どっちもどっち
それから大体三十分弱。俺達は一冊の本を交互に見せ合いながら、なんとなく重要な点をまとめ終えることができた。あとは彼女が自分で、レポートとしてワードで仕上げればいいだけだ。
「……と、いう感じかな」
「ふぅん……」
彼女は右手で、シャーペンをクルクルと回している。意外と、手先は器用のようだ。
「なるほど。先輩の話、説明下手すぎて八割くらい理解できませんでしたけど、なんとなく分かりましたよ」
「えっ!? 俺の説明、そんなに下手くそだった?」
「どうでしょうか。単に私の頭が優れすぎるだけで、先輩の言葉が理解できなかっただけかもしれませんが」
「それはそれでまた、酷い言われようだな……」
「少なくとも、先輩のお粗末なおつむよりは、世の中に貢献できるってことですよ」
「頭はそれでも、性格がそれじゃあなぁ……」
そう言ってから、ハッと後悔する。思わず本音が出てしまった。次に一体何を言われるのか、意を決して身構える。
「大丈夫ですよ、先輩よりは上手くやりますから」
しかし意外にも彼女は、特に何も触れないまま、いつもの仏頂面でスルーだった。なんだ、別に身構えなくたってよかったじゃないか。
「上手くねぇ……」
「えぇ。それに私、女ですしね」
「はぇ? 女だから、何……?」
そう問うと、本城さんは面倒くさそうにため息だ。俺には全く以て、彼女が何を言いたいのかが分からない。
「な、なんだよ?」
「……先輩って、ホントに陽キャですか? 私よりは、少しくらい世間のことを知っていると思っていましたけど。……もしかして、冗談抜きでホントにバカなんですか?」
「バカなのは否定せんが、そこまで言われる筋合いはないぞ」
「そうですか。はぁ、分かりました。教えてあげましょう」
そう言うと本城さんは、シャーペンを持ったまま右手の人差し指を立てた。
「前にも何度か言ったかもしれませんが、世の中は女性優遇が絶えません。男女平等なんて言葉とは程遠い、ディストピアなんです」
「はぁ。まぁ……」
「確かに、性的な目線で見てみると、女性というのは圧倒的に不遇で、不利で不利益が多いです。けれど、それさえを逆手に取ってしまえば、世の中は女性のほうが圧倒的に有利な世界なんですよ。ちょっと体を触らせてやるだけで成績は上がるわ、お金は貰えるわ、なんやら……。世の女性というのは、そんな“最終手段”を抱えて生活しています」
「……つまり、その“最終手段”を持っている限り、自分は生きていけるって?」
「まぁ、そういうことになりますね。よっぽどのことがない限り、体なんて売りませんが」
シャーペンを持ったまま、彼女が腕を組む。その姿は、なんとなく艶めかしい。
だがしかし、そんな彼女の言葉を聞いて、俺はぼんやりと危機感を覚えてしまった。
自身を陰キャだと言い張る本城さんだ。そんな彼女なだけあって、どうしてもその言葉は危なっかしく感じる。
「でもなんか本城さんって、すぐにその“最終手段”を使いそうだよね」
「……どうして、そう思います?」
怒りもせず、喜びもせず、ただただいつもの仏頂面で、彼女がこちらを見つめる。その目はなんだか、生というものを感じられないような目だった。
「いや、だって……本城さん、陰キャだからさ」
「……ぷっ」
小さく、彼女が吹き出した。
「え。……なんで笑うの?」
「だって……やっぱり先輩って、バカなんだなぁって」
「は、え? 待って、全然分かんない」
何がどう、どんな風に面白かったのだろうか。俺には一体全体、何が面白かったのかが分からない。
「『陰キャだからすぐに“最終手段”を使いそう』って、先輩は陰キャを何か、どこかのクソビッチと勘違いしていませんか? 私がそう易々と、素性も知らない陽キャの男共に体を売るとでもお思いで?」
「いや、そうじゃなくて。でも……」
違う。言いたいことは、そうじゃない。けれど、どう言葉に表現すればいいのかが分からずに、しどろもどろになってしまう。
――今の世の中で生活することに、あんまり喜ばしく思ってない本城さんだから怖いんだ。どこかのタイミングで糸がプツンと切れちゃったら、全部がどうでもよくなっちゃいそうなんだよな……。それこそ死ぬことだって、躊躇いもなくしちゃいそうな……。
綺麗なバラには棘がある。彼女という存在は、まるでそんな言葉を彷彿とさせる。綺麗なバラがその綺麗さを保ち続けるためには――やはり、何かしらの犠牲が必要なのだ。
「……本城さん」
思わず、彼女の名を呼んだ。
「なんですか?」
何も知らない本城さんが、面倒くさそうにこちらを見る。
「……もしいつか、辛いこととか、嫌なこととかあったらさ。なんでもいいから、俺に相談してくれていいからね?」
「っ……。なんですか、急に」
彼女が大きく目を見開く。その顔は、「なんで今?」と言いたげだ。
「ううん、なんとなくそう思っただけ。特に意味は無いよ」
「全く意味が分かりませんし、気持ち悪いです。なに急に先輩ぶってるんですか? 自分が年上だからって、そうやって良い気になっているのも今の内です。次また急に変なことを言ったら、それこそストーカーとして通報しますからね? 覚悟しておいてくださいよ?」
言葉自体は罵りのオンパレードだが、そんな言葉が吐き出されるスピードは、いつもよりも早口だ。
照れ隠しなのか、本当にワケが分からなかったのかは定かではないが、焦っているのは目に見えて分かる。
「はいはい、分かったよ。悪かった。でもそのときは、この心強い先輩が、味方になってやるからさ」
「なに自分で言ってるんですか、気持ち悪い……」
「さっき本城さんだって、俺のことそう言ってたろ?」
「違います、先輩が自分で言っていたことを、私が繰り返し言っただけです。決して私の言葉ではないので、お間違いなく」
「え、いやいや、最初の言い出しっぺは俺じゃなくて……」
そこまで言って、俺は言葉を詰まらせた。彼女が鋭い眼差しで、俺のことを見ていたのだ。これ以上口を開いたら、それこそ面倒なことになりそうだ。
「はぁ……なんでもないよ」
唇を尖らせて、机に頬杖を立てている本城さん。そんな態度を見せる彼女のことを、俺には妙に可愛らしく見えてしまった。
「ところで先輩。ずっと一つ、気になっていたことがあるんです。聞いてもいいですか?」
「ん、どうしたの?」
机の上にコロッとシャーペンを転ばせて、彼女が問うた。
「最近、全然サークルの勧誘してきませんけど、もういいんですか?」
「ん。……サークル、入る?」
「嫌です」
自分から質問したくせに、その答えは相変わらずキッパリだ。
「おいおい、酷い奴だなぁ。自分から聞いておいてさ」
「私は一言も入るだなんて言っていません。ただ、もう諦めたのかと聞いただけです」
「諦めてはいないよ? けど……しつこく勧誘するのは、本城さんがちょっと、可哀想だなぁって思ってさ」
「今更ですか? やっぱり、バカの一つ覚えでお粗末な頭の脳筋な陽キャの先輩には、難しい問題でしたかね」
「君は今、たったの一言で俺のことを何回罵倒した?」
「はて、なんのことでしょうか。私はただ、事実を述べただけですよ」
「そうですか……。まぁでもさ。確かに今更だけど、あの時は何も知らないくせに、しつこく勧誘に来て悪かったよ。謝る」
「今更謝ったところで、私の時間と傷付いた心がどうにかなるとでも?」
――時間はともかくとして、ホントにアレで傷付いたのか? 君は。
「それは分かってるよ。それでもさ、あの時にしつこく勧誘してたからこそ、今こうしてなんだかんだ、友達になれたわけだろ? 結果オーライだよ」
「友達になれたところまではいいでしょう。ただそれが、私にとって喜ばしいことか、最悪なことか、どちらだと思って言ってます?」
「え、なに? 本城さんだって、嫌じゃないからこうして話してるんじゃないの?」
「違いますよ、勘違いしないでください。最初に言ったじゃないですか。『この体育会系の人達が作った、クソみたいな社会の中で生き長らえていくために、練習台になれ』って。それとも、もう忘れたんですか? 先輩のその頭は、お粗末な上に鳥頭なんですか? なんとも救いようのない頭してますね」
「言いたい放題だな、相変わらず……」
どうしてイチ言っただけで、何百倍にもなって罵声が返ってくるんだ。この子の人を罵る言葉のレパートリーだけは、右に出る人はいないと思う。絶対に。
「じゃあさ。そんな本城さんに一つ、俺から良いことを教えてあげるよ」
「はい?」
彼女が首を傾げた。
「一言に“友達”って言ってもさ、色んな形があると思うんだよ。ホントの兄弟みたいに仲が良い子もいれば、ケンカばっかりだけど、なんだかんだ一緒にいると安心できたりさ。友達の定義なんてものは無いし、こうじゃないと友達じゃないなんてことも無い。だから、その子達が友達だって思えば、きっとそれだけで“友達”なんだよ」
――どうだ! 俺は言ってやったぞ、本城さん! 参ったか!?
思わず心の中で、俺はガッツポーズを決めた。
「……甘いですよ、先輩」
「……へ?」
つかの間、本城さんの一言で、その挙げた手は下ろされてしまった。
まるで叶うはずもない夢の話を子供に聞かされている親のような、呆れた表情で本城さんが言葉を続ける。
「それは両者が“友達”だと思っていなければ、成立しない話でしょう? 勝手に片方が自分達を友達だと言い切っていたところで、それはただの虚しい人です。その人の周りには、ホントは誰一人いない可能性だってあるんですよ?」
「それは……」
まさに、「はい論破」と言わんばかりの表情だ。こちらを見下す彼女に、なんとも言えない感情を覚える。
「ダメですね、先輩は。そんな上っ面な言葉だけを信じて行動していちゃ、将来後悔しますよ。もっと物事の裏面を見て考えないと、絶対に痛い目を見ます。先輩なんか、尚更です」
「……なんか、うん。その通りな気がしてきた」
「でしょう? そんな社会の裏側を先輩に教えるためにも、私はこうやって話してあげているんです。感謝してください」
「うん、ありが……ちょっと待って!?」
危うく、スルーするところだった。思わず座っていた椅子をガタッと倒して、その場に立ち上がる。
「な、なんですか急に。やっぱり、通報して欲しくなったんですか?」
「違う違う!」
「一度牢屋に入って、頭を冷やしたくなったとか」
「だから違うって! ちゃんと聞いてよ!」
せっかく面白いこと言ったのに……と言いたげな顔で、彼女が「むぅ……」とぼやく。そんな可愛らしく美しいバラの花も、今この瞬間はどうでもいい。
「今さ……『そんな社会の裏側を先輩に教えるためにも』って言った?」
「え? えぇ、言いましたけど……」
彼女がコクリと頷いた。
「それってつまりさ……本城さん、俺のこと心配してくれてるんだ?」
「……っ!」
再び、彼女が大きく目を見開く。だが今度は先程と違って、後悔の念が垣間見えた。
「あーあー、そっかぁ。本城さんもなんだかんだ言って、俺のこと心配してくれてるんだなぁ」
「う、うるさいです! 黙ってください! いつまでも調子に乗ってると、本当に通報しますよ!?」
珍しく顔をほんのり赤くさせて、彼女が叫んでみせる。やっぱり意外と、こういうところは彼女はアホっ子で可愛らしい。
「そうやって照れなくてもいいじゃん。俺は嬉しいよ?」
「私が嬉しくありません! ああもうっ、やだやだ! 嫌気が差したので、今日はこれで失礼します!」
そう言うと、さっさと荷物をまとめ始めてしまった。この様子だと、追いかけたらそれこそ通報しかねないので、今日はこのまま帰らせてあげようと思う。……なんたって俺は、心強い先輩だからだ。
「分かったよ。気をつけて帰りな?」
「あなたは私の保護者ですか!? そんなこと、言われなくたって分かってます!」
荷物を仕舞い終わったトートバッグを肩にかけて、彼女が立ち上がる。そのまま、さっさと席を立とうとしたときだった。
「……先輩」
「ん?」
背を向けたまま、彼女がこちらをチラッと見た。
「その……今日は、ありがとうございました」
「え。あぁ、構わないよ。また何かあったら、言ってね」
「……失礼します。また明日です」
「うん、またね」
ぶっきらぼうにそう言うと、本城さんは早歩きで学食を出て行ってしまった。再び、その場に一人きりになる。
――まぁ……強がってるだけで、やっぱり優しい子なんだよなぁ。何があったのか知らないけど、少しでも助けになってあげられるように、俺も頑張らないとな。
倒してしまった椅子を直す。そのまま俺もリュックを背負うと、その日は学食を後にした。




