第弐話
目の前に割り込まれて、俺は思わず舌打ちをした。
早く行かないと、電車で立つはめになるのに。
サラリーマン生活を続けて齢五十を超えた俺には、帰宅する通勤電車で座れるかどうかは死活問題だ。
だから、先を急ぐわけでもない帰宅時なのに、気は急くことになる。
自動改札機から吐き出された磁気カード定期券を、手荒に引き抜く。
いつもとちがう触感があって、俺は思わず足を止めて定期券を見た。うすっぺらいカードに重なるように、厚紙の切符が顔を覗かせていた。
なんだ、これ?
そう思うと同時に、バタンとフラップドアが閉まった。
やっちまった。
俺はもう一度舌打ちをする。
だが、今日は朝から嫌なことばかりで気が立っていたし、後ろの客に謝るのも面倒だったから、そのままフラップドアを押し通った。
あらためて、手許の切符に目を落とす。
それは、最近ではほとんど見かけることもない、硬券の入場券のようだった。ようだったというのは、券面に書かれているはずの駅名がまったく読めなかったからだ。それはもはや文字ではなく模様とでも言うべきもので、あえて言うなら寺院などで見かける梵字に似ていた。
フラップドアが閉まったのも、これのせいだろう。
さっき割り込んだヤツが残していったにちがいないが、それが目的ならとんだ悪戯者か愉快犯だ。
ため息とともに、切符から目を上げた俺は……。
呆然と立ち尽くした。
俺はいつのまにか、さびれた小駅に立っていた。
月のない夜で、まわりを見回しても、黒い闇がどこまでも広がっているだけだった。都心のビル街どころか人家の明かりすら見えない。
夏草に覆われたホームに駅舎はなく、朽ちかけた木製の駅名標がぽつんと立っていた。
闇を抜けてきた単線のレールは、ホームを通り過ぎた先で、ふたたび闇に飲み込まれている。
さっきまで帰宅ラッシュのなかにいたはずなのに、いまは俺のほかに人の気配はなかった。
ここは……。
なんとなく思い浮かぶこともあるが、俺は頭を振ってそれを否定する。
とりあえず、ここがどこなのか調べてみよう。
俺はスマホを取り出して、マップアプリを立ち上げた。
だが、画面はグレーのままで、地図も現在位置も表示されない。
そもそも、電波が届いていなかった。普段は会社から自宅までのあいだで、圏外になる場所などない。
電源を入れなおしても、結果は同じだった。
故障か?
高い料金を払って大手キャリアと契約しているのに、これでは意味がない。
こうなったら、手掛かりは駅名標だ。
スマホのライトで照らしてみたが、期待外れの結果に俺はがっかりした。
駅名を書いたペンキはすっかり剥げ落ちていて、手許の切符と同じ梵字のような模様になり果てていたのだ。
なんだか墓標のようだな、と俺は思った。
縁起でもない思いつきだが、それはあながち的はずれとも言えないようだ。
廃駅という言葉が、脳裏に浮かんだ。
レールは赤茶色に錆びつき、枕木は雑草に埋もれている。もう長いこと列車が来ていないのが、容易に想像できた。
掲示されているべき時刻表も、どこにも見当たらない。
この駅がある鉄道路線は、すでに廃線となったのだろう。
だとすると、こんな駅にいてもしかたがない。
明かりもなく暗いが、とにかく移動してみよう。
意を決してホームから外に出ようとした俺は、けれどあわてて足を引っ込めることになった。
そこには、踏むべき地面がなかったのだ。
まるで漆黒の沼に浮かぶ孤島のように、駅の外にはなにもない空間が広がっていた。
レールはどちら側も、ホームの先で闇に飲まれたようにふっつりと途切れている。小石を拾って投げてみても、なにかにぶつかるでもなく、音もたてずに闇に吸い込まれていった。
一瞬、パニックに襲われかけた。
おちつけ、と俺は思う。これはたぶん、なにかのイベントかアトラクションのようなものだろう。ならばどこかに、仕掛けなり出口なりがあるはずだ。
スマホのライトを頼りに、俺はあたりをくまなく探索した。
だが、出入口も脱出するための仕掛けも、見つけることはできなかった。
閉じ込められたのか、それとも放り出されたのか。
だとしたら、いったい誰の企みなのか。人に恨まれる覚えはない、とまでは言いきれないが、一介の営業マンの俺に、ここまでおおげさな仕返しをする酔狂なやつはいないだろう。
もしや、俺の前に割り込んだ、あいつのせいなのか。無差別な通り魔的犯行に巻き込まれたのだとしたら、冗談じゃないぞ。
くそ、あいつめ。俺をこんな目にあわせておいて、自分は先に行っちまったのか……。
やつあたりをしはじめた俺の耳に、遠くからかすかな笑い声が届いた。
ちいさな子どものはしゃぐ声、それを咎める大人の声。楽しげな会話は、学生のカップルだろうか。
なんだ、人が近くにいるんじゃないか。
だとすると、これはやはりアトラクションの類なのだろう。
俺は、すっかり冷静になって、おうい、と呼びかけた。
だが応える声はなかった。
何度も呼びかけたが、俺の叫びはむなしく消えていくだけだった。
笑い声だけが、ずっと続いている。
なんだ、皆で俺をからかっているのか。
それとも、俺を見下して嗤っていやがるのか。
あの男のように……。
「残業は許可できませんよ」
課長はそう言って、残業申請書を突き返した。
終業を知らせるチャイムが鳴り、同僚や後輩たちは机上を片付けはじめる。
「お先に失礼しまぁす」
気の抜けたような部下の挨拶が、背後から聞こえてきた。
俺は振り返って、ちょっと待て、と言った。
「もう帰るのか。まだ契約が取れてないだろう。得意先に電話の一本もかけたらどうなんだ」
彼はあからさまに顔をゆがめてみせた。
「それって、サービス残業しろってことですか」
「そういうことじゃない。いつも言ってるだろ、営業ってのはな……」
俺の指導は、けれどその途中で課長の声に遮られた。
「やめないか、主任。今も言ったが、残業は認めない。定時までに仕事を終わらせ、それでも成績を上げる。それが会社の方針だと、君も知っているだろう。他の者はITを活用して効率的な営業をしている。君のようなやりかたは、もう時代遅れだ……」
くそ……。
心の奥底に隠していたほの暗い炎が、じわりと熾った。
いまから三年前、こいつは俺の部下だった。
途中入社のOJTで得意先に連れまわし、営業の指導をしてやったのは、この俺だ。だがこいつは、俺の指導には従わず、パソコンだのタブレットだの使って恰好をつけた営業をしたがった。
結局、俺とは反りが合わず、他のチームに引き抜かれた。そしてしばらくすると、いくつもの大口の契約を成功させた。
そして、いまでは俺の上司になっている。
俺の顔色が変わったのを見て取った課長は、ため息をついて声を落とした。
「このままでは、いずれ降格か転属もあるんですよ。かつての上司に対して、そんなことはしたくないんです。そこをわかってもらえませんかね」
そう言いながら、その口元は嘲笑っていた。
俺は悔しさを噛みしめながら、会社をあとにした。
無性に腹が立って、俺は大声で「いいかげんに返事をしろ」と怒鳴った。しかし、相手は気にもとめないように、笑い続けている。
思いつく限りの悪態をついたが、やはりなんの反応もない。
やがて、遠くでファオンと警笛が鳴った。
ガガァというエンジンの唸りに、ガタンゴトンという音が混じる。
その音には聞き覚えがあった。