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金色の瞳は口ほどにものをいう  作者: 伊藤カナ
3/3

終わり

「アイノちゃーん?」


 その影が熱を持って私の肩を強くつかむ。相手が誰かなんて、愚問だ。


「お父さん、どうしてここがわかったんですか。」


 なぜいるのか。どうしてここが分かったのか。突然の事で半ばパニックになっている胸のうちを隠して、必死に声を絞り出す。掴まれた肩が痛い。さっきまでの、自分に素直になれた空間はこの人が踏み潰した。


「最近、アイノちゃんの帰りが遅いから、たまに学校から付けていたんだよ。そしたら、こんな小汚いところでぼーっと座ってやがる。」


 貼り付けた笑顔は、ゆっくりと裏の顔にシフトしていく。熱を持たない瞳と、大きくて熱い手。全てが私を咎めている。思考の中で存在感を増していくパニックに私はどうすればいいのか分からず、ただそれの濁った瞳を見ていた。


  「いてっ!?」


 一瞬のことで、何が起こったのか分からなかった。私がパニックに飲み込まれる寸前、男が突然背を仰け反らせ、一歩下がったのだ。よく見ると、男の足元にはソウマがいて、優雅に前足を舐めていた。ちらりとこちらを覗いた金色と目が合う。


「このどら猫、人間様の首に爪を立てるとは何様のつもりだ!」


 怒鳴る男に対して、ソウマはすました顔で、叫んでいたのだ。


「アイノ、早く逃げろ!」


 そう言ってくれた彼が、瞬きをした直後には宙に浮いていた。一匹分の金切り声が響く。私は、彼を蹴りあげた男から逃げるなんて出来なかった。


「ソウマ!」


 気がつけば、彼の名を呼んでいた。勿論、その声はソウマに二発目の蹴りを入れようとしていた男の気を引いた。男は、愉快な様子を象った仮面を付けたように笑い、コチラをじろりと睨む。仮面の奥で、こちらを嗤う瞳に背筋がぞくりと冷えた。


「どら猫に名前をつけるとは、随分と可愛がっているんだな。」


 猫をいたぶるより、人をいたぶる方が楽しい。男の瞳はそう言っているようだった。なら、こっちに来てくれればいい。私はそう考えていた。今まで通り、私を殴っていればいい、と。しかし男の行動は予想外で、素早く私に背を向けるとソウマに躊躇なく二発目の蹴りを入れた。どうして、やめて、彼を蹴らないで。頭の中は想定外を上手く処理出来ない。

 数年暮らした縁よりも、さっき出会っただけの、猫が大事だ。その思いが私を夢中で男の背中にしがみつかせた。思えば、これが男に示す初めての反抗だった。


「彼は関係ないの。お願い、やめて。」


 不意の出来事だったからだろう。男は、急に変わった重心に対処し切れず、後ろによろめいた。後先考えずにしがみついたがために、そのよろめきに私も対処出来なかった。そして簡単に剥がれ落ちる。尖った芝生の上に尻もちをつくのは中々痛かった。


「アイノ、お前いいのか。冬子に言うぞ。良い夫と、ダメな娘。どちらの話を聞くことか。」


 芝生の上に座り込んだ私の前で、男が自信たっぷりに仁王立ちをする。

 母の前では良い夫を演じ続けてきた。器用な男と、話すことをあまり得意としない娘。仕事で疲れて帰ってくる母は私の話を聞いてくれないかもしれない。

 男に対する恐怖と不安ですくむ足。そのそばに、ふわふわとした毛並みの何かが擦り寄ってくる。その体は何故か冷えきっていた。我に返った私が彼を見ると、彼は少しバツの悪い顔をして、私の瞳を覗くように金色の瞳を向けていた。彼の片目は無残に潰れていた。それでも彼を美しいと思うのは、きっと彼の言葉が澄んだ光を放つ、私にとって力のあるものだからだろう。


「お前の母さんが、血を分けた娘よりもこんなのを信じるわけがないだろ。な、アイノ?」


 全てを元から知っているような口ぶりだった。おそらく、私を落ち着かせるための言葉だろう。とにかく、彼の言葉には質量がある。あんな男が放つ嘘よりも何倍も現実味を帯びた重さ。

 おかげで勇気が出た。自信が持てた。全部彼がいてくれたから。


「言えばいいよ。私もお母さんに言うから。我慢はもうやめる。」


 目の前で仁王立ちをしている男に、私は背筋を伸ばして宣言した。私の言葉が意外だったのか、男の瞳が一瞬ぐらりと揺れた。明らかに動揺している。


「知らないからな。」


 それでも、男は煽るように嗤った。私には、痩せ我慢に見える。なんだ、私はこんな男に怯えていたのか。やっと現実を直視した気分だった。

 男は、私がもう怯えなくなったのを見て気を悪くしたらしい。突然火がついたように何やらブツブツと呟き、目が血走っていく様子がはっきりと見て取れた。かなり不気味だ。

 そして、ある沸点に達したのだろう。男は大きなゲンコツを握りしめ私に向けて振り上げた。

 あれがあのまま落ちて来れば、かなりの威力だろう。それでも私は、頑として動かなかった。顎を引いて、頭を差し出して、それでも彼の目を見続けた。ここで逃げたら、もうこの人に抗うことができないと思ったのだ。

 そしてそれが落ちてくる直前、凛とした一声がその場に響く。


「離婚しましょう。」


 鶴の一声は、男の背後から聞こえてきて、その場の時間を止めるようだった。


「お母さん?」

「二人ともおうちにいないから、散歩ついでに探してみちゃった。」


 私が恐る恐る声をかけると、男の後ろで影がふらりと揺れる。少し着崩れを起こしたスーツ姿の母親が、ニッコリと笑っているのがぼんやりと見えた。


「冬子、いや違うんだ。これは、その……」


 男は勢いよく振り向くと、さっきまでの勢いはどこへやら。お母さんの名を呼んでしどろもどろの言い訳を始めた。対して母はずっと笑顔だ。ニコニコと微笑んでいる。


「何が違うのかしら。動物虐待をして、娘にも手をあげようとする人なんて、離婚届突きつけられても仕方ないと思うのだけど。」


 笑顔のまま冷たく言い放つ母。その表情が誰よりも怖かった。なるほど、母はこんな風に怒るのか。冷えていく頭の隅でひとつ発見をした気分だった。


「いや……。」


 母の前で、男は小さくなるばかり。母には逆らえないらしい。初めて知った。日頃の男とあまりにかけ離れた姿に、私は一人可笑しく思った。


 その後、男はすぐに私たちの家から出ていった。もちろん、離婚届はすぐに出してくれた。あの日から、目まぐるしく家庭が組変わっていく。いや、元の形に戻っていく。その変化に私は妙な疲労と、安堵を覚えていた。

 男が完全に出ていった日、私は家の中で大きく深呼吸をした。今までの空気とは全く違う。


「アイノ、ごめんなさい。貴女がこんなに苦しんでいたなんて知らなかった。お母さん、失格ね。」


 振り返ると、母が今にも泣き出しそうな目をして申し訳なさそうにしていた。小さなテーブルひとつの向こう岸にいるのは、肩の力が抜けた母だ。ここ数日現れていた凛とした表情の母ではなく、二人で暮らしていた頃の、穏やかな表情を浮かべていた。


「ううん、違うの。お母さんは失格なんかじゃないの。私がちゃんと言えなかったのが悪いの。」

「でも、言えたじゃない。」

「あれだって、私だけの力で決断できたものじゃない。助けて貰ったの。」


 信じてもらえないかもしれないなんて考えは、脳裏をかすめもしなかった。母なら、ちゃんと聞いてくれる。その確信が彼のおかげで持てた。


「助けて貰ったって、友達とか?」


 不思議そうな顔をした母に、私は首を振る。


「人の言葉を話す黒猫さんに助けて貰ったの。」

「猫?」

「うん、ソウマって名乗る黒猫。彼が私の背中を押したんだよ。」


 私は、もう会えない彼のことを誇らしげに言った。

 そう、結局彼はあの日以降私の前に姿を現していない。お礼が言いたくて、何度も公園に足を運んでみも会えることは無かった。

 そんな、終始不思議な存在だった彼ではあるけれど、母には知ってて欲しかった。私以外の誰にも声が聞こえてなかったとしても、確かに彼はいたのだと母に言いたかった。


 私が名前を言った瞬間、母はハッとした表情を浮かべ、どこか遠くの方を見た。懐かしいものを見ているかのような表情だ。その横顔の意味が、私には分からなかった。


「お母さん?」


 疑問を込めた声で、そっと呼ぶ。その声で我に返ったのか、母は小さく笑うと穏やかな声で言った。


「ねえアイノ、今度墓参りに行きましょうか。」


 脈絡のない言葉に、私は「え?」と思わず裏返った声を出した。うちで墓参りと言うと、亡くなった父のものだ。私はその人をよく知らない。別に知りたくなかった訳では無いが、知ることで会いたいと言う気持ちが高まることが怖かった。だから避けていた。母も話そうとしてこなかったはずだ。


「うん、お父さんのこと教えて。」


 言葉の意味を考えて、大きな深呼吸をひとつ。新しい空気を取り込んで返事をした。

 もう避けない。一度ちゃんと知りたいという気持ちが、私の中に確かに存在していた。その思いはきっと、私が勇気を持つことを彼が教えてくれたから。


「ええ、そうね……とても、不器用で無愛想な人だったわ。それでね……」


 懐かしそうに語り始めた母は時々涙ぐみながら、それでもどこか嬉しそうだった。

 話は、窓から差し込む光の色が橙色に変わるまで続いた。長い話に耳を傾け続ける中で、初めてその光を好きだと思った。彼の瞳によく似た柔らかな光が、私と母の部屋を見守る。

 そんな夕暮れだった。


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