さそり座娘は突然やってくる
本城さんが彼らを目撃する、数時間前――。
――なんか、すげぇ申し訳ない感じがあるけど……。流石に厳し過ぎるんだよなぁ、緒方先輩。
半ば背徳感に襲われつつも、いつもの帰路を自転車に乗って自宅へとたどり着いた。駐輪場に自転車を止めて、鍵を抜き取る。
今日も放課後に、文化祭で行う演劇の練習があった。だが今日は、メインシーンの最終調整が行われる予定で、俺の出る幕は一切ない。そのため、部室にいようがいまいがあまり変わらないだろうと思い、俺はそのまま帰ろうとしていた。そんな折に、緒方先輩から全員へ向けて「全員参加だ」という連絡が入ってきたのだ。
――いやぁ、今日と明日のバイトのシフトを交換してたから、危なかったなぁ。予め先輩には、バイトの曜日を教えてあったから、すぐに了承してくれたけど……。
本来俺は、今日がバイトの予定日なのだが、明日にシフトが入っている後輩と、偶々予定を交換してしまっていた。おかげで、危うくサークルに駆り出されてしまうところだったのだ。
――はぁ。去年部長の吉澤先輩を経験しちゃってるから、緒方先輩のやり方にすげぇ付いていきづらいんだよな。早川先輩はまだ全然マシだったけど、来年まで不安だなぁ。
俺が一年生の頃に部長を務めていた吉澤先輩は、どちらかというと楽しみながら成長していこう、というスタンスだった。もちろん厳しい一面もあったが、基本的には親しみやすく、一同和気あいあいと演劇を楽しむことができていた。
それが早川先輩の代から徐々に方向性が変わっていき、次第にスパルタ化していった。それ故に、彼なりに部長として見込みがあると認められた緒方先輩が、新部長に選ばれたのだ。この生活が、一年間続くのだと思うと、やはり少し……どころか、だいぶ不安である。
――ってか、明日大丈夫かな。万が一またお呼ばれしちゃったら、黒澤に頼めばいいか。あいつなら、適当に誤魔化してくれるだろうし。多分なんとかなるでしょ。
とにもかくにも。俺が嘘を吐いて抜け出してきたことに変わりはない。これ以上考えたところで仕方ないのだから、せっかくできた休みの時間をいかに過ごすか、これから考えていこうじゃないか。
緒方先輩への愚痴もそこそこに、ため息一つを漏らしながら、自分の部屋の中へと入る。ほどよい疲れと眠気に誘われながら、荷物をベッドの横に放り投げると、倒れるようにベッドの上で横になった。
――あー、待て待て俺……。まだ夕方だぞ、今寝たら絶対後悔するぞー……。
そう自分に言い聞かせるも、一度閉じた目はなかなか開かない。
――あ、ヤバいこれ寝る。絶対寝る。寝て大体夜中の十一時とかに起きて、後悔するやつ。ダメだダメだ、起きなきゃ……。
体を起き上がらせて、今度はベッドの上に座り込む。なんとか起き上がったはいいものの、一度きた眠気は当然それだけで覚めるはずはなく、しばらくの間ボーッとしてしまっていた。――と、次の瞬間。
「わ!? ビックリした……」
意識の半分ほどが夢の世界へと片足を突っ込んでいたあたりで、突然自分のスマホが鳴り出して目が覚めた。危ない危ない、ある意味憎いが、起こしてくれただけ感謝しなければ。
一体何事だろうとスマホの画面を覗いてみる。……その中身は、飲食店からのなんてことない広告のメールだった。
――なんだよもう……驚かせやがって。
すぐにまたスマホを枕元へ放ると、ようやくベッドの上から立ち上がった。まだまだ眠たいものの、今のメールでなんとか現実へと戻ってくることができた。
――どうすっかなぁ……。暇だしどこか、出掛けてこようかなぁ。
この眠気をどうにかするには、体を動かすことが一番だ。特に家にいても用事はないし、散歩がてら外に出るのもありだろう。
眠気を口から吐き出すと、鞄の中から財布を取り出そうとファスナーを開いた。
「……ん」
ふと、枕元に置いたスマホが、再び鳴り出した。今度は通常の通知音ではなく、誰かからの着信音だった。
――誰だろう。
スマホを手に取り、画面を見る。その途端、画面に表示されていた懐かしい名前に、思わず驚いてしまった。
「……もしもし?」
「あっ……。ひ、久しぶり、実お兄ちゃん……」
耳元からは、相変わらずの弱気な声が聞こえてきた。大体一年ぶりに話すが、あまり変わっていないみたいだ。
「おー、久しぶり。どうした、急に電話なんて?」
「え、えっとね……その……」
何かを言いたげだが、言うのを躊躇っているのか、一行に続きを口にしない。スピーカーからは、外にいるのか時々車が通る音が聞こえてくるだけだ。
「なに、言ってみ?」
「う、うん。あのね、驚かないで聞いてほしいんだけど……」
「んー?」
「……い、今ね。お兄ちゃんの、部屋の前にいるの……」
「……へ?」
――嘘だろ?
「え、ちょ、ちょっと待ってて」
急いで真実を確かめるために、玄関へと向かう。そっとドアスコープを覗き込んで、外を確認した。
――……マジかよ。
扉を開いて、外の景色とご対面する。目の前には、通話相手であるはずの彼女が、本当に立っていた。
「あっ、実お兄ちゃん……」
茜よりも少し身長が高くて、後ろ髪を一本に束ている。少し気弱で落ち着いた雰囲気があり、赤縁の眼鏡を掛けていた。間違いない、この子は――。
「七泉……なんで……?」
俺の問い掛けに七泉は、気恥ずかしそうにしながら視線を下に落としていた。
◇ ◇ ◇
「急に来ちゃってごめんね。迷惑だったら、すぐ帰るから……」
部屋の中へ上がりながら、七泉が告げる。キャリーバッグを部屋の隅に置くと、疲れた様子で一息を吐いていた。
彼女は水城七泉。俺の一つ歳下で、福島県に住む従妹だ。母さんのお兄さん夫婦の一人娘であり、昔からよく一緒に遊んでいた。
彼女の実家は織物工房を営んでおり、昔からその後継ぎとして、七泉はずっと修行を積んでいた。最近はしばらく話していなかったので分からないが、今もきっと修行中の身であるはずだ。
「いやまぁ、別に来ることは全然いいんだけどさ……。そもそも、どうやってここ来たの? 住んでる場所って、教えてたっけ?」
お互いに向かい合って机の前に座る。何よりも謎であったその疑問を、早速彼女へ投げた。
「ううん。一昨日、茜ちゃんから聞いたの」
「え、茜このこと知ってたの?」
「そうだよ。そしたら茜ちゃんが『サプライズで行って驚かせちゃえ』って言うから……」
「茜のやつ……」
あいつめ、俺や本城さんだけでなく七泉まで弄ぶか。今度会ったら、軽くお説教をしてやらなければいけないな。
「直接お兄ちゃんに聞いてもよかったんだけど。なんか、その……久しぶりに連絡するの、ちょっと恥ずかしかったから……」
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃんか。昔から遊んだりしてる、従兄妹同士なのにさ」
「でもでも、だって……うぅ……」
すると七泉は、まるで萎むように小さくなってしまった。まったく、幾つになってもこんな気弱なところは変わらないようだ。
「まぁ……それは一旦いいや。それより、どうしてウチに来たの? 突然来たっていうことは、何か理由があったんだよね?」
「あ、うん……」
仕方なく話題を変えると、七泉が小さく頷いた。
昔から七泉は気弱な性格が故に、真面目過ぎるところがある。そのため、ただ気が向いたからと急に県を跨いで、一人きりで遊びに来るようなことは、絶対にあり得ないはずだ。何かしら、ここに来る理由があったに違いない。
「その……ね。私、その、昔から趣味で、絵とか漫画を描いてるでしょ?」
「あぁ。七泉、絵上手いもんな」
確か高校生の間は、漫画部に入っていたはずだ。実際どんなものを描いていたのかは知らないが、むかし俺が見た彼女の絵は、とても上手にできていた。
「え。えへへ……そう、かな」
「うん、俺は好きだよ。最近どんなのを描いてるのかは分からないけど」
「そっか……。ありがと」
するとようやく、七泉がニカッと笑ってみせた。普段はあまり表に自分を出さない分、こうして笑う七泉はレアだ。
「それでね。二年くらい前から、ツ◯ッターに描いた漫画をあげるようにしたんだ。そしたら思った以上に、反響が増えちゃって。フォロワーさんとかも、一万人ぐらいに増えちゃってて……」
「へぇ、凄いじゃん! みんな、七泉の漫画のこと褒めてくれてるんだ?」
「うん、そうなの。その、褒めてくれることは嬉しいんだけどね……? この間の、話なんだけど……」
そう言うと七泉は、またも落ち込んだ様子で萎んでしまった。どうやら今回の件は、漫画が関係しているみたいだ。
「なに、漫画がどうかしたの?」
「うん。そのね……そこそこネットでは有名な漫画家さんから、直接私にメッセージが届いたの。そこで『ぜひアシスタントとして、僕と一緒に働いてみないか』って言われちゃって……」
「おぉ凄い、良かったじゃん! つまり漫画家さんから、スカウトされたってことなんだ?」
「うん……」
とても素晴らしいことだと思ったのだが、七泉は酷く悄気た様子で、あまり喜んではいないようだった。せっかくスカウトされたというのに、どうしてなのだろうか。
「あれ、せっかくスカウトされたのに、嬉しくないの?」
「ううん、嬉しくないわけじゃないんだけどね。その……お父さんにそのことを話したら、猛反対されちゃって……」
「……あー」
その一言だけで、話の全体がなんとなく分かったような気がする。確かに彼女のお父さんなら、猛反対し兼ねない。
「私って昔から、実家の仕事を継ぐように言われてきたからさ。五歳の頃からずっと、織物の練習させられてきたし。今はもう社員として一緒にお仕事はしてるけど、正直このまま私が継いでいいのかなって思ってる……」
「七泉のお父さん、結構厳しい人だもんな。ウチの母さんも、絶対口喧嘩だけにはなりたくないって言うくらいだし」
七泉のお父さんは、自分の娘である彼女だけでなく、甥や姪である俺や茜にも、とても厳しく当たる人だ。正直今でも関わり方が分からなくて、家族総出で会う機会があっても、なるべく関わらないようにしてしまっている。
「お母さんはよく『上手くなったね』とか、『この柄綺麗だね』って褒めてくれるんだけど。お父さんからは、未だに褒められたことがないんだよね……。それどころか、その話をしたときは『そんな絵を描いてる暇があったら、もっとマシなもの織れるよう練習したらどうだ』って言われちゃって」
「それは……うーん、そうなんだ」
なんだかトゲのある言い方だ。どれほど娘に仕事を継いでもらいたいからって、そこまでして食い止める必要はないように思える。
「そこでお父さんと、口喧嘩になっちゃったの。普段なら諦めて『はい』って言うんだけど、流石に私も『そんな絵』って言われてイラッとしちゃって。私の織物の腕を下手だって言われるのは、まだ全然いいけどさ。仕事に専念させるために、趣味すら否定されちゃうのは、それは絶対違うと思うし……」
「そうだね。それは確かに、七泉のほうが一理あると思う」
「でしょ? ……それでもう、色々分かんなくなっちゃってさ。とにかくもう、お父さんと会うのが怖くなっちゃったんだ。そこで一度、思い切って家出しちゃおうかなって思ったの」
「それで、茜に連絡したと」
「うん。実お兄ちゃんが、一人暮らしを始めたのは知ってたから……。他の友達はまだ、実家暮らしの子も多いから、なんかお願いしづらくて」
「そっか」
「……それに、その……。久しぶりに……と……たかった……から」
「え、なんだって?」
七泉がボソボソと何かを呟いたが、一体なんと言ったのか聞き取れなかった。咄嗟にもう一度言ってもらえるよう聞き返す。
「……ううん、やっぱりなんでもないよ。気にしないで」
「そう? ならまぁ、いいんだけどさ……」
すると七泉は、何かを隠すように微笑んでみせた。本当は何が言いたかったのか気になるが、そう言われちゃあ仕方がない。
「……まぁ、それでね。凄く勝手なお願いになっちゃうんだけど……しばらくの間、お兄ちゃんの部屋に泊めて欲しいなって」
話題を切り替えるように七泉が告げた。
「泊まるつったってなぁ。一応布団は、茜が泊まりにきたとき用に一人分あるけど、ベッドより寒いぞ?」
「大丈夫だよ。最悪外で寝るときのために、寝袋持ってきてるから」
「お、おぉ。結構準備してきてるんだな」
「うん。しばらく帰る気ないから、そのために色々持ってきたんだ」
「しばらくって……どのくらいよ?」
「んー、流石に仕事サボり過ぎるのも迷惑だから、長くても二週間くらい? 無いとは思うけど、もしお父さんのほうから謝ってきたら、考えるとは思う」
「に、二週間かぁ……」
七泉が寝泊りすること自体は構わないが、流石に二週間も居座られるのは少し考える。……そもそも従兄妹とはいえ、異性同士二人で暮らすなんて大丈夫なのだろうか。
「あ、あのさ七泉。俺が七泉のことを、襲うかもしれないとかは考えたりしないの?」
「えっ? うーん……」
そんな俺の質問に七泉は、少し驚いた様子で唸っていた。何故そこで返事に時間が掛かるのかは謎である。
「まぁ、実お兄ちゃんだし。大丈夫だよ」
「ん……? 大丈夫っていうのは、えっと……」
「そ、そんなことよりさ! 私、泊まっちゃってもいいのかな?」
「え。あぁ……」
俺が質問をしようとした瞬間、強引に言葉を遮られてしまった。その“大丈夫”とは、一体どんな意味だったのだろう。「襲わないと思うから大丈夫」なのか、それとも……。
「……そうだなぁ。泊まっていいのはいいけど、それだけ泊まるなら家事とかは手伝ってほしいかも」
「うん、それは平気だよ。実お兄ちゃんが大学行ってる間に、やれることはやろうと思ってるから」
「そっか。……あれ、でもさ七泉。一つだけ気になるんだけど、洗濯って……?」
「あー、それならさっき来る途中で、コインランドリー見つけたから平気。私の服とかは、そっちで洗うよ」
「あ、うん……そうね……」
そんなことを、一瞬でも期待してしまった自分がバカらしい。今すぐにでも、自分のことをぶん殴りたい。
「それじゃあ、お兄ちゃんの部屋に泊まってもいいってことで大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。狭い部屋だから、申し訳ないけどね」
「そんなことないよ、全然平気だよ。……嬉しい、ありがと」
そう言って、七泉が微笑んだ。そんなさり気ない笑顔に、ちょっぴりドキリとする。
「お、おう……」
「それじゃあ、しばらくの間お世話になります。……実お兄ちゃん」
そう告げる七泉の表情は、なんだかとても喜んでいるように見えた。それはただ、泊まっていいと言われたことに喜んでいるのではなく――他にも何か、深い意味が含まれているような、そんな感じがした。




