第参話
こんな田舎の駅では、よく耳にする音だ。
電車ではない、あれはまちがいなく気動車――ディーゼルカーの音だ。
もしや、ここに列車が来るのか。
それなら助かる。
そう思って、音のする方向を見やった俺は、愕然となった。
さっきよりも、あきらかに闇が近くなっていた。すでにホームの半分くらいが、跡形もなく消えている。
このままでは、列車が来る前に、駅も俺も闇に飲み込まれてしまう。
だというのに、音が聞こえるばかりで、一向に列車は来ない。
ガガァ、ガタンゴトン。
見れば、その音に合わせて、闇が浸食を進めていた。
ばかばかしい。
俺は頭を横に振る。こんなことが、現実に起きるはずがない。
これはきっと、たちのわるい夢だ。
それなら、とっとと醒めてくれ。
寝ているとすれば、たぶん自宅の寝室だろう。隣の布団には、妻がいるはずだ。
もっと騒げば、うなされている俺に気づいて、起こしてくれるに違いない。
だが……。
今朝の出来事を思い出して、だめだ、と俺は諦めた。
「三日ほど、旅行に行ってきますから。食事は外食ですませてちょうだい」
そう言いのこして、妻は大きなバッグを担いだ。
結婚してから、二十年あまり。
子どもが手を離れると同時に、妻は家庭を顧みなくなった。
そして、ママ友やらSNSで知り合った仲間やらと、年に何回か旅行に出かけるようになったのだ。
「旅行なら、俺と行けばいいじゃないか。なんなら、一緒に温泉めぐりでもどうだ」
そう言うと、妻は迷惑そうに首を横に振った。
「いまさら、あなたと旅行なんて面倒だし、嫌だわ。ずっと家事も育児も任せっきりで、私のことなんて構いもしなかったくせに。家族より会社の方が大事なんだから、そちらでお楽しみになってくださいな」
なにを言ってるんだ、と思う。
俺は仕事をして生活費を稼ぐ、家庭のことは専業主婦の妻に任せると、お互いに納得して決めたことじゃないか。
それを今さら。
「俺は、お前たちのために頑張ってきたんだぞ。なのに、そんな言い方があるか」
妻は、深くて長いため息をついた。
「やっぱり、何もわかってないのね。とにかく、明後日まで戻りませんから」
そう言い残して、妻はそそくさと出かけていった。
ガガァ、ガタンゴトン。
音とともに、さらに闇が近づいてきた。
残されているのは、すでに駅名標の周囲だけだ。
迫ってきた闇が、足元のホームをざっくりとすくい取った。ぱらぱらと土や小石が崩れて、闇に飲まれていく。
俺は思わず後ずさった。
だがそこも奈落の縁で、俺は後ろ向けに闇に落ちそうになった。
あわてて右手で駅名標につかまり、なんとか身体を支えたが、はずみで左手が闇の中をさまよった。
その手がなにかに引っ張られたように感じて、あわてて引き戻す。
そして俺は、思わず悲鳴をあげていた。
左手の肘から先が、消えていた。
痛みも出血もない。なのに、そこにあったはずの手は、きれいさっぱりなくなっているのだ。
駅だけじゃない、俺も消えるのだ。
この闇に飲まれれば、この俺も……。
助けてくれ、と俺は叫んだ。
夢だ、こんなのはやはり悪夢だ。
だが、呼び続けて、声が枯れて。
俺はこれが悪夢などではなく、現実のことだと思い知った。
ばかな。
俺が消えるんだぞ。なぜ、誰も助けてくれないんだ。
ガガァ、ガタンゴトン、と音がする。
もたれかかった駅名標が、ぐらりと傾いて倒れた。
支えを失った俺は、駅名標とともにホームに倒れ込む。そこに襲い掛かってきた闇の牙が、ホームの一部とともに俺の下半身をごっそりと抉り取っていった。
痛みがないのが、せめてもの救いだった。
俺は仰向けになったまま、首を回した。
駅名標が目の前にあった。
間近で見てはじめて、梵字のように見える模様の周りに、かすかに文字の名残があるのに気がついた。
ようやく読み取れたのは、俺の故郷にあった駅の名前だった。
それは、はるか北の大地を走るローカル線の、ひなびた小駅だ。
単線のレールに一面だけのホーム。発着するのは、一日に数本の汽車だけ。乗り降りする客は、俺を含めて十人にも満たない。
駅員もいなければ、駅舎もない。
そんな駅だった。
それでもその駅は、ある時点まで、俺の人生とともにあった場所だった。
帰宅する父を出迎え、転校していく同級生を見送り、ガールフレンドと待ち合わせをしたこともあった。東京の大学に進学するために、父と母に見送られて列車に乗ったのが、最後の思い出だ。
その駅のあるローカル線は、それから間もなく廃止になった。
もう三十年ちかく前のことだ。
以来、あの駅に行くことはなかったし、どうなったのかなど、気にもしていなかった。
ガガァ、ガタンゴトン。
音は続く。
もういい。わかっている。いまさら、この駅に列車が来るわけはない。
これは幻聴だ。
そう思った直後……。
真っ黒だった世界が、一瞬で懐かしいあの駅の情景に変わった。
レールの継ぎ目を渡る車輪の音が、近づいてくる。
エンジンの唸りが聞こえて、曲がったレールの向こうから、一両だけの朱色のディーゼルカーが姿を見せる。
キィィとブレーキが軋み、ディーゼルカーがホームに停まる。
ガロンガロンと、エンジンが軽やかな音に変わり、ミンミンゼミの鳴き声があたりを包み込む。
吹き抜ける夏風が向日葵を揺らし、愉しげな笑い声がした。
ああ、と俺は納得した。
これは俺の、そしてこの駅の記憶なのか。
つまり。
俺は、ここに呼ばれた、ということだ。
この駅の最期に立ち会うために。
いや、一緒に消えるために、か。
再び、ガガァ、ガタンゴトンと音がする。
それはきっと、なにかが消えていく音なのだ。
そして闇は――その時は、きっともう目の前まで迫っている。
すでに身体の感覚はない。
意識が薄れていく。
最期に見えたのは……。
駅を出ていく、ディーゼルカーの後ろ姿だった。