案の定
「終わった」
俺の人生が終わった。
馬乗りになって妻の首を軽く絞めただけなのに、ころりと逝ってしまった。
「はぁ。まったく」
椅子に座ると、あおむけのまま大の字になる妻を横目に、少し冷めてしまったコーヒーを飲んだ。掛け時計を見ると七時を回っている。そろそろ会社に行かなくてはならない。
食べかけのパンを口の中に放り込むと、椅子から立ちあがって妻の横に寄る。念のため、横腹を右足で二回強く蹴った。
「動かない。よし、死んでいるな」
万一生きていられたら困る。警察に捕まるなんてまっぴらごめんだ。
フン、フン、フーンと鼻歌を歌いながらコートを羽織って、革靴に片足を入れたとき、ふとあることに気がついた。
「あ、マフラー」
俺は十一月に入ると、妻の手作りマフラーを巻いて毎日出勤していた。会社の連中から、「赤いマフラーなんて嫁さんの気持ちが入っていますね!」と言われ、揶揄されたこともあった。
つまり、マフラー姿の俺は目立っていたため、今日のような寒い日にマフラーを巻いていかなければ、間違いなく会社の連中に怪しまれてしまう。
だが、俺はその手作りマフラーで妻を絞め殺したため、目下のところ、そのマフラーは妻の首にある。
「しょうがない」
妻のいるキッチンへと戻ると、再び倒れている妻の横に立って、見下ろしてから、しゃがみ込む。首に巻かれた赤いマフラーに手を伸ばすと、つかんで引っぱった。
「あー、やっぱ生きてるじゃん」
妻が、目を閉じながら俺の腕をつかんでいる。
躊躇なく、もう一度そのマフラーで首を絞めようとしたとき、妻がぼそっと言った。
「普段通り生活すれば大丈夫よ、あなた……」
「えっ?」
意外だったため返事に困った。
「……そのマフラー貸して」
両手でゆっくり解くと、妻の耳もとに顔を近づけて、「会社に行ってくるよ」と先程のことはなかったように振る舞った。
「いってらっしゃい……」
妻の声を聞きながら、殺し損ねたという、居ても立ってもいられない気持ちと、一方ではまだ俺の人生は終わっていなかったという、安堵する気持ちで混乱していた。
だが時間も時間だ。会社に行こう。
振り返ると、妻は眠っているかのように静かだった。
俺は赤いマフラーを首に巻き、足早に家を出ていった。
十九時ごろ、家に着いた。
玄関のドアを開けると家の中は真っ暗だった。
「おーい。帰ってきたぞぉー」
妻の返事がない。
「何やってんだ、あいつ」
俺は革靴を脱ぐと、キッチンに向かった。
だが妻がいない。
「おーい! どこにいるんだ」
家中探したが見つからなかった。
「てめぇ、どこいきやがったッ!!」
家中に聞こえるほどの大声をあげる。
「おかえりィ」
すると、か細い声がどこからか返ってきた。
「お前……ど、どこにいるんだ?」
俺の近くで妻の声がしたが、その姿は見当たらない。
「ここよ。ココ……」
首もとから聞こえた。
えっと思って、玄関にある等身大の鏡の前に立った。
黒いコートに赤いマフラーが際立っている。
鏡にゆっくりと近づき、その赤いマフラーに目をやったときだった。
ぐちゅーぐちゅぐちゅという音を立てながら、マフラーの先端に唇が生えてきた。わずかにゆっくりと動いていて、耳を傾けると、「あ…な…たー」と妻の声がする。
「き、気持ち悪い!」
急いでその不気味なマフラーを解こうとしたが、ギュッと動き出して俺の首を絞めてきた。
「オエッ!」
俺が解こうとすればするほど、反発するかのように俺の首を絞めていく。
苦しくて、口から舌を出しながら、両手でマフラーをつかんでもがいていた。
このままでは俺は妻に殺されてしまう。
「ざ、ざけんじゃねぇ。殺されてたまるかあッ!」
そのまま居間に駆け込むと、妻が日ごろから使っていた裁縫箱を開けて、大きい布切バサミをつかんだ。そして、再び先ほどの鏡の前に戻る。
「おい、お前。わかるか。このハサミでよぉ。切ってやるよッ!」
ハサミをマフラーに近づけたときだった。
「やめて、あなた!」
「うるせぇーッ!」
シャキンとハサミを入れた。
「痛い、やめて! あなたと一緒にいたいの」
さらにハサミを入れる。
「あなたァー! やめてーッ!」
次で最後だ。俺はためらうことなく切り込みを入れた。
「サヨウナラ」
妻の声が聞こえたような気がした。
「オイ! 起きろ」
「あ?」
俺は、胡座をかきながら眠っていたらしい。
目線を上げると、お巡りさんが2人立っている。
「近所からな、女性の悲鳴が聞こえたって通報があったんだ!」
玄関口に目を向けると、鍵を閉めたはずのドアが開いていた。
「鍵を壊して中に入ってみたら、これはどうなってるんだ!」
「あぁ、これね……」
俺の目の前には、下腹部から二つに切断された妻の死体があった。
もちろん死んでいる。
「ねぇ、お巡りさん。布切バサミで人を切ることって、できます?」
「そういう話は署で聞こう」
「ふーっ。やっぱり終わった」
俺は深く息を吐くと、赤く染まった布切バサミをチョキチョキと動かした。