妹のお節介
何かを訴えかけるかのように鳴いている虫達に囲まれた、静かに川が流れる河川敷。そこに俺は座っていた。
「綺麗ですね、先輩」
その隣には、彼女がいた。チラッと横目で見てみると、彼女はその景色に見惚れているようだ。
途端、ドンッ! という大きな音が耳を貫く。どうやら、花火が打ち上がったらしい。大きな大きな、朱色の花火だ。それから流れ様に、様々な色の花火が打ち上がっていく。
「……ねぇ、先輩。私、ずっと憧れていたんです。こういうとき、こういう場所で、こういう人と花火を見るのが」
彼女がこちらを向いた。心做しか、花火に照らされる頬が赤い。
「……先輩は、どうですか? ……こういうの、好きですか?」
そんな彼女へ向けて、俺が何かを呟く。すると彼女は、嬉しそうにニッコリと笑った。
「一緒ですね。嬉しい」
再びドンッ! と巨大な花火が打ち上がった。けれどもそんな花火の音も、彼女の声には及ばない。
「……先輩。待ってるんですよ? 待ってるのに、全然言ってくれないんですもん。酷い人です」
すかさず俺が、一言を告げた。どうやら照れ臭かったようで、滑舌は噛み噛みだ。だがそんな一言でも、彼女は嬉しかったようだ。
「大事な時に噛むなんて、先輩らしいですね。……でも、嬉しいです」
そう言うと、彼女がこちらへ近寄ってきた。彼女との顔が異様にも近い。
「……先輩なら、いいんですよ? ……好きにしても」
あまりにも無防備な彼女に、思わず俺は彼女の肩を掴んだ。そのまま自分のもとへと引き寄せて、唇を――。
◇ ◇ ◇
「――ろー!」
「……いったっ!?」
唐突に、頬に痛みが走った。真っ暗だった目の前が、急激に明るくなる。――なんだか、とてつもなく嫌な光景を見ていた気がする。
「起きろー! この寝坊助兄貴!」
「んぇ……? 茜……?」
段々と視界がハッキリしてきた。目の前には、茜らしき女の子が見える。
しかし、どうして今ここに茜がいるのかと考えてみると、やっぱりまだ夢なのかもしれない。再びいざなわれるように、俺の意識はゆっくり暗闇へと落ちた。
「あ、こらー! 目開けたんだからそのまま起きるー! また二度寝しないー!」
「あいたっ!? あれ、夢じゃないの……?」
二度頬を叩かれて、ようやく眠気が吹き飛ぶ。今度こそハッキリ、目の前にいる彼女を目視することができた。
「夢じゃないよ! いつまで寝ぼけてんの!」
「いや、え? なんで茜ここにいんの?」
俺の上に、彼女が馬乗りになっている。どうして彼女がこの部屋にいるのか、実家だったらそんな疑問は抱かないが、今はそうじゃない。
「なんでいるのー、じゃないでしょ! この間来たとき、わざわざ鍵開けに行くの面倒だから、合鍵渡すって言って鍵くれたじゃん!」
「……あぁ、そういえばそうだった」
先月彼女が遊びに来たとき、わざわざ合鍵を作って渡したんだった。こういうのは普通、彼女とかに渡すべきなのだろうが、そんな相手は俺にはいない。
「はいはいはいはい! 分かったらさっさと起きるー! もうお昼の一時だよー?」
「はぁい……」
彼女に起こされて、渋々ベッドから起き上がった。そのままぼんやりとした目で、彼女と向き合う。
この子は、俺の妹の村木茜だ。二つ下の妹で、現在は高校三年生。
俺とは違いかなりの癖っ毛で、肩まで伸びた髪の毛先が、ふんわりとハネているのが特徴的だ。テニス部に所属しており、いつも元気で活発な子である。
「取り敢えずトイレ行って、歯磨くー。朝ご飯……っていうか、昼ご飯なら余りもので作ってあげるから、待ってて?」
「ふぁぁ……。分かったよ」
大きな欠伸をしながら返事をする。本来は一人暮らしのはずなのに、何故いま俺は、実の妹に叩き起こされているのだろうか。
一先ず、彼女の言う通りにしなければ面倒なことになるのは明白だ。言われるがままに、トイレと歯磨きをそれぞれ済ませる。未だに眠い目を擦りながら部屋に戻ると、いつの間にかエプロン姿になっていた茜が、台所で作業をしていた。
「あれ……わざわざエプロン持ってきてたの?」
「うん。だって、最初から昼ご飯作ってあげるつもりだったからさ」
「そうなんか。なんか、ありがとな」
「えへへ」
茜が嬉しそうにニッと笑う。お互いいくつ歳を重ねても、やはり昔からこの満面の笑顔は変わらない。
「それで? 今日はなんで茜はウチに来たんだっけ?」
未だに茜が今日遊びにきた理由が分からなかった俺は、テキパキと作業を続ける彼女へ問うた。すると、振り向きざまに呆れた表情を見せて、茜がこちらに歩み寄ってくる。
「あぁー! さては忘れてるなー?」
「え。何か言ってたっけ?」
「言ったよ、言った! 来週文化祭があって、出し物の喫茶店で男装するから、ネクタイ貸してって話したじゃん!」
上目づかいのまま俺の顔面に向けて、彼女が人差し指を突き出してくる。これがアニメならドキドキするシーンなのだろうが、実際に自分がやられると申し訳ない気持ちになるものだ。
「あぁー。そういえば、言ってた気がする……」
「お兄ちゃん、ホンットに昔から鳥頭だよね。その話したの、一昨日の夜だよ?」
そう言われて、ようやく記憶が脳裏に蘇った。そういえば、そんな会話を一昨日の夜にしていた。今日遊びに来るというのも、昨日言われていたのにこの様である。
「……面目無い」
流石に呆れられてしまった、茜が大きなため息を吐く。
最近は誰かさんにもため息ばかり吐かれているが、こうして実の妹にまでため息を吐かれると、なんだか心にグサリとくる。
「まったく。お兄ちゃんから合鍵貰ってなかったら私、家の前でずっと待つ羽目だったんだからね? 今度から、ちゃんと起きててよ?」
「はぁい……」
もし次にまた同じようなことをしたら、今度こそ本当に嫌われてしまうかもしれない。気を付けなければ。
「それで? お兄ちゃん。 さっきからずっと気になってたんだけど、このゴミ袋の山は何?」
しまった。そう思ったときにはもう遅い。冷蔵庫の隣に数個積み重なった、ゴミ袋を茜が指差した。そういえば昨日もまた、ゴミ捨てに行くのを忘れてしまっていたんだった。
「あぁー、うん。……捨てるの忘れてました」
「忘れてましたー、じゃないでしょ! ちゃんと、決められた曜日に捨てに行ってよね?」
「いやだって、回収が月、水、金曜でさ。全部バイトの次の日だから、疲れて起きられないんだよ……」
「言い訳はいいの! 部屋の中ゴミ屋敷にする気なの? 私、そんな部屋に遊びに来たくないよ? ちゃんと次は捨ててよね?」
「むぅ。わ、分かったよ……」
「……それとお兄ちゃんってば、また洗濯物一気に洗ってるでしょ? それだって何回も言ってるよね?」
「げ、見たのかよ?」
「見たよ! ちゃんと分けて洗濯しないと服が痛むって、わたし何回言った?」
「……軽く五回以上は注意されてる気がします」
「だよね? どうしてこれが守れないかなぁ。……それから、コンビニのお弁当とか、カップ麺の食べ過ぎもダメ。飲み物も炭酸ばっかり飲むのも厳禁。……普通冷蔵庫に、二リットルのコーラのペットボトル三本も常備してる?」
「それくらいは別にいいだろ? 好きなんだし。お前は俺の保護者かっての」
「全っ然よくない! だって、お兄ちゃんがとことんダラしないんだもん。お母さんはお仕事で忙しいし、私が代わってちゃんと教えてあげなきゃ。それに、将来お兄ちゃんが結婚したときに、奥さんに色々迷惑だよ?」
「結婚したときね……」
――何年後の話だよ、まったく。
言ったって、まだ二十歳になる前の十九歳だ。結婚だなんて、下手すりゃ十数年先のことかもしれないのに、いま四の五の言われたってキリがない。
せっかくの一人暮らしだというのに、何故親でもなく妹にここまで強く叱られなくてはならないのか。もう少し自由にやらせてくれたっていいじゃないかとも思う。
「そ。だから、ちゃんと今度から気を付けること。分かった?」
「はいはい、分かったよ……」
「なんか適当だなぁ……」
「……そう見えるか?」
「……私はね? お兄ちゃんが可愛いお嫁さんと結婚して、迷惑だなぁって思われてほしくないから、こうして色々言ってるんだよ? ……少しは私の気持ち、分かってよね?」
そういうと茜は、寂しそうにこちらから顔を背けて俯いてしまった。急にそんな顔をされてしまったら、もう文句も言えなくなってしまうじゃないか。
「あぁ……分かった。悪かったよ」
「悪かったと思うなら、次からはちゃんとすること。いい?」
「あぁ、約束する」
「ならよろしい」
なんとか許してくれたようで、ようやく茜は先程までの作業を再開し始めた。あれ以上怒らせるような事態にならずに、ホッとする。
冷蔵庫の中から、茜が適当な材料をいくつか取り出す。並べられた材料を見つめて、彼女は一つ「ふぅ……」と息と吐いた。
「こんなもんかなぁ。野菜とお肉が余ってたから、簡単に野菜炒めでもいい?」
「あぁ、構わないよ」
「オッケー。じゃあ待ってて、今から作るから」
「何か、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。最近結構、料理の練習してるんだ。だから、私に任せて」
「……そっか、分かったよ」
茜がにひっと無邪気な笑顔を見せる。二人で他愛もない雑談を交えながら、料理が完成するまでの時間を一緒に過ごした。
◇ ◇ ◇
「じゃーん! どうよ?」
テーブルの上に、完成した野菜炒めとご飯が出てきた。あの余り物から即興でこの料理を作ったとなると、いつの間にかかなり料理の腕を上げたようだ。
「おぉ、凄いじゃん。上手くなったなぁ」
「えへへ、早く食べて食べて?」
「あぁ、いただきまーす」
早速、野菜炒めを一口運ぶ。……うむ、野菜に絡んだ味噌と肉の脂が、絶妙にマッチしている。これなら確実に、男の胃袋を掴めるだろう。
「うん、美味い!」
「ホント!? わーい、味噌野菜炒めは初めて作ったから、どうかなーと思ったんだけど、よかったぁ」
自分の手をパチパチと叩きながら、茜が喜んだ。
「え、初めてなの?」
「うん。いつも野菜炒め作るときは、お醤油を使うんだけどね? さっき見たらお醤油が切れてて、調味料が味噌と麺つゆしかなくてさ。思い切って、味噌で作ってみたんだよね。ちょっと不安だったけど、気に入ってもらえて良かったよ」
――あぁ、そういえば醤油切らしてたの忘れてた。早く買いに行かなきゃ、また何か言われそうだな……。
「へぇ。それでここまで美味い料理ができるんだから、よっぽど茜は料理が上手くなったんだなぁ」
茜は小さい頃から、家事全般は得意げにできるようになっていたが、唯一料理だけはてんで苦手だった。おかげで料理だけは、俺が母さんの手伝いをするようにしていたのだ。それがいつの間にか、即興で美味しい料理が作れるようになっているのだから、茜は相当な努力をしたのだろう。
「でしょー? お兄ちゃんに早く食べてもらいたいなぁって思って、ずっと頑張ったんだぁ」
「え、俺なの?」
その瞬間、俺の中に不安が募った。俺が一人暮らしを始めて実家を離れてもなお、彼女はそういうことらしい。
「うん! まぁ広く言うと、お兄ちゃんとその他諸々だけどね」
「相変わらず、俺のことが大好きなんだなお前は」
「だって、好き嫌いなんてすぐには変わらないでしょ? 家族なんだし!」
「それは、そうかもしれないけど……」
――いい加減、兄貴離れをしてほしいんだけどなぁ。早いとこ彼氏を作って、そっちに気を向けてくれればいいんだけど……。
そう。この通り茜は昔から、自称かつ家族公認のブラコン娘なのである。
例えば俺が中学生になるまでは、ずっと俺にくっついて同じ布団で寝ていた。俺が何かをするときは必ず俺の隣にいたし、俺の趣味を真似るかのように、彼女も同じものを好きになっていった。それと同時に、根が心配性なこともあって、俺の生活や将来に横やりを入れてくるようになったのは、今に始まったことではない。先程のように、口うるさく俺のことを叱ってくるのもそのためだ。
それでもなんだかんだ、昔から兄妹仲良くやれているとは思う。偶に小さな母親のような一面を見せるものの、普段はおっちょこちょいで危なっかしい妹なのだ。俺は兄として、そんな放ってはおけない妹のブラコンっぷりを、ずっと受け入れてしまっている。
「さぁて、じゃあ私も食べよっかなぁ。私もお昼まだなんだよね」
エプロンを外しながら彼女が告げる。台所で自分の分のご飯と野菜炒めをそれぞれよそうと、俺の向かいの席に彼女は座った。
「えへへ。こうして二人きりだと、なんだか夫婦みたいだね」
「……まさかとは思うけど、俺と結婚したいだなんてことはもう言わないよな?」
――昔はよく、『将来はお兄ちゃんと結婚するの!』なんて言ってたけど……流石にな……?
「まさかぁ。流石にそれはもうないよ。私はただ、家族としてのお兄ちゃんが好きなだけであって、男の人として好きなわけじゃないよ?」
その言葉を聞けて、思わずホッとしたのは言うまでもない。
「そう。ならいいんだけどさ」
「あ、なに? もしかして、心配した?」
「そりゃあ……」
「もう、考え過ぎだなぁ。私だって、ちゃんと他に好きな男の人はいるよ? 恋愛感情だって、お兄ちゃんには湧かないしね」
「……そういうもんなの?」
「そういうもんだよ。女の子の気持ちは、複雑なのだ」
「ふぅん……」
やはり女の子という生き物は、よく分からないものだ。気まぐれで、ワガママで、複雑で、素直じゃなくて、時に優しくて、時に不機嫌で、理不尽に怒られることもしばしばある。
そんな彼女達と、今後も付き合っていかなければならないのだと思うと、正直俺は不安だ。
「それじゃあ、いっただっきまーす。……あ、お兄ちゃんのほうのお肉おっきい。もーらい!」
「あ、ちょ、おま! 取るなよ!?」
「えへへ、早いもの勝ちだよーだ!」
「早いも何も、俺のほうの皿にあった肉だろ!?」
「知ーらなーい」
女の子はという生き物は、やはり俺にはよく分からない。それが例え、友達であっても、後輩であっても――家族であっても、妹であってもだ。
 




