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金色の瞳は口ほどにものをいう  作者: 伊藤カナ
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「おい人間、起きろ。」


 どれだけの時間が経ったのだろう。誰かに声をかけられて重い瞼を持ち上げる。いつの間にか寝ていたらしい。

 意識を呼び戻された私は、辺りを見渡した。声の主を探したのだ。人の姿はなかった。いるのは、目の前で優雅に前足を揃えて座っている黒猫の姿だけ。はっきりとしない頭の隅で、金色の瞳が綺麗だと思った。


「君が私に声をかけたの?」


 自分で話しかけて、そんなわけないかと内心自嘲した。まさか、猫が話せるわけがない。常識的に考えてありえない事だ。分かった上で声をかけた。返事が返ってこないことを確認したかっただけだった。


「そうだが?」


 しかし、目の前の猫は私の予想を見事に裏切り平然とそんな返事をする。口は開いていない。黒猫と目が合った瞬間、脳内に音声が流れたのだ。愛想のない、低い男性の声をしていた。


 少しの間呆気に取られた。猫と意思疎通をしている。それがあまりに非現実で、素直には受け止めることが出来ないがために。

 私の言葉を待っているのか、彼は私の瞳をじっと見つめるだけで何も言ってこなかった。あまりお喋りな性格ではないと見る。


 私は、次に何を言えばいいのか分からなかった。困った末に、夕日に照らされ光沢を帯びた艶やかな黒の毛皮に手を伸ばした。純粋に、美しいそれに触りたいと思っただけだ。しかし次の瞬間、彼は虹彩を細め、私を軽く睨んだ。


「触るな。」


 突然の一言に驚いた私は、すぐに手を引っ込めた。


「どうして?」


 猫に気後れしながら、恐る恐る聞く。


「触られるのは好きじゃない。」


 彼はそう言うと、そっぽを向いてしまった。目が合わなければ話はできない。これは、彼なりの話の切り上げ方なのだろう。それくらいは分かった。


「ねえ、君の名前は? ないなら黒猫さんって呼ぶよ。」


 それでも懲りずに声をかけてみる。暇つぶし相手になってほしいと思った。もとは一人になるためにここにいるとしても、こんな一日があってもいいと思った。

  猫はこちらをちらりと見てまた顔を逸らす。


「名前は自分から名乗るものだろう。」


 無愛想な猫に正論を言われてしまった。


「そうだね、私はアイノ。カタカナでアイノって書く……あ、カタカナ分かる?」


 少しつっけんどんに返事をした。さっきから彼に振り回されてばかりであることが気に食わなかったのだ。私の言葉に対して、てっきり彼は分かるわけがないとでも言うと思っていた。それを少し望む私がいたのも確かだ。しかし、予想とは違っていた。彼は金色の瞳を見開いただけ。何も言わない。その様子からして驚いているらしい。


「黒猫さん?」


 反応が想像の斜め上を行ったものだから私は不思議に思い、彼にそっと声をかける。

 すると、彼は慌てたように表情を元に戻した。ハッとしたという感じだろうか。猫の表情はよく分からない。


「……ソウマだ。」


 さっきまでとは違う、ボソリと呟く声が伝わってきた。


「ソウマ?」

「ああ、カタカナでソウマと書く。」


 彼はそこまで言うと、顔をぷいとまた背ける。猫がカタカナを知ってることや、名前があること。確かに頭にそんな事項が流れたのだけれど、それらよりも私はひとつの感情に取り憑かれていた。懐かしさだ。もちろん、正体はわからない。


「ねえ、どこかで私と会ったことない?」


 正直に尋ねてみても、ソウマは目を合わせない。答える気は無いという意思表示なのか、それとも知らないという意思表示なのか。やはり分からない。

 それでも、彼はおしゃべりではないのだから、少し待てば何かしら返事が返ってくるかもしれない。そう思って、私は少しの間だけ彼がこちらをもう一度向くことを待った。妙な期待には、すぐに諦めがついた。

 仕方なく、私は話を切り替えることにした。といっても、猫と共通の話題などあるはずがない。少しの間考えて、何を血迷ったのか私は今ここにいる理由を話し始めた。


「私ね、お父さんがいないの。私が産まれてすぐ死んじゃったんだって。」


 いざ話し始めると寂しくて、何かに触っていたくなった。彼が背を向けているのをいいことに、彼の背中に手を伸ばす。もう少しという時に、彼がこちらを振り向いた。怒られるのだと思った。触るなと、もう一度言われるのだと思った。違った。


「そうか……アイノの父親は今もいないのか?」


 彼は、どこか居心地悪そうに言った。その姿に小さな申し訳なさを覚え、手を引っ込める。私はただ話したいだけだ。友達や先生には言いづらい家のことを、誰でもいいから聞いてほしかった。それだけなのだ。

 しかし、話し始めたことに罪悪感が頭をよぎる。いくら大人びた雰囲気を持っているとはいえ、猫に話すなんてやはりどうかしていた。


「いないわけじゃないよ、お母さんが再婚したから。でも――」


 それでも話をやめることはしなかった。彼が目を背けてくれないのをいいことに、私は続けた。目頭が熱かった。きっとこれは仕方が無いことなのだろう。私の中にある感情の針は、限界という目盛りをとうの昔に振り切っていた。それを今まで見て見ぬ振りをしていただけで、本当は我慢出来る範囲など軽く飛び越えていたのだ。直視した今は、ただただ辛くて、塩辛い。

 瞳からボロボロと零れていく雫が、スカートにいくつもの染みをつくった。


「でもなんだ、言えよ。」


 彼の声はあまり抑揚がなくて、口数も少ない。しかし、今の私の背中を押すには十分だ。


「あんな人……あんな人お父さんじゃないよ。」


 息と一緒に言葉が喉につっかえて、上手く言葉を発することができなかった。なんとか絞り出したのは弱々しく、そよ風にかき消されそうな声だけ。


「ゆっくりでいい、理由を聞きたい。」


 突然泣き出した私に、彼は引いたり驚いたりといった反応をしなかった。冷えきった私の心を包み込むような、ぬくもりを持った声で私を宥めただけ。彼の隣は、とても安心出来た。


「私の家って、お母さんが働いててあの人が家のことを任されてるの。あの人は私が帰るといつも家にいてくれて……でも、あの人は私だけを好きじゃないみたいで、何かある度に殴られるの。」


 ぽつりぽつりと話す私の声を、猫は静かに聞いていた。目を背けず、一言一言を大事に聞いてくれた。哀れみも、同情も感じられないその瞳は、恐ろしいほど静かだ。

 私が一区切り付けると、そっと尋ねてきた。


「母親は、それを知っているのか。」


 私はゆるりと首を横に振る。あの人は母の前で良い父親を演じている。


「知らないよ、だから辛いの。」

「そうか……それは、言えないのか。」


 その言葉にも首を振る。


「再婚して、お母さん明るくなったもの。楽しそうな姿を私が壊すなんて出来ない。」


 その言葉に彼は、そうかと言って黙ってしまった。はっきりとは分からないが、何かを考えているようにも見える顔をしていた。


「私が小学生の時、ある日お母さんはあの人を連れてきた。初めは優しかったよ。専業主夫をしてくれているから、私がいつ帰っても家にいるし、沢山遊んでくれたし、料理だって上手で……」


 しかし、それは母からの信頼を得るための演技だった。すぐに化けの皮は剥がれて、暴力を振るいだした時にはもう手遅れだ。


「彼の本性が出てからは、私が反抗する度あの人が言うの。――言えるものなら言ってみろよ――と。言えなかった。私はお母さんに心配をかけたくないから。」


 話し終えてそっと彼を見ると、心の奥まで覗くような、真っ直ぐな瞳をこちらに向けていた。あまりに真っ直ぐこちらを見るものだから、彼の視線で体に穴が空いてしまうのではないかと思ってしまうほどだ。


「ここに来るのは、男と二人きりになる時間をできる限り減らすためか。」


 問い掛けには、何か意図があったらしい。私が首を縦に振ると、彼は言った。今度は確信を持った、鋭い光をその金色に込めて。


「アイノ、それは言うべきだ。」


 低く芯の通った声が、私の心に訴えて来た。


「どうして?」


 涙で滲んだ視界で、ソウマの姿もぼやけてしまっている。それでも彼の言葉は私の頭にまっすぐ届いていた。なんだか不思議な感覚だ。


「お前は母親がなぜあの男を連れてきたのだと思う。」

「それは……どうして?」


 聞き返すと、ソウマは妙な間を置いてがっくりと肩を落とした。この猫は、人間みたいな仕草を器用にこなす。


「ヒントだ。あの男はお前が小学生の時に来たんだろ。じゃあ、ガキのお前が父親の不在に泣いたことは無かったのか。」


 やれやれと言う感じではあるが、子供を優しく諭すような口調に、私は素直に導かれた。


「私の、ため?」


 彼は器用に頷いた。私はその金色の光が揺れる姿を思わず目で追った。


「そうだ、お前の母親はお前のために再婚したんだ。だから言え。お前が母親を思うように、母親もお前を思っている。その二人こそが真の家族だろ。無理に他人を家族顔させる必要は無い。」


 猫の助言は、私の心にまですっと入ってきた。そして、我慢を続けて乾ききっていた心を完全に潤す。

 涙がとめどなく頬を伝い、私はやっとハンカチの存在を思い出した。

 脇に置いていたバックを漁った。油断しきっていたその時、目の前に彼以外の大きな影が落ちた。


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