意外な特技
「……本当に、来ちゃったんだ」
それから大体、一時間半後。玄関のドアを開くと、そこには言葉の通り本当に本城さんの姿があった。その片手には、大きなレジ袋も一緒だ。
「何度も言わせないでくださいよ。先輩が単位をちゃんと取れたから来てるだけですから。取れて無かったら、私はここに来てません」
「はぁ……そう……」
「そうですよ、約束ですからね。……それより、早く中入れてください。ここ、暑いです」
「あぁ、うん。どうぞ」
「お邪魔します」
そうして、初めて彼女が俺のテリトリーへと侵入してきた。まさか冗談だろうと思っていたが、いま目の前に存在する事実こそが、圧倒的証拠だ。
思えばこの部屋には、何度か男友達を入れているが、異性は母さんと茜しか入れたことが無かった。そう考えると、なんだか部屋の中の何かを指摘されてしまいそうで、少し気恥ずかしい。
「ふぅん……1Kですか」
荷物を机の上に置くなり、彼女がポツリと呟く。自分が1LDKの部屋に住んでいるからか、少し手狭に感じてしまうのかもしれない。
「まぁね。特にこれ以上家具を増やす予定も無いし、いいかなって。ちゃんと風呂もトイレも別だし、一部屋だけど、それなりに広いだろ?」
「そうですね。陽キャ男子の一人暮らしには、ちょうどいいんじゃないでしょうか」
「お、おう……。あくまでも、陽キャの物差しで測るんだな……」
「……で、先輩。おでこに冷え○タは貼ってますけど、マスクはどうしたんです?」
ふと、ベッドの上に座り込んだ俺を見て、彼女が問うた。確かにその疑問は、的を得ていると思う。
「あぁ……。冷え○タは万が一のときのために買ってあったんだけどさ。マスクなんて普段はしないし、家に無いんだよね」
「やっぱり。そうだと思った」
「え。やっぱりって……」
なんだ君は、そんなところまで俺を見透かしていたのか。一体どこまで俺を見透かせば、気が済むのだろうか。
「そう思って、買ってきましたよ。ほら」
袋の中をガサゴソと漁って、こちらに一つ彼女が手渡してきた。その手に握られていたのは、紛れも無く真っ白なマスクが数枚入った袋だ。
「あ、え……? 買ってきてくれたの?」
「そりゃそうじゃないですか。マスクしてくれなきゃ、こっちにも風邪がうつりますから。ほら、早く付けてください。私に風邪をうつす気ですか?」
「あぁ、いや。うん、ありがとう」
最後の一言は余計だが、そんな彼女の優しさに、なんだかホッとしてしまった。やっぱりなんだかんだ言って、心配してくれているんだなと、改めて嬉しく思う。
「……それで、他には何を買ってきてくれたの?」
受け取ったマスクを装着しながら、彼女に問う。
「決まってるじゃないですか、夜ご飯ですよ」
「夜ご飯……? え、作ってくれるの?」
「じゃあ逆に聞きますけど、その体調でちゃんと夜ご飯作れますか?」
「いや、キツいだろうけど……」
「でしょうね。こういうときこそしっかり食べて栄養つけなきゃ、すぐに回復できませんよ」
「いやまぁ、それはそうかもしれないけど……」
「……なんですか? 何か文句でも?」
袋の中から、一つ一つ食材を取り出しながら彼女が問う。この様子じゃ、こちらが何を言っても頑として作るつもりなのだろうが、なんだかそれは申し訳ない。
「だって頼んでもいないのにさ。申し訳ないっていうか」
「先輩、それだいぶ前にも言いました。私は、そういう遠慮が大嫌いです。病人は大人しく、ベッドに寝てうんと頷いておけばいいんですよ」
「はぁ……。んーそっか、じゃあそうさせてもらおうかな」
「……それと」
最後に、袋の中から頼んでもいない飲みかけのカフェオレのペットボトルを机の上に出すと、本城さんがポツリと呟いた。……やっぱり夏になっても、飲み物は断固としてカフェオレ一筋らしい。
「……先輩、もうすぐ演劇の本番なんでしょう?」
「え、そうだけど。その話って、本城さんに俺したっけ?」
「いえ。この間、日和から聞きました。あの子の家に行く機会があったので、その時に」
「あー、そうなんだ。確かに日和ちゃんには、前にLI○Eで話したかも」
――まぁ、いつだったかは全然覚えてないけどな。
「だったら、一日でも早く風邪を治して、練習に参加するべきでしょう? せっかく良い役貰ってるのに、舞台の上でセリフを忘れでもしたら大恥ですよ」
「それは、そうだね……。うん、分かった。じゃあ頑張って、早いとこ治さなきゃな」
あまりにも不器用過ぎる彼女の優しさがなんだか嬉しくて、思わずフッと笑ってしまった。
そんな俺を見た彼女は、まるで気持ち悪いものを見たかのような顔をすると、ぷいっとこちらから視線を逸らしてしまう。
――ったく、ホントに不器用なんだもんな。もう少し素直になってくれたら、もっと純粋に喜べるのに。
「まったく、こんな大事な時期に風邪ひいて寝込んでしまった自分の愚かさを悔やんでください。もう二度と人生で同じような失敗をしないと、心に誓ったほうがいいですよ」
……そう、心の中で褒めてやったばかりなのに。なんでいつもいつもそうやって、最後には余計な言葉をぶん投げてくるんだ。少しくらい、皮肉を減らせないものなのだろうか。
「う、うるさいな……。分かってるよ」
「分かってるならいいんです。この教訓を生かして、次に海へ行くときは気を付けるように」
「……はいはい」
俺がそう告げると、本城さんが「それと先輩、ちょっと冷蔵庫の中覗いてもいいですか?」と訊いてきた。特に躊躇う理由も無かったので、その言葉に向けて了承する。
「ねぇ、本城さん」
キッチンへ向かおうとする彼女の背中に向かって呼び掛ける。背中にまで伸びた長い黒髪を揺らしながら、一体何事かとそれはこちらを振り向いた。
「その……ありがとね。色々と」
「……なんですか、急に。別に私は、まだ何もしていませんよ?」
いつもの如く、俺の言葉を彼女が突っぱねる。頭はボーっとしているが、こんなときの彼女の扱いには、もう慣れてしまったものだ。
「あ、そっか。じゃあ、夜ご飯できた後に言えばいいのかな」
「いやなんでそう……はぁ、めんどくさい。もう勝手にしてください」
「ん、じゃあ勝手にする。ありがとう」
「……気持ち悪い」
そんなセリフを吐き捨てると、そのままぷいっと顔を背けて、キッチンへと入ってしまった。
言葉だけ見ると最悪そのものだが、その中身はただの照れ隠しなんだということを、俺はもうちゃんと分かっている。
――仕方ないなぁ、もう。ここは心強い先輩の、海のように広い寛大な心で、許してやることにしますか。
ふと、キッチンのほうから彼女が何かを訴えかけている。今度は一体なんだろうと聞き返してみると、「なんで二リットルのコーラが三本も入ってるんですか?」と食い気味に問われてしまった。
あれおかしいな。なんかそれ、デジャブな気がするぞ?
◇ ◇ ◇
「……い。……んぱい。……先輩?」
「……うえっ?」
「あの……起きてます?」
唐突に、何かが俺を呼ぶ声が聞こえてハッとする。なんだか意識がボーっとしてしまっていたが、どうやら座ったまま眠ってしまっていたようだ。
ぼんやりとした意識のまま目を開けると、目の前には腰に手を当てて呆れた顔をしている、本城さんの姿があった。
「あっ……れ? 俺、寝てた?」
「もう。前も思いましたけど、よくその格好で寝られますよね」
「あはは……。疲れてると、座ったまま寝ちゃうんだよね。昔から」
ふわっと眠気のせいで欠伸をすると同時に、一度寝て起きてもやっぱり痛む頭が、ギューっと悲鳴を上げた。ダメだこれ、欠伸もロクにさせてくれないみたいだ。
「頭痛、酷いんです?」
ふと、そんな俺の様子を見ていた彼女が、そんなことを問うた。
「まぁね……。元々風邪は頭痛でくるタイプだから、熱出ると余計に酷くなるんだよね」
「そうなんですね。……そうそう、取り敢えず夜ご飯はできてます。食べられそうですか?」
「ん。あぁ、少しは食えると思う。ありがとう」
「別に、お礼を言われるほどじゃありませんよ。じゃあ、今持ってきますね。お皿、どこのやつ使えばいいですか?」
そうして、本城さんへ食器棚に入っている使ってもいいお皿を適当に指示する。
マスクを外して机の前に座っているだけでも、良い匂いが漂ってくる中、キッチンから出来上がったご飯を両手に、彼女が持ってきてくれた。
「おぉ……美味そうな雑炊とスープだ」
卵とシラスをベースに、かつお節が上に乗った雑炊。ネギやニンジンなど、野菜がたくさん入ったスープ。二品とも見るだけでも美味しそうで、こんな状態でもかなり食欲をそそられた。
「あんまり胃の負担にならないよう、スープの野菜もかなり小さめに切ったので、男の人にはちょっと物足りないかもしれないんですけど……」
「いやいや、全然大丈夫だよ。そんなの、美味しければ関係無いって。じゃあ、頂こうかな」
「どうぞ。お口に合えばいいんですけど……」
そんな風にブツブツと呟いている彼女をよそに、添えられたスプーンを使って、早速雑炊を一口運んだ。
「……うん、美味しい!」
「ホントですか? なら、よかったです……」
どうやら顔には出していないが、俺の口に合うかよほど心配だったらしい。表には見せていなくても、内心ではきっと、ホッと胸を撫で下ろしているに違いない。
「卵とシラスの組み合わせって食べたこと無かったけど、意外と合うんだね」
そう告げながら、美味しい雑炊をもう一口運ぶ。
「えぇ。この雑炊とスープは、お母さんから教わったものなんですよ」
「お母さんから?」
「はい。私、昔から風邪をひくと、結構すぐ熱が出てしまうタイプなので。その度にいつもお母さんが作ってくれてたのが、この雑炊とスープなんです」
「へぇ、そうだったんだ。じゃあ、こっちのスープも食べてみよう。……うん、こっちも美味しい!」
こっちはこっちで、鶏がらベースの美味しい野菜スープだ。これ一品で、風邪をひいたときに必要な栄養がたくさん取れそうである。敢えて小さく切ったと言っていた野菜も食べやすくて、病人にはありがたい。
「そうですか、よかったです」
「うんうん。いやぁ、本城さんって意外と料理できるんだね。ちょっと見直したよ」
「……あの、あなたは私のことをなんだとお思いで?」
「え? ぐうたらな陰キャの自宅警備員」
「……酷い人。ホント最低ですね。もう先輩には、料理なんて作ってあげません」
「え、あ、ちょ! ごめんって! 悪かったよ、悪かった!」
そんな思わぬ失言に、咄嗟に謝りはしたものの、彼女はツンとした表情を浮かべて、顔を逸らしてしまった。マズい、これじゃあまた口を利いてくれなくなってしまうのではないかと、自分の失態に心底後悔する。
「はぁ……。まぁ、もういいです。それじゃあ私、そろそろ時間もいいので帰りますね」
ため息を吐きながら、そんなことを彼女が告げてみせた。なんだ、せっかく自分で作った料理を、食べないまま帰るつもりなのだろうか。
「え。本城さんも食べていかないの?」
「私はいいです。一人分しか作ってないので、もうあんまり残ってないですし。それに、このあと用事があるんですよ」
「用事? どこか行くの?」
そう問いながら、壁に掛けられた時計を確認する。現在時刻、十八時半過ぎ。これからどこかに行くとなると、友達とでも会うのだろうか?
「いえ、別にどこにも行きませんよ?」
「え。じゃあ、何さ?」
「いや、まぁ……。このあと夜の八時から、生放送をする予定があるので。それまでに帰らないといけないんです」
「生放送……? 本城さんがするの?」
「そうですけど。……もしかして先輩、ネットの生放送もご存知無い?」
「……残念ながら、存じ上げておりませぬ」
「はぁ。これだから天然記念物の陽キャは……。じゃあ、明日教えてあげますよ。私が覚えていればの話ですけどね」
俺が座る向かいの席に置かれていた、よく見慣れたトートバッグを彼女が手に取る。……なんだか、“明日”というワードが聞こえた気がするのは気のせいだろうか。
「……え、待って。明日も来るの?」
「そうですけど、何か?」
「いやいやいやいやいや! なんでそんな当たり前のように言ってるの!?」
一体なんだっていうんだ。こちらが頼んだわけでも無いのに、何をさも当然のように訪問することを一人で勝手に決めつけているんだ。
「あの、先輩。重要なことを忘れていませんか?」
「は? 重要なこと?」
そんな風に告げると、傾けていた体をこちらへ向き合い直す。
「……先輩、単位取れたんですよね?」
「え。いや、取れたけど……。なんだったら、成績表見せるけど」
「いえ、それはいいです。面倒なので。でもそれなら、元々していた約束では、明日までその口実は有効ってことじゃないですか」
「……うん? 待って、言いたいことは分かるんだけど、それって君本人から言うべき言葉では無いよね?」
「言われる前に行動しているだけですよ。それ以上でも、それ以下でもありませんから」
「は、はぁ……」
最近では、彼女の一つ一つの些細なことには気付けるようになってきたが、偶にこんな風に俺の想像を超えた、ワケの分からない行動をしようとするから怖い。
分かりやすいときは分かりやすいのに、こういうところは全く以て考えていることが読めないのが、ある意味恐怖だ。
「じゃあ、そういうことなので。明日は、お昼過ぎくらいに来ますね」
「あ、え、うん……」
そう言いながら、彼女はスタスタと玄関のほうへ歩いて行ってしまう。ちょっぴり混乱状態な頭を抱えながらも、せめて見送りはせねばと、椅子から立ち上がって彼女を追い掛けた。
「……あ、それから」
スニーカーを履いて、玄関のドアノブに手を掛けながら、彼女がこちらを振り向いた。
「何?」
「明日は、ちゃんと午前中に病院行ってくださいね? 今日はもう夕方だから閉まっちゃいますけど、一応診てもらったほうが気も楽になりますから」
「あ、あぁ……。それもそうだね」
「そうですよ。冬じゃなくてもインフルエンザにはなるんですし、今後は気を付けてくださいね?」
「うん。分かったよ」
「では、また明日です。失礼します」
「うん、また……」
そう言ってドアを開くと、軽く会釈をしながら、彼女は部屋を出て行ってしまった。その場にポツリと、一人取り残されてしまう。
――……ホント、どこまでも不器用なんだもんな、あの子。まったく……。
思わず笑みをこぼしてしまったのもつかの間。咄嗟にサンダルを履いて、ドアを開けては外へ出た。
幸いにもまだ彼女の背中は遠くへは行っておらず、声の届く距離だった。
「本城さん!」
そんな俺の呼び掛けに、その背中は立ち止まって、こちらを振り向く。一体何事だと言いたげな表情を浮かべて、こちらの言葉を待っていた。
「その……ありがとね! また明日!」
その言葉に、一瞬驚いたような顔を見せると、口元を緩めてこちらに手を振ってくれた。
まさか笑って手を振ってくれるとは思わなくて、こちらも思わず驚いてしまったが、俺も負けじと手を振ってやった。
こんなこと、数ヶ月前なら絶対にあり得ない光景だったと思う。自分でも気が付かない間に、彼女との距離は近くなっていたのだと思うと、なんだかちょっと嬉しい。そろそろサークルに勧誘すれば、入ってくれるんじゃなかろうか。
――ま、向こうから言ってくれるまで、気長に待つつもりではあるけどね。……せめて俺が卒業する前までに、言ってくれることを願うけど。
果たして、それまでに彼女の気持ちは変わってくれるのだろうか。それこそ未知なる領域の話だが、俺が足を踏み込めない以上、全ては彼女に任せるしかあるまい。
さて。そろそろ部屋の中に戻ろう。そう思った矢先――突然鼻がむず痒くなっては、まるで冬場にいるかのような感覚に陥らせられるほどの、大きなくしゃみを思いっきりしてしまった。




