毒された彼女
朝だ。次に目を開いたとき、真っ先に感じたことだった。それも、日差しが差し込む心地の良い時間の朝ではなく、まだ薄暗くとても気分が悪くなるような早朝であった。
――あー、なんか目が覚めちまったな……。
ぼんやりとした視界の中、スマホを手に取り現在時刻を確認する。まだ早朝の六時二十分過ぎ、あまりにも早過ぎる起床だ。
――まだ二時間寝られるじゃん。もっかい寝よ……。
スマホを放り捨てて、再び布団を被り目をつむる。……ふと、とても大切な何かを忘れているような、そんな違和感を感じた。
――……あれ。そういえば、七泉が来てたんだっけ。七泉は……?
眠りについたときは確か、俺にくっ付きながら眠っていたはずだ。だが今は、そんな彼女がいるという感触がない。
むくりと起き上がって、布団をめくってみる。……しかしそこには、七泉の姿が見当たらなかった。
「あれ……七泉……?」
薄暗い中、辺りを見渡してみる。まさかと思いベッドの両脇を見てみるも、やはり七泉の姿はない。
――え……もしかしてこれ夢か? いわゆる明晰夢ってやつ? いや、そんなはずは無いと思うけど……。
明晰夢なんて、今まで人生で一度も見たことがない。果たしてこれは夢か現実か、確認をするために自分の頬をつねってみる。……痛い、やはりこれは現実である。
なら一体、七泉はどこへいってしまったのだろうか。心配になった俺は、眠たい目を擦りながらベッドを出た。
「七泉ー?」
部屋を出てから、まずは台所を確認する。だが、やはりここにもいない。次に、トイレの扉を開いてみる。……いない。というよりそもそも、鍵が掛かっていない時点でいるわけがない。
それならば、あとはここぐらいしかいないだろう。焦る気持ち半分で、俺は洗面所の扉を開いた。
「七泉?」
「ひゃっ!」
「うぉあ! ビックリし……あぁ、ゴメン!」
扉を開けた途端、突然甲高い声が聞こえて驚くのに続いて、目の前に見えた光景に思わず扉を閉めてしまった。おかげでそれまで半分眠気混じりだった頭が、一気に目覚めてしまった。
「な、七泉、ごめん! まさかいるとは思わなくて……」
そう口にしてから、自分で何を言っているのだろうと後悔する。台所とトイレにいなかったのだから、あとはここしか選択肢は無いのだ。その言い訳は、明らかにおかしいだろうに。
「う、ううん。平気だよ。私のこと心配して、探してくれたんだよね……? その、ありがと」
「あ、あぁ……」
部屋の中にいる七泉から、感謝の言葉をかけられる。しかし今の俺には、そんな言葉など理解できるはずがなかった。
――な、七泉の下着……水色、だったな……。
思わぬハプニングから、いけないものを目撃してしまった。俗に言う、ラッキースケベというやつだ。扉を開いた途端、真っ先にそこへ目がいってしまったのは、やはり男としての本能なのだろうか。何にせよ、今は自分がとても情けなく感じた。
「……って、ていうか七泉。まだ六時半だけど、もう起きてたのか?」
早いうちに、こんな空気を変えなければ。早口になりながら、俺は彼女へ問うた。
「あ、うん。実家で仕事を本格的に始めてから、いつも朝の六時に起きてるんだよね。もう日課になってたから、今日も早く起きちゃって」
「そ、そうなのか。早いな……」
「ごめんね! 寝る前に言いそびれちゃって……」
「いや、いいよ。何もなかったならそれでさ」
「うん……」
そう彼女が返事をしてから、お互い一つの扉を挟んで黙り込んでしまった。当然だろう、早朝からマズいものを見てしまったのだから。何か、打開できる話題は無いものかと、思考を巡らせる。
「そっ、そういえばさ! 今日はまだ金曜日だし、お兄ちゃんは大学あるんだよね?」
そんな一言が中から聞こえてくると、同時に忙しないガサゴソとした音が鳴り出した。恐らく、急いで着替えをしているのだろう。
「あ、うん。とはいっても、今日は十時半からだし、チャリで四十分くらいだから、まだ時間はいっぱいあるんだけど」
「それじゃあ私、だいぶ早い時間に起こしちゃったね……ごめんね」
「いや、いいよ。寝坊するよりはマシだし。このまま起きて、ゆっくり朝飯でも食うとするよ」
「……そっか」
そんな返事と共に、洗面所の扉が開いた。中から出てきた七泉は当然、先程見てしまった下着姿ではなく、まさに部屋着らしいパーカーの上にジャージを羽織った姿であった。そんな彼女の姿に、どうしようもない感情を抱く。
「……実お兄ちゃん?」
思わず彼女の姿を、まじまじと見つめてしまっていた。何も告げない俺を見兼ねて、七泉が問い掛けてくる。
「えっ。あ、あぁ、ごめん。なんでもないよ」
「そっか。……それじゃあさ、せっかくだしちょっと出掛けようよ」
「えあ? 出掛けるって、どこに?」
「んー。朝の散歩がてら、朝ご飯でも買いに。ね?」
そう言うと彼女は、まるで清々しい朝のような、可愛らしい笑みを浮かべてみせた。
◇ ◇ ◇
――ねみぃ……。
白くて冷たい息を吐きながら、大きな大きな欠伸をする。やはりあそこで強がらずに、もう少し寝ておけばよかったのではと、後悔の念に駆られていた。
あの後、七泉と共に近くのコンビニへ朝ご飯を買いに行った。そこで買ったものを食べ歩きしながら、結局一時間近く家の周りを散歩していたのだ。
そのままあまり休まずに大学へやってきたおかげで、今日はもう朝からくたくただ。放課後にはバイトも控えているというのに、果たして平気でいられるのだろうか。
――しかもこういうときに限って、先生の手伝いに駆り出されるし……。おかげで遅くなっちゃったな。
建物を出て、いつも彼女と会う学食へと向かう。
今日は運悪く、授業終わりの片付けの手伝いを先生に頼まれてしまった。授業担当が、俺と同じ学科担任の先生ということもあり、顔も覚えられているからだ。おかげでお昼休みを十五分も過ぎてしまい、遅れて今から学食へと向かう次第だ。
――本城さん、待ってるよなぁ。急がなくちゃ。
人通りが多くなった構内を、早歩きで進んでいく。ボーっとする意識の中、すれ違う人々とぶつからないよう気を付けながら、目的地へと向かっていった。
「本城さーん」
いつもの学食、いつもの場所で、いつもの席に座っていた彼女へ向けて呼び掛ける。
「ごめんよ、先生に片付け頼まれちゃってさ。だいぶ遅くなっちゃった」
俺がそう言うと彼女は、こちらを見るなり「いえ……」と一言呟くと、すぐに視線を逸らしてしまった。
――あれ……またなんか機嫌悪いのかな。
またも素っ気ない彼女に対して、真っ先にそんな印象を抱いてしまった。この数日間、ここまで態度が素っ気ないのは、久々であったからだ。
「……本城さん、どうかした?」
「えっ? いえ、別に何も……」
「そう?」
言葉ではそう告げたものの、彼女はまるで何かを隠すように、俺から視線を逸らした。やはり何か、様子がおかしい気がする。
――また何かあったのかなぁ。でも、俺に話してくれるかどうか……。頑張って聞き出してみるか。
一先ずは彼女に断りを入れて、いつもの如くカウンターへ向かう。数分後、目当ての物を手に入れてから、彼女の元へと戻った。
「お待たせ」
そんな一言を告げながら、彼女の向かいの席に座る。しかし彼女は、こちらに見向きもせずに――というよりも、わざとこちらを見ないようにそわそわしながら、無言でカフェオレを口の中に流し込んでいた。
――さて、どう切り出していくかだが……。
「しっかし、今日は寒いね。そろそろ秋も終わって、冬になりそう」
「……そうですね。寒いです」
本城さんが一言、適当な返事を寄越した。お互い無言のまま、数秒の間見つめ合うと、先に彼女が視線を逸らしてしまった。
――ダメだこりゃ、もっと別の話題だな。
「そ、そうだ。すっかり話に出すの忘れちゃってたんだけどさ。この間、日和ちゃんに会ったよ?」
その一言を告げた途端、彼女の眉間がピクッと動いた。どうやら、食い付いてくれたらしい。
「サークル帰りだったんだけどね。偶々帰り道でバッタリ会って。向こうも仕事終わりだったみたいで、そのまま二人でご飯食べに行ったんだ」
「えっ、日和と……ですか?」
すかさず驚いた表情を本城さんはしてみせた。
「そうだけど。ちょうど日和ちゃんに誘われてね」
「……珍しい。あの子が男の人とご飯なんて」
「そうなの?」
「えぇ。そもそもあの子は、他の人と出掛けるなんて、滅多にしませんから」
「へぇ……」
――となるとやっぱり、俺って日和ちゃんになんだかんだで信頼されてるんだな……。何故かは知らんが。
「……先輩って、普段からも日和と連絡って取り合ってるんですよね?」
ふと、唐突に本城さんが俺に問うた。
「ん? うん、偶にね。と言っても、週に一度話すか話さないか程度だけど」
「そうですか……」
そう言うと本城さんは、またも黙りこくってしまった。一体その質問にどんな意図があったのは、よく分からない。
――なんだ……? もしかして本城さん、日和ちゃんに嫉妬でもしてるのか。……いやいや、そんなわけないよな。
質問の意図を問いたいのは山々だが、きっと彼女は簡単には教えてくれやしないだろう。だからといって、ここで話題を変えてしまったら、それこそ聞きたいことが分からなくなってしまう。俺は彼女のジッと言葉を待ちながら、いつもの食べ物にかぶりついた。
「……村木先輩って、やっぱり女好きなのかな」
「……は?」
ポツリ、静かに本城さんが一言告げた。突然の一言に驚いてしまったが、何故か俺以上に彼女のほうが、表情をハッとさせて驚いていた。
「あの……なに、突然?」
「い、いえ、違うんです! これは、その……!」
咄嗟に弁解しようと、彼女は両手をあたふたとさせている。何故俺よりも彼女のほうが、動揺してしまっているんだ?
「違うと言われても、何が違うんだかさっぱりなんだけど……」
「ですから、えっと……ああもう……」
そんな風に慌てる彼女の顔が、次第に赤みを帯びていく。どうして一人勝手に、そんなに興奮しているんだか。
「分かった分かった、一旦落ち着いて話そう。別に怒りはしないからさ」
いつまでも落ち着く様子のない彼女をなだめる。そうしてようやく彼女は頷くと、一つ深呼吸をしてみせた。
――やっぱりおかしい。
ここまで取り乱す様子の彼女は、もしかすると初めて見るかもしれない。そこまで彼女を至らしめる理由とは、一体何なのだろう。
「えっと……。急に俺のことを女好きだと思ったのは、どうしてさ?」
「それは、その。私だけじゃなくて、日和とか色んな人と連絡取ってるんだなって」
「そりゃあ取るよ、友達だもの。男でも女でも、友達だったら連絡くらいしない?」
「……そうですよね。すみませんでした」
今度はまるで萎れた花のように俯くと、彼女は小さく頭を下げた。
「それはまぁいいんだけど……。なに、陽キャって女友達とも、連絡取り合うんだなぁって思ったの?」
「そうでは、ないんですけど。その……」
何かを言いたげだが、どうやらそれ以上言葉が出てこない様子だ。これではこのまま待っていても、ずっとこの調子な気がする。
「どうしたのさ?」
「……もし気に障るのなら、教えてもらわなくて構わないんですけど」
「何よ、ハッキリ言ってみ?」
ずっと、もごもご言い続けているだけの彼女に問う。するとようやく言葉のブレーキが無くなったらしく、本城さんがその口を開いた。
「……見たんです、昨日。先輩が、女の子と二人きりでいるのを」
「え」
そんな彼女の一言に、言葉の重みも相まって、ドキリとしてしまった。何故だろう、別にやましいことなんて、一つも無いはずなのに。
「あ、あぁ……そうなんだ。だったら何も黙ってないで、声掛けてくれてもよかったのに」
「できると思いますか? 陰キャの私が。ましてや、知りもしない女の子と二人きりでいる男の人に声掛けなんて」
「あぁ……まぁ……。ごめん」
言われてみれば確かに、彼女が声を掛けられなかった気持ちも分かるような気がする。俺だって同じような場面になれば、気を遣って様々な憶測を浮かべてしまうだろう。
「今まで女性には、こうしてずっと私にばかり構ってるところしか見たことがなかったので、意外だったんです。だからその、驚いちゃって」
「あー……まぁそうかも。大学では女友達と呼べる子なんていないし、いてもサークルの仲間ぐらいだから」
俺がそう告げるも、彼女はまだ何かを言いたげにしているようだった。……その瞬間、何か嫌な予感が頭をよぎったのは、言うまでもない。
――あれ。これって、もしかして……。
「……それで」
その予感が具体的にどういう内容だったのか、それを脳内で巡らせる前に、先に彼女の口が開いた。
「……好きなんですか、あの子のこと」
「え――」
そんなこと、彼女の口から聞きたくはなかった。あり得ない、そう否定したかった。そんな言葉など、彼女にはあまりにも不釣り合いで、考えられなかったからだ。
俺の理想とはもはやかけ離れた目の前の彼女は、言葉を詰まらせているそんな俺のことを、ジッと真剣な眼差しで見つめていた。




