「命」と向き合うこと(1)
河川敷からしばらく歩いた場所に、河辺さんの自宅はあった。
白い三角屋根に薄オレンジ色をした二階建ての建物で、外装の綺麗さを見るに新築らしい。恐らく、建ててまだ五年以内だろう。
今時らしいスロープを上った先にある玄関に向かい、インターホンを押す。少ししてスピーカーから「今行きます」との聞き覚えのある声が聞こえると、それからすぐに玄関の扉が開いた。
「どうも、わざわざ来ていただいてすみません」
そう言って出迎えてくれた河辺さんは、今日は紫色のセーターが印象的だった。
もうセーター着てるのか、と一瞬思ったものの、思えばもう既に十月も半ばであるし、細身の女性なら肌寒いと思う人が多いのだろう。こんな時期になっても、未だに半袖を着ている俺のほうが稀なのかもしれない。
「こちらこそ。わざわざお休みの日にお邪魔してすみません」
「いえ、お招きしたのはこちらですから……。さ、上がってください」
「すみません、お邪魔しまーす」
「……お邪魔します」
俺の言葉に続いて、本城さんがワントーン小さい声で告げる。果たして緊張しているのか、単純に面倒くさいのかは定かではないが、取り敢えずいつもの本城さんの態度である。
玄関前の廊下を渡って、俺達が通されたのは和室の客間だった。掃除はちゃんとされているが、中央に長方形の机と複数枚の座布団が置かれているだけの殺風景な様子を見るに、普段はあまり使われていないことが伺える。
「こちらに座ってください。今、お茶を持ってきますね」
「あぁ、お気遣いなく」
そう言って、河辺さんは廊下の奥へと行ってしまった。
この部屋以外も気になるところだが、下手に探索するほど俺達も子供ではない。ちゃんと指示された通り、二人して座布団に座った……と思ったら。
「ん、なんでそっち座るの?」
大体こういう場面だと、俺達が二人並んで座るのがベターだろう。だがそれにも関わらず本城さんは、いわゆる“お誕生日席”にポツンと座っていた。
「なんでって、考えたらすぐに分かるでしょ」
俺が問うと彼女は、何言ってんだコイツと言わんばかりに目を細めてこちらを見てくる。
「え。……まさか、そんなに俺と付き合ってるって勘違いされるのが嫌?」
「当たり前じゃないですか。なんでそんな勘違いをされなきゃいけないんですか。そんな勘違いをされるくらいなら、死んだほうがマシです」
「えぇ……」
男女の友達が一緒にいれば、二人で一緒に外を歩いている時点で間違われることだってあるだろうに。それが嫌なくせに、どうしてこの子は俺と一緒に出掛けているんだろう。
「あの、一応聞くんだけど、俺達って友達だよね?」
「えぇ、友達です。けれど、されど友達です。たかだか友達でしかないというのに、どうして恋人と間違われなきゃいけないんです? そんなの反吐が出ますよ」
「……なんか、この話のときだけだいぶ口当たり強くない?」
「気のせいですよ。ともかく、恋人と間違われるのだけはご勘弁なので、そこだけよろしくお願いします」
「はぁ……。分かったけどさ……」
どうしてそれほど、俺と恋人だと思われたくないのだろうか。理由はよく分からないが、その様子はまさに異様とも言えるほどだ。
――……そういえば、前に日和ちゃんが何かそんな感じのことを言ってたような……なんだっけ。
確かだいぶ前に、日和ちゃんがそれに近しい話をして、本城さんに怒られていたような気がする。内容は全く思い出せないが、もしかすると過去に何かあったのかもしれない。今度彼女に会ったら、聞いてみることにしよう。
「お待たせしました、どうぞ」
ちょうどいいタイミングで戻ってきた河辺さんが、お盆にお茶菓子と二人分のお茶を持ってきてくれた。
正直なところ、まだ冷たいほうが個人的には嬉しかったのだが、目の前に出されたのは急須で入れられた温かいお茶だった。もちろんこんなところでワガママも言ってられないので、ここはありがたく頂いておく。
ふと、俺達の座る並びを見て、一瞬河辺さんの表情が濁ったような気がする。そのまま俺の目の前に河辺さんが座って、三人で三角形に座る形となった。明らかにおかしい構図だが、そちらのワガママ姫がなかなか言うことを聞かないので、ここは何も知らないフリをしておこう。
「すみません、色々出してもらっちゃって」
「いえ、いいんです。今回は私のワガママでお二人に来ていただいたので」
「そうですか……。それで、本題のお話というのはなんでしょう?」
俺が問うと、河辺さんの表情が一変した。多少緩んでいた口元が固くなり、眉も少し引きつっている。予想はしていたが、やはりあまり良い話では無いようだ。
「えぇ……。一応先に約束してもらいたいんですが、今後もし娘の愛佳と会うことがあっても、この話は絶対にしないでもらいたいんです。それだけは、お願いできますか?」
「はい、大丈夫ですが……。そういえば、いま愛佳ちゃんはどこに?」
「愛佳はいま、夫と彼の両親と一緒に出掛けてもらっています。この話は、夫と彼の両親には責任を負わせたくなかったので……。今は、家に私一人です」
「そうなんですか。ということは、普段は五人で暮らしてるんですか?」
「そうです。けれど、お義母さんのほうが少し認知症が入ってしまっていて、ちょっとずつ老人ホームにも行き来させるようにしているんです。お義父さんはまだ平気なんですが、もう少ししたら二人とも介護が必要になってくるので、今はその準備で手一杯になっていて……。
娘の愛佳もまだ一年生ですし、まだまだ目を離せない年齢なので、何かあったらと思うと怖くて仕方ないんですよね」
そこまで話すと河辺さんは、ハッとした様子で「すみません、余計な話でしたね」と告げる。そんな話を聞くだけでも、彼女にはだいぶストレスが溜まっている様子が伺えた。
「いえ……。なるほど、そうなんですね」
そんな苦労話にも、本当は花を咲かせてストレス発散に付き合ってあげたいところだが、今回はそんな目的ではないので、申し訳ないが本題へと話題を戻す。
「それで、その話というのは?」
「そうでした。……昨日、イヨとカヨの二匹が持ってきた栗を、私の母が受け取ってしまった、という話はしましたよね?」
「はい」
「それが二年前の話なんですが……。実はその頃から、私の母も認知症が少しずつ進み始めていたんです」
「あぁ……」
またしても出てきた、認知症という言葉。その言葉を聞くだけで、じんわりとしたショックが胸を痛みつける。
「その時も恐らく、あの二匹の存在もあやふやだったのでしょうね。だから栗を受け取ってしまって、それから度々届けられるようになったんだと思います」
「そうだったんですか……」
「それから、毎日のように遊びにくるあの二匹のことが、自分の子供のように可愛かったんだと思います。私が様子を見に行ってみると、ペット禁止のアパートだというのに、何度も隠れて部屋の中に入れていたこともありました。
その度に二匹を部屋の外に出そうと母を叱るんですが、その頃には私のことも誰だか分からなくなっていました。どうやらアパートの管理人だと思っていたらしくて、『こんなにか弱い命を投げ出すのか』だとか『お前は生き物の世話する資格が無い』だとか、そんなことまで言われるようになって……」
段々と、河辺さんの声のトーンが低くなっていく。きっと、当時の出来事を思い出しているのだろう。
「何度も何度もそんなことを言われていくうちに、虚しくなってきちゃって。どうして自分の母親に、そんなことを言われなくちゃいけないのか。そう色々考えていくうちに、私の調子も悪くなってしまって……それからしばらくの間、両親の世話は私の弟に任せるようにしたんです」
河辺さんの話に、俺も本城さんも相槌を打つことなく黙々と聞いていた。想像以上に重い話に、口を開くことができなくなってしまっていたのだ。
俺の祖父母は、既に父方母方の両方ともが病気で亡くなってしまってしまっているため、その辛さは分からない。
だが少なくとも、これまでずっと暮らしてきた家族に自分を忘れられるというのは、とてつもなく辛い事実だということは俺にも分かる。
「でもやっぱり、弟は母の下の世話ができないので、それはそれで大変でした。弟の奥さんがなんとかして手伝ってくれたのですが、彼女のことを母は普段見慣れないせいか、母に凄く酷い言葉を浴びせられたみたいで。
結局弟の奥さんにも、『もうやりたくない』とまで言われてしまって……すぐにまた母の世話は、私がすることになりました」
ずっと語り続けている河辺さんの視線は、徐々に俺達から机へと下がっていた。こんなにも辛い話なら、そうなってしまうのも仕方がないだろう。
「その時、ヘルパーさん……でしたっけ。そういう人に頼もうとはならなかったんですか?」
一つ、話を聞いていて気になったことを俺は彼女に問うた。
「それはもちろん、何度も考えました。でも、私の父が『そんな輩は家に呼びたくない』の一点張りで聞かなくて。弟の奥さんに頼むことだって、かなり否定的でしたので……」
「あ、そっか。お父さんは認知症ではなかったんですもんね」
「えぇ。昔からそういうものには厳しくて、なかなかうんと言わない人だったので。私が家に行けない時は、ずっと父が世話をしていました。慣れていないながらも、料理から掃除、洗濯、散歩にまで連れて行ったりして、とにかく母に付きっきりでいてくれました。まだ父がいてくれたので、多少でも助かっていた部分はありましたね」
「それならまだ、よかったですね。二人とも世話が必要となったら、体が一つじゃ足りませんよね……」
「そうですね。ただ、父も体が万全に動くわけではなかったので、それだけでも怖くて仕方ありませんでした」
「あー……なるほど」
そこまで話すと、静かに河辺さんがお茶を一口含んだ。話に夢中ですっかり忘れていたが、そこでようやく俺もお茶を一口飲み込む。
「でもそれなら、二人もこの家で一緒に住むというのは無かったんですか?」
「もちろんそれも考えました。でも父が『夫や夫の両親に迷惑はかけられない』と言って、それも叶いませんでした」
「うーん、そうですか。だいぶ意思の固い方だったんですね」
「えぇ、昔からです。それに、唯一父だけは母に薄らですが覚えられていたので、それもあったのかもしれませんね」
「そっか、自分の奥さんですもんね……。そう言われてみると、俺もそう思うのは分かるかもしれません」
もし自分の奥さんが、将来そんな状況になったら……。完全に記憶が飛んでしまい、自分のことすらも忘れてしまったら、多少なりとも心は揺らぐかもしれない。
だがもし、唯一自分だけ覚えられていたのなら――彼女の味方は自分しかいないと、そんな風に考えてしまうだろう。自分の娘ならまだしも、赤の他人に世話を任せるなど、否定的な意見を持つのも理解できる。
「そんな生活が、一年以上続きました。おかげで私も夫もストレス続きで、なかなか体調が良くならなくて。今度は夫の両親が徐々に世話が必要になってきているので、最近はもうずっと憂鬱なんです。……こんなこと、両親の前では絶対に言えませんけどね」
そう告げると河辺さんは、大きなため息を一つ吐いた。
ここまでの話を聞いて、昨日彼女へ抱いた第一印象の理由がよく分かった。これほどまでに疲れ果てた容貌をしているのは、相当なストレスが原因なのだろう。なんとかしてやりたい気持ちもあるが、俺が関わる筋合いは無いことが悔しいところだ。
「あ、あの……」
ふと、そこまでずっと黙って聞いていた本城さんが口を開いた。一体何事だろうと、河辺さんと揃って彼女を向く。
「ご両親はもう、いらっしゃらないんですよね……? その理由って、あの、何なんですか?」
「えっ。それは、その……」
そう彼女が問うた途端、河辺さんの表情がみるみるうちに青ざめていく。昨日の様子もおかしかったが、やはり彼女の両親が何か関係しているようだ。
「……河辺さん、俺からも信じて聞きますね。あなたはまさか、変なことはしていませんよね?」
彼女に続けて、俺からもそんな問いを投げ掛ける。
しばらく河辺さんは、何かを考え込むように黙り込んで視線を右往左往させていた。何が彼女をそうさせているかは分からないが、何かとても重要なことがあるのだろうか。
「……すみません。元々そのお話をするためにお二人をお呼びしたのに、いざ聞かれると勇気が出なくて。でもここまでお話したからには、ちゃんと説明します」
そう言って、彼女はゆっくりと深呼吸を一つ済ませる。そしてようやく決心を固めた表情を浮かべると、こちらを向きながら口を開いた。
「私の両親は――今、行方不明になっているんです」
「……え?」
その言葉に、俺の思考が一瞬停止した。




