味噌ラーメンに苦みを添えて
次の日。二限目の講義が終わって、建物を出る。
本城さんがいないお昼休みのこの時間は、未だにやっぱり慣れない。一体この時間をどう過ごすか、今日も構内を歩きながら考えていた。
――あー……。なんでこういう時に限って、二限と四限に講義入れちゃったんだろう。おかげで先週も昼の間は暇だったんだよなぁ。
お昼休みの五十分と、三限の九十分。計二時間二十分の暇な時間。先週は黒澤に声を掛けてみたが、彼は午後の三限から五限まで入っているらしく、俺とは予定が合わなかった。
結局、この時間は誰も暇を潰せるような相手がおらず、一人どこかで寂しく時間を潰さなくてはならないらしい。これを来年の一月までずっと続けるのだと思うと、なんだか気が遠くなるような日々だ。もっと早く知っていれば、履修修正期間にもう少し時間割も調整しただろうに。
――うーん、いつもの学食行ってもなぁ……。一人じゃつまんないし、どこで昼飯食べよう……。
構内をゆっくり歩きながら、今日の昼ご飯について考える。
いつもの学食はつまらないし、人気があるほうの学食はもう既に人がいっぱいで座れないだろう。あの学食は大体、二限が無い人や早く終わった人達がすぐに全席を支配してしまって、少しでも遅れると座れなくなる。それもほとんどが陽キャなのか、大抵が四、五人くらいの集団行動だ。
おかげで陰キャの人々や俺のような独り身にとって、あの学食は窮屈だ。今なら本城さんが以前に言っていた言葉も、なんとなく分かるような気がする。
――コンビニも素っ気ないしなぁ。大学の外にでも行くか?
せっかく二時間弱も時間があるのだから、その考えもありだろう。となると、大学の外にある昼ご飯を食べられるような場所といえば……。
――あっ、美味丸! あそこでいいじゃん。そうだよ、すっかり忘れてた。
一ヶ月前に彼女と行ったラーメン屋。あそこなら、二時間弱の暇つぶしも優にできるだろう。店主の彼もまた来てくれと言っていたことだし、ちょうどいいかもしれない。
そうと決まれば話は早い。俺は早速ラーメン屋美味丸へと向かうべく、自転車を停めてある駐輪場へと歩みを進め出した。
◇ ◇ ◇
大学から自転車を走らせること約七分。以前はもう少し掛かったような気がするが、道を覚えてしまえばもっと早く来られそうだ。これなら毎週この場所に通おうとしても、余裕で来られるかもしれない。……まぁ流石に毎週通うとなると、金銭面が不安になるので考えものだが。
目の当たりにするのは三度目となった、大きな美味丸の看板の下をくぐる。「こんにちは」と挨拶しながらドアを開くと、そこには前回訪れた時と同じ顔がそこにはあった。
「らっしゃい! ……お、あんちゃん。久々だな! また来てくれたのか?」
数度しか会っていないのに、ありがたいことに彼のほうも俺のことをまだ覚えていてくれたらしい。俺の来店がそんなに嬉しかったのか、店主の桐野さんは満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「はい、この時間ちょうど暇なので。ここの味噌ラーメンも美味しかったですし」
「おーおー、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。さぁさ、座った座った」
「あ、はい! ありがとうございます」
彼に促されながら、以前と同じカウンター席に着席する。今日もこの店にお客は誰もいないようで、以前と同じようにすっからかんの状況だった。
「……ところで、今日彼女は一緒じゃねぇのか?」
「え」
席に座ったところで開口一番、俺の前に水が入ったコップを差し出しながら、彼がカウンターに身を乗り出して問うてきた。そんな問いに、思わず変な声が出る。
「いや、それはだから前回も言いましたけど、俺は別にあの子とは付き合ってないんですって」
「またまたぁ。そうは言っときながら、本当はほっとけないんだろ?」
「それは、まぁ……。ああ見えて結構無茶するような子なんで、放っておくのはちょっと怖いなってのはありますけど」
「よく分かるよ。ウチの家内もそうだからな」
「え……?」
うんうんと頷きながら、桐野さんが意外な一言を放つ。本城さんと一緒というのは、一体どういうことだろうか。
「ま、積もる話は注文を聞いてからだ。どうする、あんちゃん若いから大盛にしてもいけっぺ? サービスしてやっからよ」
「え、いや、いけるとは思いますけど……」
「ははっ、羨ましいこった。俺も昔はラーメン大盛二杯はいけたんだけどなぁ。今は普通盛で腹一杯だわ。いやぁ、年取るのは嫌だねぇ」
「あはは……そうなんですね」
この短時間で、これほどまでの弾丸トーク。前回は本城さんがいたおかげで、会話も程よく区切り区切りになっていたのかもしれない。普段俺の周りにはこんな風に喋り尽くすような性格の人はいないので、なかなか慣れないタイプだ。
「それじゃあ……お言葉に甘えて味噌ラーメン大盛と、餃子一枚でお願いします」
「はいよ! ちょっと待ってな!」
そう言うと彼は大きく手をパンっと叩いて、厨房の奥へと入っていった。カウンター越しなので詳しい作業は見えないが、こちらに戻ってきては早速麺をお湯に入れて茹で始めていた。
「それで……奥さんがそうだからっていうのは、どういうことなんですか?」
先程中断されてしまった彼女の話を、作業を始めた彼へ再び持ち込む。
「あぁ、それか。そうだなぁ……ウチの家内とは、大学卒業してからの付き合いなんだ。俺の二つ年下でな、友達の飲み会で知り合ったんだよ」
「へぇ、そうなんですね」
「でも昔はなぁ、あいつもなかなか引っ込み思案で人見知りが激しくてよ。部屋に閉じこもってずっと読書するか絵を描いてたんだ。可愛いくせに、家に引きこもってちゃもったいねぇって思ってよ。
その時の飲み会も、あいつが友達に引っ張り出されて、無理やり連れてこられたらしくてな。終始むすっとしてて何も喋んねぇし、話し掛けても素っ気ねぇし、ずっと一人で酒飲んでるだけで、『なんだこの女は』って初めは思ったよ」
「それは……確かに浮いてましたね」
「だろ? で、顔は割と好みだったから、飲み会終わりに俺から話し掛けたんだ。今度よかったらデートしないかって。でも初っ端あいつに言われたのが『なんで初対面なのにデートなんですか?』だってさ。別に初対面の次にデートしたっていいと思わねぇか?」
「あはは、それは分かりますけど……」
――うわー、本城さん言いそう……。友達に無理やり連れてこられるようなところも、そっくりな気がする……。
「だから言ってやったんだ。『なら、初対面じゃなきゃいいんだな?』って。それからあいつの友達にも掛け合って、その後も会える機会を作ってもらったんだ。その度に何度も話し掛けてみては、大体無視されてたけどな」
そう告げながら作業を続ける彼の横顔からは、チラリと笑みを浮かべているのが見えた。
「そんなに無視され続けてたのに、桐野さんは諦めなかったんですか?」
「ん? だって別に、断られてはなかったからな。それに、ホントに俺が嫌なんだったら、友達がいるとはいえわざわざ何度も集まりに来ないだろ?」
「あっ、それは確かに」
「後から聞いたけどよ。あいつ、最初にデートへ誘ったときからずっと気にはなってたらしいんだ。でも自分に自信が無くて、何度も話し掛けてくる俺のことをおかしな奴だと思ってたらしい。ま、あいつの気持ちも分かるけどな。ははっ」
――まぁ……確かに桐野さんも十分変わってるとは思うわな。
「それで、どのくらいでOK貰えたんですか?」
「そうだなぁ……大体、一年くらいか? ようやくあいつも折れたみたいで、一回だけならってことでデートに行ったんだ。
でもなぁ……あいつ、その時まで一度も彼氏ができたこと無かったらしくて、初デートだったらしいんだわ。おかげで飯食っててもどこ行っても何してても、ずーっと恥ずかしがってばっかりでよ。それがもう可愛くて可愛くて。その時にもう、俺はこいつだっ! って決めたんだ」
「へぇ、いいですね。なんか、そういう女性って可愛らしくて素敵ですよね」
「普段からツンケンしてるくせに、全部強がってばっかりなんだよな。こっちはもう、ずっと呆れっぱなしだよ」
「あはは、分かります」
普段は口酸っぱく文句を言うくせに、いざというときだけ弱音を吐く。頑張ればちゃんとできるくせに自信が無くて、いつも強がってばかりの本城さんに、なんだかそっくりだ。
「……あいつさ、子供の頃はずっと母親に虐待されてたらしいんだ」
「へ?」
微笑ましいエピソードから一転して、急に重苦しい話題になる。彼はそう口にしたのもつかの間、お湯からザルを取り出して豪快に麺を湯切りし出した。
「父親がっ、誰なのかっ、今でも分からないらしい……っと。母親がかなり遊び人だったらしくてな。いわゆる“望まれない子供”っていうやつだ。おかげで高校を出るまでずっと、虐待を受けながら生きてきたそうだ。それからはすぐに家を出て、一人で働き始めたらしい」
「父親が分からないなんて、そんなことあるんですか?」
「その辺はあんまりよく分かんねぇけどさ。今じゃDNA鑑定とか色々あるんだろうけどよ、昔は全然技術も無かっただろうからな。あいつ自身も知りたくないって言ってるし、結局は分からず終いらしい」
「でもそういうのって、お母さんなら誰か見当がつくんじゃないですか? 今更調べても、あんまり意味が無いのかもしれないですけど」
「さぁ、今はもう聞けねぇからな。……あいつが家を出てすぐに、自殺しちまったんだとよ。残ってた遺書には『娘も家を出て、生きる意味が無くなりました』と書いてあったらしい」
「生きる意味って……ずっと虐待してたのに?」
「“空の巣症候群”って言うらしい。子育てが終わった母親は、鬱になりやすいんだってよ。一体どういう考えすりゃ、虐待した後寂しくなって死にたくなるんだか、男の俺にはあんまり分かんねぇけどな」
やれやれといった様子で話しながら、同時に焼いていた餃子を皿に乗せる。味噌ラーメンのほうは知らぬ間に具材を乗せ終わっていたようで、ようやく完成した味噌ラーメンと餃子が、カウンターの上にそれぞれ置かれた。
「はいよ、味噌ラーメン大盛に餃子一枚ね」
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、いただきまーす」
早速割り箸を割って、レンゲを使ってラーメンのスープからいただく。……うん、美味い。この間来たとき味わった、あの濃厚な味噌ラーメンの味だ。
こんなに美味しいラーメンなのに、どうして誰もお客がいないのか。もっと繁盛しても不思議じゃないだろうに。俺がこれまで食べてきたラーメンの中でも、個人的に特に大好きな味だった。
「女ってのは、よく分かんねぇよ。今年で俺は四十七歳になるけど、未だに女の気持ちが分かんねぇ。高校二年生の娘も一人いるけどよ、あいつもあいつでジャニーズ追っかけてばっかりで、ちゃんと勉強できてるかよく分からん」
ラーメンをすする俺の前で、今度は片付け作業をし始めた桐野さんが告げる。
「やっぱり、いくつになっても変わらないものですか?」
「少なくとも、俺の場合はな。家内なんて、結婚する前は『私に存在価値なんて無い』だとか、『死ぬのなんて怖くない』とか言ってたくせによ。いざ去年ガンになったら『私、死ぬのかな』なんて言い出しやがって。ホント口ばっかりだよ。
確かにあいつの場合は、ずっと虐待受けてたのもあって、昔はあり得ないくらい自分に自信が無かったさ。今でこそ結婚して娘もできて、ラーメン屋の手伝いもしてくれるようになって、だいぶ自信が付いたみたいだけどな。けどそれでも、根っこってのは何年経っても……いや、何年も経って根付いちまったからこそ、変わんねぇのかもしれねぇな」
ようやく一通りの作業が終わったのか、桐野さんはらしくない様子でカウンターに両腕を乗せて休んでいた。
本来なら、お客に向かってこんな態度を取るのはあんまりよろしくないのだろうが、別に彼なら俺は構わないし、他に人もいないので大丈夫だろう。
「あー……、わりぃな。なんか気が付いたら、余計なことまで話しちまってた。客相手に、何喋ってんだか。こりゃ店主失格だな」
天井を仰ぎながら彼がぼやいた。
「あ、いえ、そんな。大丈夫ですよ。それで桐野さんの気が晴れたのなら」
突然どうしてこんな話をされているのかは確かに分からないが、彼にとって俺はそんな話がしやすいタイプだったのかもしれない。
「そうけ? ……あんちゃん、やっぱ優しいなぁ」
「え? なんですか、突然?」
急にそんなことを告げられて、麺をすすろうとしていた手が止まる。この人は一体、突然何を言いだすんだ。
「いや、ただそう思っただけだ。あの綾乃ちゃんも、あんちゃんにくっ付いてるのがよく分かるよ」
「そうですか? でも普段は皮肉とか憎まれ口ばっかり叩かれてて散々ですよ。俺のほうが先輩なのに、いつも上から目線だし。酷いですよね」
「ははっ、違いねぇ。でもあんちゃんだからこそ、あの子も安心してそんなことを言えるんじゃねぇか?」
「……どういうことです?」
「溜まってんだよ、色々とな。どうせ今後も、なんだかんだ言いながらも付き合っていくつもりだろ? なら後々分かる」
「はぁ。そうなんですかね」
「そういうもんだよ」
そう言われても、彼女は普段からどれが嘘でどれが本当のなのかがよく分からないことだらけだ。
もしかしたら、単に俺が彼女に付きまとうから、わざわざ自分から付き合う形で一緒にいてくれているだけなのかもしれないのだから。それも相まって、ある意味都合の良い存在なのかもしれないじゃないか。
「まぁ、大変だとは思うけどよ。これからもあの子のこと、面倒見てやってやれよ?」
「……そう、ですね。そうします」
そんな今の俺には、桐野さんの言葉があまりよく分からなかった。
「……ところでよ、あんちゃん。あの子って、まだ演劇やってんのか?」
そうして話がひと段落ついたあと、ふと桐野さんが唐突にそんなことを問うた。
「え。演劇ですか? 今はやってないみたいですけど……って、ちょっと待ってください?」
餃子を一つ口に運んだのもつかの間、驚きのあまりほとんど噛まないまま飲み込んでしまった。それでも今は、そんなことを気にしている余裕はない。
「な、おい? きゅ、急にどうしたんだよ?」
突然声のトーンを変えた俺に、桐野さんが言葉をどもらせる。
「桐野さん。今、“まだ演劇やってんのか”って言いましたよね?」
「あぁ、言ったけど……。それがどうした?」
「それって、どこでですか!? 演劇やってたのっていつ?」
「え、なんだよお前。もしかして、あの子の母ちゃんのこと知らねぇのか?」
「本城さんのお母さんのこと……?」
本城さんのお母さん。彼女によれば、お母さんは根っからの陽キャで、シングルマザーで仕事に明け暮れており、いつも家を空けてばかりだったという。
誕生日プレゼントには真珠のネックレスを本城さんへプレゼントするなど、少しだけ抜けているところもあったと、彼女も言っていた。
――いや……違う。それよりも、もっと重要なこと……。
『えぇ。あんまり詳しくは言えませんが、とある団体のリーダーを務めてまして。もっと自分達の活動を広めたい、より良くしたいって言って、前のリーダーが脱退するときに、自分から立候補したんです』
『好き……。えぇ、大好きだったんじゃないでしょうか。私には、本当の気持ちは分かりませんでしたが』
『……まぁ、色々あったんですよ。この建物の案だって、本当はもう一つあったみたいですし』
『えぇ。……そこから先は、私も詳しくは知りませんがね』
――はっ……。そうか、多分そういうことだよな。もっとよく考えれば、すぐに分かったはずじゃないか。なんでもっと早く分からなかったんだよ俺……。
思い返してみればそうだった。彼女はポツポツとごく自然に、上手く誤魔化すように真実を織り交ぜながら話していた。それらは意識的だったのか、はたまた無意識だったのかは分からない。もしかしたら、俺の頭が鳥頭ということを分かった上で、油断していたのかもしれない。
しかし結局、真実がどの方向へ転んだとしても、その話を彼女から直接聞いたという事実は変わらないのだ。
全ては繋がりのない、他愛もない話だとつい勝手に思い込んでしまっていた。だが今の彼の一言で、今まで謎だった部分が分かったような気がする。
「なんだ、てっきり知ってるもんだと思ってたぁ。……あー、じゃあそうだなぁ。言っちまったからには、あんちゃんには話しておくか」
すると桐野さんは、カウンターに乗せていた腕を下して俺と向き合った。――その顔は、言葉にしながらも迷いがあるような表情だった。
「前によ、あんちゃんが演劇館について聞きに来たことがあったっぺ? あの時に俺、少し嘘を吐いてたんだわ」
「嘘? 何が嘘なんです?」
「まぁ、それはだな。あの子の母ちゃんは――」
「……っ! そういう、ことだったんですか……」
彼から告げられた真実に、ようやく彼女についての辻褄が全て一本に繋がった。……ような、気がした。




