怒り姫
「あぁ……えっと……。うん、分かるよ、分かる。帰れってことだよね? ……ね?」
彼がゆっくりと、ドアに向かって歩く。わざわざ目の前で、抜き足差し足、忍び足としなくたっていいというのに。
「……分かるなら、早くそうしてください」
「は、はい……。えっと、その……お大事に、ね? また今度、大学で……」
そこまで言うと、彼は言葉を詰まらせてしまった。こちらとて返事をする気にはなれずに、ただただ不器用な空気だけが残る。
「そ、それじゃあ帰るね! お、お邪魔しました!」
やけくそな様子で、思い切りそう叫ぶと、勢いのまま彼は玄関に向かって走って行ってしまった。バタバタとした物音が聞こえたのち、ガチャンと大きな物音を立てて、玄関が閉まる音が聞こえた。
「……はぁ」
思わず大きなため息が出た。どうしていつもいつも、こんな調子なんだろうか。
辛い頭痛と腹痛に苛まれながら、ゆっくりとベッドから起き上がると、壁を伝いながら玄関へと向かった。
女というのは、常に損だ。いつも誰かからの視線を気にして、外へ出るにも細心の注意を払って行動しなくてはならない。
誰しもが必ず子供を産むというわけではないというのに、誰しもが子供を産むための体を、不本意に作り上げられる。
毎月のように生理と腹痛に襲われ、当たりどころのない虚無感と怒りに悩まされる。
何も望んでいなくても、精子と卵子が巡り会えば、問答無用で子宮は孕む。
全てとっても、何をとっても、女というのは常に損だ。
ようやく玄関にたどり着いた。誰かさんのせいで体温が上がってしまったのか、せっかく寝たことでマシになった頭痛も再来だ。本当に、いい迷惑である。
――……流石にもう、行っちゃったよね?
ゆっくりとドアを開けて、外を覗く。やはり外にはもう既に、彼の姿は見当たらなかった。
仕方なくドアを閉めて、鍵を掛ける。言葉にならない感情を呑み込むと、再び壁を伝って、ベッドへと向かった。
ようやくベッドへたどり着くと、私は真っ先にスマホを手に取った。早く寝たいという気持ちよりも、今は怒りのほうが勝っていたからだ。
――日和の奴……。
彼女の連絡先を表示して、すぐさま電話を掛けた。スピーカー通話にして、横になりながら彼女の反応を待つ。
そんな彼女が電話に出るまでは、それから五秒も掛からなかった。
「あ、綾乃ー! さっきのミノルン先輩、どうしたのー?」
開口一番、真っ先にそれだ。やはりこの子は、何も分かっちゃいない。
「どうしたのじゃないでしょ……。全部日和のせいだからね?」
「えぇー!? 私のせいなの!?」
一見わざとらしく見えるが、彼女はこう見えて恐らく素の反応だ。この子は色々と、対人に対する能力値が低い。
「日和。私、先輩の前では特にキャラ作ってるって言ったよね? なんでそれ言っちゃうわけ?」
「えー、だってだって、綾乃が優しいのは本当だもん! 綾乃だってきっと、ミノルン先輩と仲良くなりたいんだろうなーって思ってさぁ」
思わずイラッとした。何度言ったら、こいつは言葉を理解するんだ。
「だから……私は先輩と仲良くなりたいなんて、一ミリたりとも思ってない。勘違いしないで」
「えぇー? その割には綾乃、ミノルン先輩と一緒にいて、まんざらでもない感じだったよねぇ。中学の頃は、イジメっ子にちょっかい出されてたとき、もっと酷いことたくさん言ってたじゃーん」
「それとこれとは話が違うでしょ」
「なんでぇー? 仲良くなりたくない人の相手だったら、あの子達とミノルン先輩は同じなんじゃないのぉー?」
アホか。こいつは、自分と仲良くなりたい人と仲良くなりたくない人の二種類でしか人を分類できないのか。
「そうじゃなくて!」
「んー? なぁにー?」
「だから……」
そこで言葉に詰まってしまった。ハッキリとした理由はそこにあるのに、そこに手を出してしまうのは、なんだか気が引けてしまったからだ。
「綾乃ー?」
いつまでも黙り込んでいる私を、日和が呼び掛ける。そんな風に急かされると、もっと話しづらくなるというのに。
「……あいつらと先輩は、根本が違う。あいつらはただ、私のことを目につけて、ただただ気に食わないだけの理由で、色んなことを言ってきたり、してきたりした。でも先輩は違うの。私のことを凄いって言ったり、友達になりたいって言ってくるの。……初めてだよ。私と友達になりたいなんて言ってきた奴は」
「ほらー、良い人じゃーん。綾乃だって、やっぱり仲良くなりたいんでしょー?」
「……分かんない」
「えぇー? なんでよぉー?」
「……怖いの。先輩と仲良くなることで、また何かが変わっちゃうんじゃないかなって。そのせいでまた、嫌なことが起こらないかなとか、もっと病んじゃわないかなって、そう思ったら分かんなくなっちゃって。
最初はあの人のことを、ただの気持ち悪い陽キャだと思ってた。何度も何度もサークルの勧誘をしてくる、諦めの悪いバカなんだなって。また変な奴に目をつけられちゃったな、どうやって諦めてもらおうかなって、それしか考えてなかった。
だから色々と酷いことを言ってみたり、わざわざ先輩のことをパシッたり、わざと怒らせるようなことをしてみたりしてた。でも先輩は、全然私のことを諦めてくれなくて。なんか段々、この人は本気で私のことを認めようとしてくれてるのかなって思ったら、どうすればいいのか分かんなくなってきて。
でも正直ね。私はまだ、あの人のことは信じられない。世の中には、勧誘のためにわざわざ仲良くなったように思わせて、自分達の中に取り込むようなクズもたくさんいるでしょ。もしかしたらあの人も、その手段を使ってるんじゃないのかなって考えると、先輩の言葉も全部綺麗ごとのように聞こえて、全然信用し切れなくて。
それでも先輩は、こんな私にいつも優しくしてくれてて。いつの間にか、友達認定までされちゃってる。私だってまだあの人のことがよく分かんないし、怖かったけどさ。こっちも突っぱねてばかりじゃダメだと思って、思い切って昼休みに毎日会ってもいいって言っちゃったけど、結局何も変わってないし。先輩は、何を考えて私と一緒にお昼を食べてるんだろうって、いつも思う。
そしたら今度は、わざわざ雨の中で私のお見舞いに来てくれた。服も濡れてたから、結構急いできてくれたんだなってのも分かった。どうしてサークルの勧誘をしたいだけなのに、この人はここまで私に本気なんだろうって思ったよ。
それに、こないだのこと怒ってるのかなって思ったら、全然怒ってなかったし。それどころか『俺も悪かった、ごめんね』だって。よく分かんないよね、なんで先輩が謝るんだろう。やっぱりあの人、バカなんだろうな。
サークルに入ってほしいから、あんなにしつこく勧誘してきたはずなのに、いつの間にか友達になりたいなんて言って、優しくしてくるようになって。あの人の目的は、一体何なんだろうって、そんなことを考えてたら、もう分かんなくなってきちゃった。――私、あの人が何を考えてるのか、全然分かんない……」
頭痛と腹痛のせいで、なんだかもう思考がグチャグチャだ。自分がもはや、何を口から吐き出したのかすらも覚えてない。ただ長々と、つまらない愚痴を吐き出したことだけは自覚していた。
そんな私の言葉を、時々「うん、うん」と相槌を打ちながら、ずっと日和は聞いていてくれた。
普段は鈍感で、余計なことばっかりで、分からず屋のくせに。私が落ち込んでる時は、こうしていつもそばにいてくれる。そんなんだからいつまで経っても、大嫌いなはずなのに、縁を切りたくても切られないんだ。
「そっか、怖かったんだねぇ、綾乃。よしよし……」
電話越しだというのに、何がよしよしだ。赤ちゃんじゃあるまいし、余計なお世話だ。
「……赤ちゃん扱いやめて」
「えぇー、だって綾乃、泣いちゃってるから……」
「はぁっ? 泣いてなんか……っ」
日和に言われて、初めて気付いた。思考回路がグチャグチャになった挙句に、涙の元栓も緩くなってしまっていたらしい。生理のときは感情が不安定になると言うが、それらが自覚できないほど不安定になるとは、まさか思うまい。
「なんかアレだねぇ、綾乃。『デビルズ・インパクト』に出てきた、ミルキィ・サキュバスみたいだねぇ」
「……私、マンガ分かんないよ」
「あぁ、そっかぁ。ミルキィ・サキュバスも、普段は女子高生なんだけどねぇ? 裏では男の人達とセックスしまくってるビッチの女の子なんだけど、表ではアイドル歌手なんだよぉ。あ、ミルキィ・サキュバスっていうのは、『デビルズ・インパクト』っていうアイドルグループの中の名前ねー? 本名は毬乃ちゃんって言うんだけどぉ。
そんな毬乃ちゃんもねぇ、最初は人のことを信用できなくて、お金のためだけにアイドル活動して、体も売ってるんだよー。学校でも、アイドルやってるってことは結構知られちゃってて、女の子達からも疎遠にされててぇ、友達は誰もいなかったんだよぉ。
でもそんなときに、学校に転校してきた、悟君って子に出会うんだぁ。ベタだけど、席が隣同士になってぇ、学校の中の案内を頼まれてぇ、それから段々二人は仲良くなっていくんだけど、毬乃ちゃんはなかなか悟君のことを信じることができなくてぇ。自分が裏で男の人とイチャコラしてることとかぁ、アイドルしてることとかぁ、このまま全部話したほうがいいのかなぁー、嫌われちゃわないかなぁ、って悩み始めるんだよねぇ。
……まぁ続きは、気になったら読んでみてー? すっごく面白いからぁー!」
「……結局宣伝じゃん、それ」
「えー? いいじゃん別にー」
「……バカ」
そんな長々とした日和の話に、半ば飽き飽きしながらも聞き入ってしまった。
好きな作品の話をされるのはいつもの如くだが、それでもなんとなく毬乃という主人公に、親近感が湧いてしまったのは事実だ。
「んー、綾乃ー。私はねー? ミノルン先輩は、やっぱり悪い人じゃないと思うよー?」
「……その根拠はあるの?」
「根拠っていうかー、……多分先輩おバカだもん!」
「……何それ」
思わずフッと笑ってしまった。君のそんな答えこそ、正真正銘のバカだ。
「えーだってー、いつもLI○Eで話してて思うけどさー。この人可愛いなぁ、抱き着きたい! って思うもん」
「あの人が可愛いって?」
「うん! お兄ちゃんだったらきっと、大好きになっちゃうんだろうなぁーって感じ!」
「日和らしい。私は絶対無いと思うけど」
「嘘々ー、嘘おっしゃい! 本当は私なんかより、綾乃のほうがよっぽど相性良いと思うよー?」
「どこが?」
「だってミノルン先輩、本気になったら絶対諦めないタイプだもん。綾乃は逆で、本気で好きになってくれた人を好きになるタイプでしょー? お似合いじゃん!」
「……ちょっと待って? いつの間にか、恋バナになってない?」
「え、違ったのー?」
「違う!」
なんでだ、どうしてそうなるんだ。私は別に、一切彼には興味無いというのに。
「でもきっと、ミノルン先輩は綾乃のこと好きだよー?」
「はぁ? その根拠は?」
「だってミノルン先輩ってね、綾乃のこと話すとき、なんか楽しそうなんだもんー」
「……ちょっと待って、待って待って? なに、あんた達二人して、私のことを裏で話してるの?」
「当たり前じゃーん! 少しでも綾乃の手助けができたらいいなぁーって思ってぇ」
途端に、流していた涙も枯れきって、イラっとした。こいつは何を勝手に、私の知らないところで、私のプライベートを晒しているんだ。やはりこいつは、さっさと縁を切っておくべきだった。
「……何してんの」
「だってぇー。私達、友達じゃーん!」
「……もう、知らない!」
「ふぇ? あや……」
そう叫んで、強引に通話を切ってやった。
これで少しは、反省してくれるといいのだが……恐らく彼女のことだ。きっとまた、変な解釈でもして、ケロッとしていることだろう。
――ホント……変な友達持つと、変なことしかされない……。
渋々立ち上がって電気を消すと、イライラしながら布団に潜った。真っ暗闇の中、一人でボーッとする。
――……なんだろう。やめてよ、早く寝たいのに。
おかしい。ようやく一人きりになれたはずなのに、不思議と謎の寂しさが募る。
――何? さっきは先輩がいたから、安心して寝られたって? 冗談じゃない、いつも一人きりで寝てたじゃん。頭も痛いし、お腹も痛いんだから、早く寝させてよ……。
ジッと、眠りにつくのを待つ。……しかし、いくら待っても意識は暗闇に落ちず、ただただ冷蔵庫の鈍い音が、耳を通り抜け続けた。
「……ああもう!」
嫌気がさして、ガバッと起き上がった。特にそうしたところで、何かが変わるわけではないというのに。
――ダメだ。カフェオレ飲も……。
こういうときは、好きなものを口に入れるのが一番だ。
一度立ち上がり、机の下にある冷蔵庫を開いて、一本のカフェオレを取り出した。蓋を開けて、気が済むまで体にカフェオレを流していく。
ようやく口から離したときには、ペットボトルの半分以下まで減っていた。一気に飲んだにしては飲みすぎた気がするが、今回に限っては良しとする。
――あ、そういえば、貰った薬飲んでないや。……いいや、面倒くさい。寝たら治るでしょ。
再びベッドに横になって、目をつむる。――結局そのまま意識がなくなったのは、体感で一時間程経った後だった。




