いた。
「料理ができるとは、意外だ」
炊事場ではフェクスが軽快に野菜を切っていた。
「凝ったものは作れないぞ」
「手伝おう」
アルスカは腕まくりをした。
その日、食卓に並んだのは、パンとチーズ、野菜スープとベーコンエッグだった。不精な男2人の朝食には似つかわしくないほど豪勢だ。
「昨日はよく寝れたか?」
尋ねられて、アルスカは頷いた。
「ありがとう。悪いね、家に泊めてもらって」
「いい。どうせ部屋は余ってる。好きなだけいればいいさ」
アルスカは家から持ち出した金で家を借りるつもりだったのだが、フェクスによると、この街は異邦人に対して家を貸さないようになったのだという。そこで、フェクスの家の2階の空き部屋を借りることになったのだ。
アルスカは頭を下げた。
「ここまでしてくれるだなんて、なんと礼を言えばいいか……」
フェクスからは、予想外の言葉が返ってきた。
「礼はいい。……昔、お前が好きだった。……学生ってのは男所帯だから、一時の気の迷いだったかもしれんがな」
それを聞いて、アルスカは苦笑した。その言葉はアルスカにとって痛烈だ。アルスカはその一時の気の迷いで14年もガラ国で生活したのだ。そしてこの上ないほど苦しめられた。
「……気の迷いで済んでよかったな」
彼はこう返すので精一杯であった。
朝食のあと、フェクスはアルスカを連れて家を出た。アルスカは東方の言葉と、メルカ国の言葉、そしてガラ国の言葉を話すことができる。フェクスの考えでは、アルスカにできる仕事はたくさんあるはずであった。
ここ5年ほど、メルカは南方の国と戦争をしている。この国は東方のアルスカの故郷を焼き、さらに領土拡大を目指して進軍を続けていた。メルカ国はいま兵士が足りない。そこで、東方の難民を兵士に徴兵しようという動きが広がっている。軍では、難民を教育するための通訳を常に募集している。
また、北のガラは裕福な国であり、そちらとは交易が盛んだ。商会に行けば、通訳は食うに困らないはずである。
フェクスはいくつかの案を考えたあと、まずは彼の現在の職場である軍に顔を出すことを決めた。
*
軍所有の建物を出て、アルスカつぶやいた。
「よかった」
「すぐ決まったな」
隣を歩くフェクスも嬉しそうである。アルスカが無事に職を得たのだ。
「たぶん、死ぬほど忙しいぞ」
「それくらいの方がいい」
フェクスのからかいの言葉に、アルスカは真剣に返した。いま彼は没頭できる何かを求めているのだ。
アルスカの新しい職は翻訳事務官補佐である。
そのまま、各言語で送られてくる書類を翻訳する事務官を補佐する仕事だ。軍内の庶務を行う部署に配属されることになる。
アルスカは今日からでも勉強をはじめるつもりでこう言った。
「軍の専門用語が載ってる辞書はないだろうか」
「そんなのあるわけないだろ。実践あるのみだ」
「簡単に言うよ……」
彼らはそのまま市場へ向かって、いくつかの野菜と果物を買い求めた。
途中、アルスカが気が付いて尋ねた。
「ところで、あなたの仕事は? 今日は休み?」
「ああ、今日はいい。どうせ日雇いだ。働きたい日に行く」
アルスカは思った以上にフェクスの経済状況がよろしくないのを察した。
「……すまない。できるだけ早く一人で暮らせるようにするよ」
「気にしなくていい。部屋は余ってる。異邦人に家を貸す奴を見つけるのは大変だぞ。それより、いくらか家賃を入れてくれれば、そっちの方が助かる」
言われて、アルスカは頷いた。
「わかった。いくらだ? 手持ちで足りるなら、今日にでも払おう」
「今月は友情割引だ」
アルスカは眉を下げた。
「ありがとう」
「いいってことよ」
それから、アルスカは忙殺の日々を送った。
軍の翻訳は、これまで商人の翻訳しかしてこなかったアルスカには難易度が高かった。職場では聞いたことのない専門用語が飛び交い、アルスカは耳を澄ませてそれらを聞き取ってメモに書き留めた。彼は遅くまで職場に残って割り当てられた仕事をこなし、家に戻ってからは書き留めた単語の意味を調べた。ときにはフェクスを教師にすることもあった。
言語とは不思議なもので、かつてアルスカがまだ初級学習者だったころはひとつの単語を覚えるのにも苦戦したが、上級者となると、単語の響きからある程度の意味の予測がつき、するすると頭に入っていく。
アルスカは久しぶりに味わう学びの喜びに夢中になった。
*****
アルスカが仕事に慣れたころ、事件が起こった。
その日、アルスカが何枚かの書類を翻訳していると、翻訳事務官が扉からひょこりと顔を出した。
「アルスカ、ちょっといいか」
呼び出されてついていくと、上官は廊下で窓の外を指さした。そして困り眉でこう言った。
「お前に会いたいって人が来てるぞ。あそこに立ってる奴だ。知り合いか?」
アルスカは指の先を見て、顔をしかめた。しかし、相手が上官であるので、すぐに平静を装った。
「……まぁ、知らないこともないですがね」
「会ってきたらどうだ? お前、ちょっと根を詰め過ぎだ」
アルスカは嫌々ながら外に出て、その男に声を掛けた。
「なんでここに?」
アルスカの質問に、男は応えない。
「アルスカ、俺が悪かった」
そこに立っていたのは、もう二度と会うことがないと信じていたケランであった。
アルスカは首を振った。この悪夢が早く終わってほしいと思った。
「怒ってない。もう忘れた。帰ってくれ」
「話を聞いてくれ」
「聞きたくない。それが用件なら、もう帰ってくれ。私は怒ってないし、もう気にしてない。二度とここに来ないでくれ」
ケランはなおも食い下がる。
「誤解なんだ」
アルスカは急に腹立たしい気持ちになった。彼はこれまで悲しむばかりであったが、ここにきて忘れていた怒りがこみ上げ、止めることができなくなった。
「そうであることを願って、何回も確認して! 調べたんだ! 結果はこれだ! もういいだろう!?」
つられて、ケランも声を荒らげる。
「こんな終わりでいいのか!? ちゃんと話そう! 俺たちは14年も一緒にいたんだぞ!?」
「14年もだまされてたんだ! あなたがそんな人間だなんて気が付かなかった!」
「だましてない!!」
2人は大声で怒鳴り合った。
もっと前、それこそ、アルスカの心が冷めてしまうより前にこうして喧嘩をしたならば、もしかしたら違う未来があったかもしれない。アルスカが泣いて、ケランがその涙をぬぐってくれたなら、またはじめからやり直すという選択肢をとったかもしれない。しかし、現実はそうならなかった。
アルスカはひとりでケランの裏切りを抱え込み、心が擦り切れてしまったのだ。裏切りを裏切りとして責め立てることができない関係しか築いてこなかったのは、アルスカにも責任がある。
だからこそ、傷つけ合わずに終わる道を選んだのだ。
2人は一通り大声を出したあと、肩で息をした。少しだけ頭が冷えた。
アルスカはいつの間にか流れていた涙を袖でぬぐった。
「あの相手の男はどうしたんだ?」
「別れた。遊びだったんだ」
「信じられない」
2人はどこまでも平行線だ。
ケランは弱った声で尋ねた。
「どうするつもりなんだ? この国はお前も知ってる通り、東方の異邦人には厳しいところだ。こんなところで生活できるのか?」
アルスカは強く言い切った。
「どこの国でも、私は異邦人だ」
故郷が焼け落ちてから、どこへ行ってもアルスカは異邦人だ。そして異邦人だからと見くびられるのにも、慣れてしまった。そんなことよりも、今はケランに侮られる方が耐えがたい。
「でも……」
なおも言い募ろうとするケランに、アルスカは言い捨てた。
「もう放っておいてくれ。私たちは終わった」
ケランは肩を落として帰っていった。
アルスカはなぜここがばれたのかと首を捻ったが、よく考えてみると、ここしかないことを思い出した。
アルスカの故郷はいまだに戦火がくすぶり、とてもではないが帰れない。そしてガラで私の知り合いは皆ケランの知り合いでもある。ケランはその知り合いに連絡をとり、アルスカがガラにいないことに気が付いたのだ。
そうなると、次にアルスカが行く国といえば、メルカしかない。
アルスカはため息をついた。それから頬を一度叩くと、彼は仕事に戻った。
*
ケランに厳しい言葉を浴びせて以来、ケランはアルスカに話しかけてくることはなくなった。しかし、彼の姿を見ない日はない。ケランはいつもフェクスの家の前にじっと立って、アルスカの出勤と帰宅を見ていた。
アルスカはケランを不気味に思った。それは、フェクスも同意見であった。
ケランはたびたびフェクスにアルスカについて仲介してほしいと依頼しに来た。フェクスが首を振ると、ケランは烈火のごとく怒鳴り散らした。フェクスはその様子を見て、尋常ではないと思った。
2人は相談して、憲兵に窮状を訴えることにした。
「なんとかしてください」
アルスカは憲兵に向かってこう頼んだ。しかし、異邦人であるアルスカを救おうとする憲兵はいない。アルスカは歯がみした。
貧しい東方出身のアルスカと、裕福なガラの出身であるケランでは、アルスカの分が悪い。これが、もし彼がか弱い女性であったなら、または彼がメルカ人であったならば、また違った対応をされたのは間違いない。
しかし、その不平等を叫んだところでどうしようもない。差別というのは差別される側ではなく、差別する側の問題なのだ。アルスカにどうにかできる性質のものではない。
「……しばらく、仕事は日が落ちる前に切り上げろ。俺も迎えに行くから」
憲兵に訴えに行った帰り道で、フェクスはそう言った。彼はアルスカの身を案じていた。いまはどこに行くにしてもアルスカとフェクスは一緒に出歩いている。これがアルスカひとりになったら、一体どうなるのかわからなかった。
しかし、アルスカは首を振った。
「それは申し訳ない。それに、そんなに早く仕事は終わることができない。いま、補佐官の中で私が一番翻訳が遅いんだ」
「命とどっちが大事だ」
アルスカは黙った。彼はどうするべきかわからなかった。安全を優先するならばこのままフェクスに送り迎えを頼むべきだ。しかし、いつまでも気のいい友人に迷惑をかけるわけにもいかないと思っていた。
また、最後がどうであったにせよ、14年も共に暮らしたケランが自分に対してそこまで無茶はしないだろうという驕りもあった。
その日、アルスカはひとりで帰路についた。アルスカは朝から咳をしながら仕事をしていて、みかねた上官に帰宅するよう命じられたのだった。まだ日が高く、アルスカは油断していた。
道の真ん中に立ちふさがる人影がある。その人物の顔は逆光で見えない。それでも、アルスカは14年のつきあいでその人影がケランであるとわかった。
「あ……」
怒鳴りつけて追い払おうとしてしかし、声が出なかった。その人物は異様な雰囲気を発し、ゆらゆらと上体を揺らしている。
アルスカは無意識のうちに一歩後退した。
ケランは笑い出す。ケタケタとした無機質な声だ。アルスカの背中に汗が噴き出した。
「なんで、わかってくれないんだ」
そう言って、ケランは大きく一度揺れた。アルスカは嫌な予感がした。それは身の危険を伝える第六感のようなものなのだ。ようやくアルスカは叫んだ。
「こっちに来るな!」
このとき、アルスカはケランの右手に銀色の輝きを見た。
それがナイフであると気が付くより早く、アルスカはケランに背を向けて走り出していた。逃げなければならないと思った。脳内では警鐘が鳴り響いている。しかし、恐怖が足の動きを阻害する。
――間に合わない。
そう思った。アルスカはすべてが緩慢に見えた。世界はゆるやかに動き、ナイフを構えたケランの足音が大きく耳に響く。
アルスカは目をつむった。
そして次に目を開けた時、彼の目の前には返り血を浴びて呆然と立ち尽くすケランと、その足元に倒れ込むフェクスがいた。
フェクスはアルスカを迎えに来たところだった。そして、ナイフを持つケランを見て、アルスカを庇って飛び出したのだった。
アルスカは絶叫した。
*****
それから、フェクスは街の大きな病院に運ばれた。彼は腹部をナイフで刺され、大量に出血していた。
医者が手を尽くした甲斐あって、彼は一命は取り留めたものの、昏睡状態が続いた。
アルスカはフェクスの傍を離れなかった。
気のいい上官はアルスカに長期休暇を許した。
アルスカは後悔していた。すべてはケランの不義から始まったことではあるが、アルスカは向き合うことから逃げた。これはアルスカの不義だ。ケランを壊してしまったのはほかでもない、アルスカなのだ。アルスカとケランはお互いに不義に不義を重ね、積もった澱がフェクスを襲った。
フェクスにとっては災難な話だ。
戦争で金も物資も食料も足りないというときに、異邦人が家に転がりこんで来ただけでなく、さらにその異邦人の元恋人に刺された。
どれほど謝罪をしても足りない。アルスカはフェクスの体を見つめて頭を掻きむしった。
アルスカは懸命に介抱した。ひと匙、水のような粥をすくってフェクスの唇に当てる。根気のいる重病人の看病を、彼は弱音ひとつ吐かずにやりつづけた。
そうして10日ほど経ったとき、フェクスの指がぴくりと動いた。アルスカはそれを見逃さず、フェクスに向かって呼びかけた。
「フェクス」
彼の声に応えるように、フェクスのまぶたがゆっくりと開いた。それを見て、アルスカの口からはまっさきに責める言葉が出た。
「無茶を……なんで……」
アルスカの声は途切れ途切れではあるが、フェクスは言わんとするところを理解した。
それから数日後、フェクスは起き上がれるほどに回復した。そこに至って、ようやくフェクスはアルスカの言葉に反論した。
「守って、悪いか。……好きなんだ、お前のことが」
アルスカは泣きたくなった。恋や愛を捨ててやって来たこの国で、愛を囁かれるとは思わなかった。
「気の迷いだな」
アルスカの言葉に、フェクスは笑った。
「そうだな。14年間会わなくても消えないくらい、強烈な気の迷いだ」
「……」
フェクスは片眉を跳ね上げて、おどけて見せた。
「ケランと別れたって聞いて、俺は喜んだんだ。最低だろ?」
「……そんなことは……」
「で? どうなんだ? 俺は命を懸けたんだが、お前の気は迷いそうか?」
アルスカは首を振った。
「そんな言い方は卑怯だ……」
「ああ、俺は卑怯だ。お前が異邦人で、立場が弱いのをいいことに、家に居候させて、あげくに罪悪感で縛ろうとしてる。……嫌ってくれていい。……異邦人に家を貸さないってのは嘘だ。お前は家を借りれるし、なんなら軍の宿舎もある」
アルスカはこの馬鹿な男を叱った。
「もっとやり方があっただろう。死ぬところだったんだぞ」
「これしか口説き方を知らない。正攻法で口説いて、学生の頃にケラン相手に惨敗した。覚えてるか? 俺、お前に結構言い寄ってたんだぞ?」
2人は黙った。アルスカの気持ちを整理するには時間がかかる。フェクスもそれを理解している。彼は目を閉じた。待つのには慣れている。
*
フェクスが死にかけてからというもの、アルスカは献身的に彼を支えた。その原動力は罪悪感でもあったし、別の気持ちでもあった。アルスカはその気持ちに気づかないふりをしていた。
あのあと、逃げ出したケランは見知らぬ街で憲兵に捕縛された。ガラの地では金持ちの彼も、ここではただの異邦人だ。彼はメルカ人を害した罪で厳しい罰を受けることになる。
獄中から、ケランは何通もの手紙をアルスカに送った。しかし、アルスカはそれらを読まずに捨てた。もう二度と会うことのない人間に心を乱されたくないのだ。それでも、手紙を捨てた屑入れの中から嫌な気配がする気がして、アルスカを悩ませた。
フェクスは立ち上がれるようになると、医者の忠告を無視して歩き回った。アルスカはフェクスを見張るので大忙しだ。そうして、次第に屑入れに投げ捨てた紙切れのことなど、すっかり忘れてしまった。
さらに、アルスカが仕事に復帰すると、ますますケランのことは過去のものになっていった。
そうして日常を取り戻していったある日、アルスカが料理をしていたら、後ろからフェクスが抱きついてきた。アルスカが振り向くと、フェクスは舌を出してこう言った。
「お前に任せてたら、いつになるか分からない」
アルスカはフェクスの言わんとするところを理解した。フェクスはぐっと腰を押し付け、そのそそり立ったものを慰めてくれと言外に求めている。
アルスカは驚いた。
「……な!」
「だって、嫌なら、出てくだろ。でも、いてくれる。それが答えだ」
満足げなフェクスに、アルスカは反論の言葉を持たない。彼は口をぱくぱくと開いたり閉じたりしたあと、耳まで赤くなって、俯いた。
「……自分でも、どうかしてると思う」
「俺もだ。この国では同性愛者は破門だ」
「……」
「そうなっても、いいと思ってる」
そこまで言うと、フェクスはアルスカの顎を掴んで、強引に唇を重ねた。
*****
情事の熱が引いたあと、アルスカは口を開いた。
「苦労するよ」
アルスカはこの国で同性の恋人を持つということがどういうことかをよく知っている。同性愛者は教会から破門され、また迫害を受ける。フェクスはこれから、この関係を世間から隠して、さらに異邦人であるアルスカを守らなければならない。東方の難民はいまこの国の治安悪化の直接的な原因である。東方の民であるアルスカへの風当たりは強い。
アルスカの言葉を十分に理解したうえで、フェクスは言った。
「それを、変えたかった」
「……」
アルスカは黙った。フェクスの言葉にはかつての青年時代の熱が戻っていた。アルスカが次の言葉を見つけるより前に、フェクスが続けた。
「いや、いまからでも変えればいい。俺、もう一度行政官から始めようと思う」
アルスカは頷いた。そうなればどんなにいいだろうと思った。アルスカが愛したこの国が、アルスカを受け入れ、愛してくれるなら、それは夢のような話だ。
2人は見つめ合い、ゆっくりとキスをした。それから、照れたように笑った。青年のように夢物語を語り、愛を囁きあうにはお互いに顔に皺が多くなりすぎた。
それでも2人は夢想した。この国の未来と、2人の未来に光があることを。