本城さんへのご報告
八月もいつの間にか、残り二週間を切った。お盆休みも過ぎ、楽しみだった高校時代の仲間達との時間も、気が付けばあっという間に過ぎ去ってしまった。
あとは、九月の頭に控えるサークルの本番に向けて、最終調整をするだけ。それさえ終われば、ようやく残りの夏休みを、のんびり過ごせることだろう――と、そんな風に考えていた時期も俺にはあった。
――あー……完全にやらかしたなこれ。クッソ、調子乗った……。
夕方の四時過ぎ。ようやく実家から一人暮らしの部屋へ帰ってきては、真っ先に体温計を手に取り脇に挟んだ。しばらくして、ピピッと音が鳴ってから取り出し、画面を確認する。……それと同時に、身体的にも、感情的にも寒気がした。
――三十八度三分……。あー、海から戻った後、調子乗って上着着てなかったからかなぁ……。頭いてぇ。
これは完全に、自業自得だ。まさか真夏に熱を出すとは、なかなか思うまい。ジメジメとした部屋の暑さと相まって、額には既に汗が滲んでいた。
――はぁ。実家だと茜にお節介焼かれると思って、嘘吐いて帰ってきちゃったけど……。まさか本当に熱があるなんて思わねぇだろ……。帰ってこないほうがよかったか……?
事実が分かったと同時に、突然頭がグラッとした。痛みに思わず、頭を抱える。
――……やべぇな、熱なんて中学以来出してないのに……。サークルも、バイトだってあるのに、なんでこんなタイミングで熱出るかなぁ……。
痛む頭を抱えながら、なんとかベッドまでたどり着く。座っていることすら耐えられずに、着替えずにそのまま横になってしまった。
――あー……。これ、横になってるほうが痛いやつだ。ダメだ、座ってるほうがいいかも。
頭を枕に任せて、しばらくボーっとしてみたものの、なんだか立っていたときよりも痛む気がする。重い頭を上げて、仕方なくベッドの上に座り込んだ。
――そういえば……ポストに入ってたやつ、まだ見てねぇ。取り敢えず確認しとかないと……。
怠い体を動かして、机の上に置いたままの、ポストに入っていた手紙達を手にする。
数日間家を空けてしまったおかげで、ポストにはそれなりに色んなものが溜まってしまっていた。だが特にこれといって重要そうなものも無く、適当にパラパラとチラシや手紙をめくっていった。
――……あ。大学から来てる。成績のやつかな?
その中で、チラシの間に挟まっていた茶封筒の手紙は、大学からのものだった。一体何のお知らせだろうと、痛む頭に耐えながら手紙を開く。
――お、やっぱり単位の成績表だ。どれどれ……え、マジか! あの『著作権法』もギリギリ単位取れてるじゃん! よかったぁ……。
科目ごとに単位が貰える点数は、六十点以上だ。それ以下は単位未取得となり、再履修が必要となってしまう。
今回俺が受けた『著作権法』の点数は、ギリギリの六十二点だった。
――いやぁ、危なかったなぁ。あの時諦めて、テスト勉強しないで家に帰らなくて良かったな。これもきっと、本城さんのおかげ……あれ、本城さん?
一緒に著作権法の勉強をした彼女の名前が浮かんだ瞬間、俺の中に何かが引っかかった。何か一つ、とても大事なことを忘れてしまっているような――。
――……あ、そうだった! お祭り!
しばらく頭の中で考えた末、ようやく俺の鳥頭が、その約束を思い出した。それと同時に、一気に二つの疑問が浮かび上がる。
――いや待て待て。まず、単位を落とさずに取れてるのか? 例え取れてたとしても、お祭りっていつだ……?
まず一番不安だった『著作権法』の単位は取れた。だが、それ以外の科目はどうだ? 他にもいくつか、落としていないか不安な科目がある。まだ油断はできないところだ。
それに、彼女と約束していたお祭りというのは、一体いつ行われるのだろうか。不運にも、俺が今こんな状態だ。熱が下がらないうちに行われるのだとしたら、それこそとんだ災難である。もしそうなったら、一体彼女になんて言われてしまうのか――考えただけで恐ろしい。
一先ず、一つ一つ確認していこう。まずは単位を確認しようと、再び成績表に目を通す。
――『地域社会論』は七十六点。『社会心理学』は八十二点……おぉ、怖かったやつも結構取れてる。あとは……『経済学』六十九点……あれ?
おかしい、そんなはずは……。もう一度、一番上から順々に受けた講義を眺めていく。
――……嘘やん。こんなときに限って、一つも単位落とさないとか、奇跡としか言いようが……。
一年生の時は、前期も後期も一つか二つずつ、単位を落としてしまっていた。周りの人達も、大体似たような成績だったために、今回初めて単位を落とさなかったという事実に、自分が今一番驚いていた。
――となると……取り敢えず、本城さんとお祭りに行く権利は貰えたわけだけど。問題は……。
一旦成績表をベッドの上に置いて、先に他のチラシも確認しておこう。――そう思った矢先。
――あ、これもしかして、お祭りのチラシかな? ちょうど良かった、えっと……。
まだ見ていなかったチラシの後ろに、偶々夏祭りのチラシが入っていた。スマホで調べる手間が省けてラッキーに思いながら、お祭りの日付を確認する。
「……え、明日?」
それを見た途端、辛い頭痛すらも吹き飛ばして、思わず俺は絶句した。
「先輩じゃないですか。どうしたんですか、急に電話なんて」
少し出るのに時間が掛かるかと思っていたけれど、意外にも早く彼女は電話に出てくれた。スピーカーからは、いつもの気怠い彼女の声が聞こえてくる。
「いやぁ、その……なんていうんだろ」
一体、どこから話せばいいのだろうか。熱が出てしまったことから? 単位のこと? お祭りのこと? よくよく考えてみれば、話の切り出し方が難しい。どうしたものかと、言葉を詰まらせてしまった。
「……なんか先輩、鼻声ですね。風邪ですか?」
ふと、そんなことを考えている間に、先に彼女が話を切り出してきた。そういえば以前も、声の調子で眠たいことを当てられた気がする。
「あー、うん。そうみたいで」
「夏風邪ですか。お盆も過ぎましたし、これから段々気温も下がってきますから、気を付けてくださいよ?」
「あ……うん。ありがとう……」
――いやぁ……もう熱出てるんだよなぁ、残念ながら……。
そんな彼女の優しさに、今日ばかりは申し訳なく感じてしまう。そんなことを先に言われてしまったら、もう熱があるなんて言いづらくなってしまったじゃないか。
「……で。何の御用です? まさか、私と世間話するために電話したんじゃないですよね?」
「い、いや。そうじゃないよ。ちゃんと、用はあるんだけど……」
「……あ、単位落としました?」
「え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
「成績表ですよ。先輩のところにも届いたでしょう? そろそろ、その話もされるんじゃないかと思ってましたが、それでしたか」
「あー……。覚えてたの? その話」
「当たり前じゃないですか。何せ、私が言い出した話ですし。言い出しっぺが忘れるなんて、まさかそんなことはあり得ませんからね」
「まぁ……うん。そうだね」
まさか、自分が話そうとしていた話題を、彼女が次々と進めていってしまっている。このまま彼女のペースで話すことになると、それこそマズいことになりそうだ。
「……で。落としたんですか?」
「……何を?」
「……あの、単位の話をしてるのに、なんで『何を?』って私が聞き返されなきゃいけないんですか。バカですか?」
「あいや、その……」
ダメだ、怠さと頭痛で頭が回っていないのが、自分でも分かる。今日に限っては、自分も何をしでかすか分からないかもしれない。
「はぁ……。なんか先輩、今日調子悪いんですか? 風邪もひいてるみたいだし」
「そ、そんなことは無いよ。普通だよ……」
「……もしかして先輩、熱あります?」
「……え」
唐突に彼女が問うた。なんだか急に、声色も少し変わったような気もする。
「え、じゃなくて。熱あるのかって聞いてるんです」
「あいや、その……」
なんでだ、なんでそうやって、いつもすぐに俺のことはバレてしまうんだ。
単に俺が分かりやすいだけなのか、はたまた彼女の察する力が強いのか。どちらにせよ、彼女の嘘を見抜く能力は、やっぱりかなりズバ抜けていると思う。
「どうなんですか?」
彼女が言い当てては、俺に真実を迫る。この様子じゃもう、嘘を貫き通せる気もしない。早いとこ本当のことを言ったほうが、身のためかもしれない。
「いや、まぁ……。少しだけ」
「少しって、いくつですか?」
「……三十八度ちょっと」
「……あの、それ完全に夏風邪じゃないですか。何しでかしたんですか?」
「しでかしたっていうか……。この間、友達みんなで海に行ったんだけど、多分それで」
「あー、ホントバカですね。きっと、海から出ても体拭かなくて、上着も着ずにそのままでいたんでしょ?」
「うぐっ……なんでそこまで……」
「海に行って数日後に熱が出る理由なんて、すぐに分かるでしょ。そりゃ、何かに刺されて熱が出たとかはあるかもしれませんが、そうじゃないのならほぼほぼ一択です。っていうか、クラゲとかに刺されたのなら、すぐに病院行きですしね」
「はぁ……」
相変わらず、いくつかの情報だけで事実を組み合わせられるこの子の能力は、もはや才能だと思う。探偵にでもなったらいいのではなかろうか。
「……で? 一旦その話は置いておきましょう。肝心なのは、先輩が単位を落としたのか、全部取れたのかです」
そんな俺のおバカ話は一旦置かれてしまい、改めて単位の話へと彼女が戻した。こうなってしまった以上、最後まで彼女の手の平で話すことはもはや、風邪をひいた鳥頭の俺でも分かる。
「あぁ、うん。……嘘に聞こえるかもしれないけどさ。全部、取れたよ」
「……それはアレですか? 熱があっても、私とお祭りに行きたいっていう陽キャの意地ですか?」
「は、はぁ……?」
なんでだ、どうしてそうなるんだ。そんな嘘、今吐いたところでどうにもならないと、君も分かっているくせに。
「違うよ、ちゃんと全部取れたんだって」
「本当ですかねぇ? 熱のあるぼんやりとした頭で見たから、見間違えてるだけだったりして」
「本当だって! 信じてくれよ! なんだったら、LI○Eで写真も送るけど?」
「……いや、それはいいですよ。面倒ですしね」
そう告げると、彼女は面倒くさそうにため息だ。ため息を吐きたいのはこっちだというのに、一体なんだっていうんだ。
「……先輩。行く予定だったお祭りがいつか、知ってます?」
「知ってるよ。明日でしょ?」
「そうですね。……熱、あるんですよね?」
「……まぁ」
「当然、行けませんよね?」
「……そうだね」
「……もう、仕方ないですね。先輩のくせに、世話が焼ける」
「は。いや、なに突然……」
急に何を言いだすんだ。そんなワケの分からないセリフに、ツッコもうとしたとき。――思わず俺は、自分の耳を疑った。
「……先輩。家、どこですか?」
「……はい?」
理解し難い言葉が聞こえた。
「聞こえませんでしたか? 家はどこにあるんだと聞いたんです」
「いや、あの……。え、来るの?」
「当たり前じゃないですか。だって先輩、単位取れたんでしょ?」
「取れたけど……え?」
「……だから、言ったじゃないですか。言い出しっぺは私なんだから、先輩が頑張った分、それ相応の配慮をしてあげるだけですよ。何度も言わせないでください」
そんな風に告げる彼女は、告げ終わるなりいつもの如く、眠たそうに大欠伸をしていた。




