親子とワンコ
終始ぼんやりとしながら話を聞いていた、四限目の講義がようやく終わった。適当に思ってもいない講義の感想を出席カードに書いて、急ぎ足で教室を出る。
――はぁ、やっと終わった。……あのエロ本、本城さんに見つかったりしてないよな?
お昼にはマロンハラスメントだのなんだと栗の話題を繰り広げていたが、今はそれ以上にただそれだけが心配だ。
確かに彼女を信頼して鍵を渡しはしたが、最後にどこへ置いたかすら覚えていない自分のポンコツ頭のせいで、余計な心配をしてしまっている。あんなものを見られてしまったら、確実に彼女からドン引かれてしまうだろう。
――とにかく早く帰らなきゃ。本城さんも待たせてるし、エロ本も見られたくないし……急がなきゃ。
建物を出てから急いで駐輪場へと向かう。これから変な事態になりませんようにと祈りながら、自転車のペダルを漕ぎ始めた。――まさかこの後、思わぬ展開へ事が動くことなど知らずに。
◇ ◇ ◇
大学から自転車を走らせて約四十分。ようやくアパートの近くまでやってきた。毎度のことながら、自転車一本で四十分も漕ぎ続けるのは、いくら中学高校とスポーツをやっていたとしても体は疲れるものである。
――あー帰ってきた。本城さんどこにいるかな……。
家の前にいるのか、はたまた家の中か。どちらかにいてくれなければ、下手すればすれ違いを起こしそうだ。
――まぁ、つったって変に遠くまでは行かないでしょ。少し家の周り探せば、どうせ見つかるだろうし……。
自転車に乗りながら、いつもの曲がり角を右に曲がる。ようやく住宅地の中へと入り、自分が住むアパートが見えてきた。駐輪場に自転車を止めるべく、自転車から降りてハンドルを握りながら引いて歩く。
――さて、じゃあ取り敢えず自転車止めて……って。
「え?」
アパート前の駐輪場へとたどり着いたとき、目の前の光景に思わず声が漏れてしまった。途端に手の力が緩んだせいで、駐輪場の柱に自転車のペダルを思いっきりぶつけてしまう。その場から、ゴーンという鈍い音が響き渡った。
「あっ……むっ、村木先輩!」
ちょうど俺の部屋の前にいた本城さんが、その音に気付いて声をかけてくる。……しかし、その様子は少し焦っていた。
「あ、うん……。えっと……その方々は?」
彼女に向けて、最高最大の疑問を投げつける。
彼女の隣には、俺の知らない一人の女性が立っていたのだ。そしてその奥では、これまた見知らぬ小さい女の子が、二匹の茶色い犬と楽しそうにじゃれて遊んでいた。
どうして俺が住むアパートの目の前で、突如としてこんな出来事が起こっているのだろうか。あまりにも非日常過ぎる光景に、驚きを隠せなかった。
「あー、えっとー……。と、とにかく、この人です! この人! ね!?」
「……え、なに?」
突然本城さんが俺を指差しながら女性に向けてそう言うと、彼女はこちらに向かって深々と一礼をしてみせる。
「わー、おにーさんもイヨとカヨのお友達なのー?」
続いてその奥からは、今までワンちゃんと遊んでいた女の子が俺に向かって話しかけてくる始末だ。
「こら! まずはご挨拶でしょう?」
「あ、そうだった! こんにちは、おにーさん!」
そんな女の子に、女性が一喝を入れる。楽しそうにニコニコしながら、女の子がペコリとお辞儀をしてみせた。
「あの、えっと……こ、こんにちは……?」
あまりにも多い情報量に、頭がパンク寸前に陥る。取り敢えず挨拶だけはしておこうと、俺も思わず深々とお辞儀をしてしまった。
……あの、これってどういう状況?
「お騒がせしてしまって、すみません。私は河辺と申します。こっちは、娘の愛佳です」
「河辺愛佳です! 小学一年生です!」
お母さんに告げられて、彼女の足元にくっ付いている愛佳ちゃんが可愛らしく自己紹介をしてみせた。小学一年生らしくとても元気な性格で、笑ったときに見えるえくぼが印象的だ。
対してお母さんは、細々とした身体つきで大人しそうな性格だ。少し話しただけでも、愛佳ちゃんとは対照的であまり笑わなさそうな印象を持ってしまった。
「いえ……。自分は村木で、こっちは本城さんと言います」
自分と一緒に本城さんの紹介をすると、彼女は河辺さんへ軽く会釈をしてみせた。
「で……取り敢えず、どういう状況なのかを本城さんに教えてもらいたいんだけど」
家にたどり着いて早々、あんなカオスな現場に居合わせたら誰だって理解出来ないだろう。ここは本城さんに、状況を説明してもらうしかない。
「あ、えっと、まず先輩の家に着いてから三十分くらい休んで、それからそろそろ外を見回ってみるかーと外に出てみたら、あそこにいるワンちゃん二匹が栗を咥えて歩いてて、もしかしてって思ったところで河辺さん達が来て、話しかけてみたところに先輩が帰ってきて……」
「……えーっと、なんとなくは理解できた……気がする」
何故かおどおどしながら、彼女が身振り手振りをして説明してみせる。
――そうだった。この子は初対面の人と話すとき、こんな風にコミュ障発揮するんだった……。
あまりにも酷すぎる状況説明だが、仕方ない。一先ずここは、一つずつ話題を掻い摘んでいこう。
「まずじゃあ、外に出たらあのワンちゃん二匹がいたってこと?」
そんな例のワンちゃん達は、愛佳ちゃんのすぐ近くで大人しそうに二匹揃って座っていた。どうやら、性格はどちらも素直みたいだ。
「そう、そうです! そこで、あの子達がそこにある栗を口に咥えてたんです」
そう言いながら本城さんが指差す先に、確かに地面には二つの栗が転がっていた。ここ連日で俺の部屋の前に置かれた栗と、恐らく同じ種類だろう。
「となると、俺の部屋の前に栗を置いてたのは、あの子達ってことなのかな?」
「多分……。偶々置く前に出くわしちゃったんで、どうかは分からないですけど」
「……そこからは、私が説明します」
ふと、今まで俺達の会話を聞いていた河辺さんが割って入ってきた。その口調は、どうやら理由を知っているようだった。
「まずあの子達は、イヨとカヨと言います。少し大きいほうがオスのイヨで、小さいほうがメスのカヨです。どちらも野良犬で、基本はこの辺りに住んでいるみたいですが、どこで生活しているかは分かりません」
お母さんの説明に続くように、愛佳ちゃんが「合わせてイヨカヨだよ!」と楽しそうに加えてみせる。その言葉に、名前を呼ばれたと勘違いしたカヨのほうが鳴きながらガバッと立ち上がったが、すぐにまた座り込んでしまった。
ふと、そんな鳴き声に本城さんが一瞬ビクついた気がしたが、多分気のせいだろう。
「へぇ、捨て犬なんですね。……でも、どうしてウチに栗を持ってくるんでしょうか?」
「それは……村木さんが今住んでいらっしゃる部屋ですが、以前までは私の両親が住んでいたんです」
「え、そうなんですか?」
「えぇ。そのときに、ウチの母が捨て犬だったこの子達を見つけて、一旦保護したらしいんです。でもこのアパートはペットを飼うことが禁止なので、その時はやむ無く外へ返しました」
「そうですよね。このアパートじゃ飼えないのに、どうしたんだろうって思いました」
「……ですが、一度優しくされてしまったせいか、以降は度々家の前にやって来るようになったそうです。その度に両親はあまり関与しないようにしてたみたいですが、それでも懲りずに来てたみたいで」
「あぁ……」
“一度でも優しくしてしまうと、以降は何度も甘えられるようになるから、極力優しさは見せるな”なんて話は、よく聞くものだ。この子達もただ、彼女のご両親に良くしてもらいたかっただけなのだろうが、人間にとってはいい迷惑なのは言うまでもない。
「そんな中、ちょうど二年前のこの時期に、この子達が栗を持ってきたみたいなんです。もしかしたら、これを渡せばまた優しくしてくれるかも、なんて思ったのかもしれませんね。それを、とうとう母が受け取ってしまったみたいで……」
「なるほど……じゃあつまり、栗を渡せば優しくしてもらえるっていう風に学んでしまった、ということですね」
「えぇ。それまでは名前なんて付けていなかったのに、イヨとカヨと呼ぶようにまでなってしまって。それが、こうなってしまった一番の原因かもしれませんね」
右手で左腕を掴みながら、河辺さんが悲しそうにイヨとカヨの二匹を見つめる。中でもイヨはそんな話をされているとも知らずに、眠たそうに大きく欠伸をしてみせた。
「それで、今年もこの子達が来ているのかどうか確かめるために、今日は偶々立ち寄ったんです。私達は、水戸駅の近くに住んでいるので……」
「あぁ、そうなんですか。それで偶々、本城さんと出くわしたってことですね」
「そうです」
河辺さんがコクリと頷いた。
「なるほど、そういうことだったんですか……。それで、いま河辺さんのご両親は?」
「それは……」
俺の質問に、突如河辺さんの顔色が変わった。その瞬間、しまったと後悔する。どうしてもっと配慮のきいた質問ができなかったんだと、思わず自分を責めた。
「えっとねー、おじいちゃんとおばあちゃんはねー? アフリカ? ……あ、アメリカか! そこに行ってるの!」
ふと、答えられずにいた河辺さんに代わって、愛佳ちゃんがその返事をしてみせた。――その内容は、河辺さんの様子を見る限り、明らかに吹き込まれていると分かるものだった。
「あー……そ、そうなんだね。愛佳ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん、アメリカに行ってるんだ」
「うん! 帰ってくるときはー、おみやげいっぱい持って帰ってくるんだって! だから愛佳、凄く楽しみなんだぁー!」
「そっかぁ……」
チラッと、河辺さんの表情を伺う。その顔は先程より青ざめていて、冷たい表情をしていた。
「……愛佳。少しだけ、向こうでイヨとカヨと遊んでてくれる? お母さん、お兄さん達と少し大事なお話があるの」
すると河辺さんは、しゃがみ込んで愛佳ちゃんにそんなお願いをしてみせた。
「んー、そうなの? 分かったー。イヨ、カヨ、こっちこっち!」
コクリと頷いた愛佳ちゃんは、自分の太ももを叩きながら奥へと走っていった。その後ろを、イヨとカヨの二匹が追いかけていく。
「……すみません、変な話を聞かせてしまって」
改めて河辺さんはこちらに向き直すと、またも深く頭を下げた。
「あ、いえ。そんなことないですよ、頭を上げてください」
「はい……」
申し訳なさそうに呟くと、彼女はゆっくりと顔を上げながら目を右手で擦っていた。
「あ、あの、さっきの話って、その……嘘、ですよね?」
ふと、俺が口を開こうとしたタイミングで、今までずっと黙って話を聞いていた本城さんが彼女に問うた。ちょうどそれについては、俺も聞こうと思っていたので都合が良い。
「……えぇ。両親は、アメリカになんか行っていません」
「となると、やっぱり……」
その先の言葉を、俺は告げられなかった。告げなくても、自分達の中でなんとなく理解できたからだ。河辺さんもそれが分かったようで、敢えて告げずにその先を話し始める。
「……愛佳にはまだ、伝えていません。あんな話、今の愛佳には受け止めてもらえるはずがないですから……」
「“あんな話”とは?」
ふと、彼女の言葉から気になった単語を俺が復唱する。すると咄嗟に、しまったという顔を河辺さんが見せた。
「あ、いえ、その……」
急に彼女はあたふたしながら、言葉を探し始めている。……なんだかこれは、普通の反応ではない。
「あの……失礼なことをお聞きしますが、変なことをしてはいませんよね?」
「そんなことはしていません! ただ……」
大きく目を見開いて、必死になって声を上げると、河辺さんはこちらから目を逸らしてしまった。一体、何があったのだろうか。
「……すみません、ここでは話しづらいのでちょっと……」
「話しづらい、というと?」
「あまり人前では話したくないことなので……すみません」
そう言うと河辺さんは、言葉を見失ったかのように黙り込んでしまった。そんな彼女に向ける言葉をこちらも見つけられずに、ただただ愛佳ちゃんがイヨとカヨと遊ぶ楽しそうな声だけが響き渡る。
「……あっ、いけない。すみません、もうそろそろ私達は行かなくちゃいけなくて。夫の母を迎えに行かなくちゃいけないんです」
ふと、左腕に付けた腕時計を見て河辺さんが告げた。
「あ、そうなんですか……。分かりました」
もう少し話を聞いていたかったが、そう言われてしまったら仕方ない。あまり腑に落ちないが、今回は諦めるしかないだろう。
「……あの、もしよろしかったら明日か明後日、ウチに来ていただけませんか? そこで、全てをお話します」
と、思っていたら。突然河辺さんが、そんな提案をしてきた。あまりにも急な話に、思わず驚いてしまう。
「え、河辺さんの家にですか?」
「はい。こうなってしまったのも、何かの縁かもしれませんし……今後村木さんがここに住む以上、知っておいて欲しいこともあるので」
そんな河辺さんの目つきが、その一言で急に変わった。こうも言うということは、本当に何か伝えておきたいことがあるようだ。
「……分かりました。じゃあ、明日なら空いているので、明日にでも……」
「ちょっと、村木先輩!?」
「んえっ? うぉあ!?」
そう返事をした瞬間、唐突に本城さんが俺の腕を引っ張っては、二人して河辺さんに背を向けるような態勢になった。なんだなんだ、急にどうしたというんだ。
「何、どうしたの?」
「『何、どうしたの?』じゃないですよ! そんなついさっき出会ったばかりの人の家に行くだなんて、なに考えてるんですか!?」
俺だけに聞こえるよう、小声で本城さんが告げる。どうやら彼女はまだ、河辺さんのことを疑っているようだ。
「別に大丈夫だよ。そんなに悪い人には見えないし」
「そうじゃないでしょ!? どうして信頼関係すらできていない相手の家に、そう易々と上がりこめるのかと聞いてるんです!」
「そう言われてもなぁ……」
そんなこと、特に理由を聞かれても“無い”。特に深い理由は無いし、なんとなくそう思っただけだ。
「大丈夫だよ。何かあったら逃げるし、心配すんなって」
「まったく……あなたって人は、ホントにどうしてそういつもいつも……」
そう言って、本城さんが深くため息を吐く。
「そういうところが、陽キャの先輩らしいだろ?」
「ふざけてる場合ですか? そんなことを聞いてるんじゃなくてですね……!」
「あの……もしかして、迷惑でしたでしょうか?」
本城さんが何かを言いかけたとほぼ同時に、後ろから様子を伺っていた河辺さんが声を掛けてきた。きっと、本城さんの態度を見てそう感じてしまったのだろう。
「あぁ、いえ! そんなんじゃないですよ、大丈夫です」
咄嗟に振り向いて、なんとか誤魔化そうと挽回する。すると安心したのか、河辺さんがふぅっと息を漏らした。
「そうですか……。あの、もしご迷惑じゃなければですが、そちらの“彼女”さんもご一緒に来ていただいて構いませんよ」
「……え、彼女?」
“彼女”というワードにビックリして、思わず隣の本城さんを覗き見る。
「あー、えっと……」
口をぽっかりと開けて、その場にボーッと突っ立っている。その瞬間、俺は察した。
――あ、これマズい、絶対ヤバいやつだ。
「あの……本城、さん?」
そんな俺の予想は、すぐさま的中してしまった。
「……私、帰ります」
「あちょ、ちょっと待って!?」
急に顔を真っ赤にさせては、そのまま立ち去ろうと歩き出してしまった。そんな彼女を止めようとすぐに腕を掴むも、あっさり振り払われてしまう。
そんな俺達の様子に河辺さんは、困った顔をしてこちらを見ていた。おまけに愛佳ちゃんとイヨとカヨの二匹にも、変な目で見られてしまう始末だ。ああもう、これどうやって誤解を解けばいいんだ、まったくもう……。
その後。膨れっ面の本城さんをなんとか引き戻し、河辺さんとの誤解も解くことができた。明日また改めて、河辺さんの自宅へ向かう話もつけおわり、なんとか一安心だ。
しかし、ああもワガママな後輩を持つと、先輩としても苦労しっぱなしだ。もう少し頑固なところが寛容になってくれれば、先輩としてもありがたいところなのだが、それが叶うのはいつになることやら……。
はて、そういえば栗問題の他にもう一つ、大事なことがあったような気もするが、なんだっただろう。……まぁ、きっと気のせいだろう。多分。




