進むべき道
その日の夜。ちょっとした仲違いがあったものの、無事に仲直りして、俺達は家へと帰ってきた。その後は、いつも通り夜ご飯を食べて、お互いお風呂に入り、いつもと変わらない夜を過ごしていた。
しかしそんないつも通りの日常は、突然七泉のスマホに一本の電話が掛かってきたことによって、壊されてしまったのだ。
「こんな時間に電話? 誰から?」
夜の十時過ぎ。ベッドの上に座ってテレビを見ていた俺は、机の前に座り黙々とタブレットで絵を描いていた七泉に問うた。
「ちょっと待ってね。……あっ、お母さんからだ……」
「七泉の?」
「うん。……多分、お父さんが掛けると出ないからって、代わりに掛けてきたのかも」
未だ鳴り続けるスマホを見つめながら、七泉が告げた。
――そういえば、七泉がこっちに来た理由って、俺に会いに来たわけじゃないんだよな。すっかり忘れてた。
色んなことがあったおかげで忘れていたが、七泉が今回やってきた理由は、お父さんとケンカをして家を出てきたからだ。絵か織物か、どちらを選べばいいか分からなくなった七泉が、しばらく家出をするために、わざわざ福島から茨城の俺の元までやってきたのだった。
「……出ないの?」
一向に電話へ出ようとしない七泉に問う。
「だって……出たらきっと、帰ってこいって言われるから」
「……七泉は、帰りたくないの?」
「そうじゃないけど。けど……今更お父さんに、なんて言えばいいのか分かんないよ」
俯きながら、細々と七泉が告げる。どうやら、どうすればいいかを迷っているようだ。
「それなら……俺が出ようか?」
「だっ、ダメ! お兄ちゃんが出たら、私がここにいるってバレちゃうから」
「……そもそも、どうして七泉が今、俺のところにいるってバレたくないの?」
「それは……」
すると七泉は、返事に戸惑うように口ごもってしまった。そんなことをしているうちに電話も鳴り止んでしまい、室内にはいつもの静穏が戻る。
――ここで諦めて何も言わずに、七泉に任せることもできるけど……でもこのままだときっと、七泉のためにはならないよな。ここは一つ、俺からも言ってみたほうがいいか。
「なぁ、七泉。お前がここに来たとき、『二週間ぐらい泊めてほしい』って言ってたよな」
「……うん」
「そうなると、あと四日後だから――七泉の誕生日でちょうど、二週間になるんだよな。つまりもうすぐ七泉も、実家へ帰らなくちゃいけないわけだ」
「なに……お兄ちゃんは私に、早く帰れって言いたいの?」
「そうじゃないよ。俺だって七泉がいてくれたら楽しいし、できることならこうして、一緒にいたいと思ってる。でも七泉だって、ずっとここに居続けるわけにもいかないだろ?」
「……そうだけど……」
声を震わせながら、何か言いたげなのを必死に堪えているようだ。恐らく今は彼女の中で、様々な思いが葛藤してるのだろう。
「別に、明日すぐに帰れとは言ってないよ。でもそろそろ約束してた二週間になるんだし、七泉も考えをまとめたほうがいいんじゃないかなって――」
「分かってるよ! そんなことは、ここに来る前から分かってるの!!」
珍しく七泉は、声を荒げて叫んでみせた。普段から大人しい七泉が、ここまで声を張るのは滅多にない。
「分かってるけど……いくら考えても、答えが出てこないんだよ……」
「七泉……」
「……確かに私は、絵を描くのが大好きだよ。寝る時間を割いて、朝まで絵を描いちゃうときだってあるし、学校では授業中でもずっとノートに絵を描いてた。小さい頃からずっと描き溜めてたノートはもう何十冊ってあるし、タブレットにも自分で描いた絵が何百枚ってある。昔から絵を描くことだけは誰にも譲れないぐらい、私にとって絵は大事なものなの。
でもそれと同じぐらい、織物だって大事だと思ってる。ずっと昔からある伝統の織物を教わることができて、私が手作業で作った織物が買ってもらえるんだって思うと、凄く嬉しいの。まだまだお父さんやお母さんみたいに上手には織れないけど、いつも一つ一つ、使ってもらう人に喜んでもらえるように頑張って作るの。時間はかかるし、作業も大変だけど、やっとの思いで完成したときは、毎回凄く嬉しいんだ」
そう長々と、七泉はそれぞれへの想いを語ってみせる。心做しか、そんな彼女の表情は先程よりも、なんだか楽しそうに見えた。
「……だからこそ絵も織物も、私にとってはどっちも生きていく上で大切なものなの。誰にも譲れないし、手放したくないの。……どっちかだけなんて、そんなの……無理だよ……」
「……なるほどな」
俺は一言告げると、そのままベッドから立ち上がった。そのまま彼女と向き合うように椅子へ座る。
「ならさ。一つ俺から、提案があるんだけど」
「提案……?」
そうして俺は、右手の人差し指を立てながら告げた。
「簡単な話だよ。どっちか手放せないのなら、どっちも手放さなきゃいい」
「……え?」
七泉が目を丸くさせて、素っ頓狂な声を上げた。
「だってそうだろ? どっちも七泉にとって大切だと思うなら、どっちも大事にすればいいんだよ。その分、どっちも頑張らなきゃいけないことにはなるけど……もしそうなったとしても、七泉なら頑張れるってことだろ?」
「そ、そりゃあ……もしそれで許されるんだとしたら、私だってそうしたいよ。でもそれが許されないから、こうして悩んでるってわけで……」
「と、いうことはだよ。ちょっとキツいことかもしれないけど、言っていい?」
「……うん」
「……今の七泉はお父さんにとって、どっちも頑張ってるように見えてないってことなんじゃないかな」
「っ……!」
俺が言うと七泉は、口元をポッカリ開けてハッとしてみせた。
「七泉にとっては、どっちも大切なもので、どっちも頑張ってるんだと思う気持ちも分かるよ。でもそれは、七泉自身が思ってることであって、周りの人からどう見えてるかは別のことだと思うんだ。
ここからは俺の推測だけどさ。いくらネットで七泉の絵がいま認められてたとしても、お金は個人間のやり取りだけであって、お給料になってるわけではないでしょ? そのくせもしかすると、七泉は織物を作ってるときも、早く終わらせて絵を描きたいって雰囲気を出してたのかもしれない。その様子をお父さんは見てたから、いま怒ってるんじゃないのかな」
「………」
「……もしかして、思い当たる節あった?」
七泉は無言のまま、コクリと頷いた。
「確かに……描いてる途中の絵があったときなんかは、織物を織りながらずっと絵の構成について考えたりとかはしてたかも。……バレてるなんて思ってもなかったけど、もしかするとお父さんも、私のことをずっと見てくれてたのかな?」
「どうだろうなぁ。……そこから先は、七泉が直接聞く番じゃないかな」
俺は顎で、机の上に置かれたスマホを指した。それを七泉が、考え込むようにまじまじと見つめる。すると突然、七泉は大きなため息を吐いてみせた。
「はぁ……。やっぱり、実お兄ちゃんには敵わないなぁ。お兄ちゃんに言われると、悩んでたこともバカバカしく思えちゃうんだもん。ある意味才能だよね」
「そうか? 俺はただ、思ったことを言ってるだけなんだけどな」
「それが才能だって言ってるの。もう……分かったよ、お兄ちゃん。私、電話してみようと思う」
そう言って七泉は、再びスマホを手に取った。そんな彼女は先程までとは違い、何かを決心したかのような目をしていた。
「お、ホントか?」
「だって、お兄ちゃんの推測が当たってるんだとしたら、私はお父さんに相当酷いことを言っちゃったってことだもん。……だったら早く、謝らないといけないでしょ?」
「……そうだな」
七泉は一瞬だけ口元を緩めると、すぐにスマホと向き合い始めた。そのまま電話のコールを鳴らし始めると、そっとスマホを机の上に置く。――どうやら、前回同様スピーカー通話で話すのには変わりないらしい。
それから数コールしたのち、それなりに早い段階で、七泉のお母さんは電話に出てくれた。
「あっ……お母さん」
「もしもし七泉? 七泉なのね?」
電話に出るなりスピーカーからは、かなり焦った様子で七泉のお母さんの声が聞こえてきた。想像とはだいぶ違った様子の彼女に、七泉は戸惑った表情を見せる。
「えっ? うん……私だけど」
「よかったぁ……。二週間近く連絡もないから、ずっと心配だったのよ。七泉は普段から家出するような子じゃないから、もしかして何かあったんじゃないかって」
「そ、そうだったの? ごめんなさい……」
「本当によかった……。もう、今度から家を出るときは、後からでも絶対連絡入れなさいよ? お母さんもお父さんも、ずっと心配だったんだから」
「うん……」
久しぶりに七泉の声が聞けて、安心しきった様子の七泉のお母さんの声が聞こえてくる。時折鼻を啜る音も聞こえてくるので、もしかすると泣いているのかもしれない。
「それで、今あなたはどこにいるの? 近所にはいないみたいだけど」
「それは……」
すると案の定、その質問が来てしまった。七泉もなんと答えるかを考えていなかったようで、黙り込んでしまう。
「……あの、ね。お母さん。私ね、先にお父さんと話したいことがあるの。お父さんと話したら、全部ちゃんと話すから。だからっ……」
そこまで言って、七泉は再び言葉を詰まらせてしまった。その様子は、はた目からでも必死に言葉を絞り出しているのが分かる。
すると七泉が続きを話すより先に、七泉のお母さんが口を開いた。
「……そっか、分かった。じゃあ先にお父さんと代わるわね。……お父さん、毎日ずっと七泉から連絡がなかったか、欠かさず確認してたのよ?」
「えっ……お父さんが?」
「そうよ。ふふっ、普段はあんななのに、ちょっと可愛いわよね。……じゃあ、いま代わるから、ちょっと待ってて」
七泉に何かを言わせる前に、彼女のお母さんはさっさと話を切り上げてしまった。スピーカーからは、階段を降りるような音が聞こえてくる。
しばらくして「あなた、七泉から」という声が聞こえると、スピーカーから今度は彼女のお父さんの声が聞こえてきた。
「……七泉か?」
「……うん」
「……まったく。二週間近く連絡も寄越さずに、どこをほっつき歩いてるんだ。工房の人達もみんな、心配してるんだぞ?」
「それは……ごめんなさい」
「それから、お前が途中まで作ってた織物。あれも工房の人達が代わり代わりで作ってくれているんだ。お前が一人欠けてた分、他の人達に迷惑をかけてるんだからな」
「分かってるよ。それについては帰ったら、ちゃんと謝るから……」
「謝れば済むとでも思ってるのか? お前はもう学生じゃないんだ。もうウチの工房の、一社員なんだぞ。いつまでも学生気分でいられたら困るんだ」
「………」
「分かってるとは思うが、工房に出なかった日数分と、プラスでいくらか今月分の給料から差し引くからな。それについては、文句はないな?」
「……分かってるってば」
そう告げる七泉の目には、じんわりと涙が滲んでいた。口を挟んでやることも出来ない俺は、ただただ心の中で彼女のことを応援することしかできなかった。
「……で。お前は一体いつ帰ってくるつもりなんだ? これ以上工房を空けるなら、流石に社員からクビにだってできるんだぞ?」
「それは……」
「もちろん、明日帰ってきてくれるのが一番ありがたいんだがな。そっちにも都合があるだろうから、せめて予定日だけは今決めてくれ」
「っ……私が、決めて……いいの?」
「当たり前だろ……。お前がどこにいるのかも分からないんだから、こっちには都合の決めようがない」
「じゃ、じゃあ……明後日! 明後日の夜までには、必ず帰るから。だから……あと一日だけ、時間をちょうだい? ……ううん、時間をください。お父さん」
わざわざ言葉を言い直して、ハッキリとした口調で七泉が告げる。彼はすぅっと一つ息を吸うと、静かにそれに答えた。
「……分かった。それじゃあ、水曜日から仕事に戻るってことで、みんなに伝えておくからな?」
「うん。……お願いします」
電話越しだというのに、七泉はスマホに向かって、頭を下げてみせた。どうやら、俺に見られていることを忘れて、すっかり二人の世界に入ってしまっているようだ。
「……じゃあ、それで把握しておくよ。時間も時間だから、もう切るぞ?」
「あっ……ま、待って!」
そのまま電話を切ろうとするお父さんを、咄嗟に七泉が呼び止める。
「なんだ?」
「……あの、さ。漫画のアシスタントの話、なんだけど……」
「それか……。父さんが言いたいことは、前と変わらないぞ?」
「うん、分かってる。その上で、お父さんに聞きたいの」
「何を?」
「……お父さんが私に怒ってたのってさ。私が仕事中もあんまり、集中して織物を織れてなかったから? 絵を描くことばっかり集中して、織物を粗末にしてたからなの?」
七泉が問う。すると彼女のお父さんは言葉を考えているようで、しばらくスピーカーからは唸り声だけが聞こえてきた。
「……そうだなぁ。半分ぐらいは正解だな」
「半分? じゃあ、もう半分は?」
「……本当なら、七泉自身に考えて、答えを出してもらいたかったんだがな。そこまで分かってくれたんなら、この際話してもいいか……」
彼は咳払いをすると、そのまま言葉を続ける。
「まずそうだな。七泉がはたから見て、仕事にあまり集中できていなかったように見えてたのは、その通りだ。けどお前は、昔からずっと織物を続けてるおかげで、それなりの物はぼんやりとしながらでも作れるから、自分で気付けなかったんだと思うな」
「やっぱり。……次からは、気を付けます」
「まったくだ。その上でお前は、高校で進路を決めるとき、自分からウチの工房で働くって言ったよな?」
「……うん」
「なのにどうだ。仕事には集中しない。技術が大事な仕事だというのに、仕事以上に趣味にばかり没頭する。そのくせ、中途半端に仕事を辞めて、アーティストの道へ行こうとしてる。おまけに今回は職務放棄ときた。……こんな宙ぶらりんな生き方で、この先本当にやっていけると思うか?」
「っ……それは……」
「前に言いそびれたが、別に父さんはお前がそのまま、絵を描く仕事に行くこと自体は反対してない。けどな。自分でやると決めた仕事の、目の前にある自分のやらなきゃいけないことすら真面目にやり遂げられない若造が、好きなことなら何でもやっていけると思ったら大間違いだ。その程度で物事を成功させられると思ってるなら、お前はまだまだ未熟者だ」
「っ………」
そんな彼のキツい言葉を受けて、再び七泉は泣いてしまいそうな表情を浮かべる。しかし、それでも必死に泣くまいと、我慢しているのがうかがえた。
「要するに、何が言いたいのかというとだな。別にお前が、絵を描く仕事と織物工房を両立しようが、織物一本でいこうが父さんは構わない。けど万が一工房を出るのなら、まず織物を一人前に織れるようになってからにしろってことだ。ただでさえ面接も試験もなしに、特別に社員として働けてるんだから、それぐらい当たり前だと思えよ?」
最後に「いいな?」と付け足すと、彼はホッとしたかのように大きなため息を吐いた。もしかすると彼も、彼女と同じように緊張していたのかもしれない。
「……分かったよ。私、頑張るから。お父さんに認めてもらえるように、頑張るから。ちゃんと仕事には集中するし、もうこんなことはないようにするって、約束もするから……」
「……今の言葉、覚えておくからな。次にまたこんなことがあったとしたら、次こそは即行クビにするぞ?」
「うん、分かってる。……ありがとう、お父さん」
「……別に、当然のことをしただけだ」
「ふふっ、そっか」
ようやく緊張がほぐれたのか、七泉が小さく微笑んだ。なんとか二人の仲も取り戻せたようで、ずっと様子を見ていたこちらとしても一安心だ。
――七泉のお父さんも、意外とツンデレなところあるんだ。普段はメチャクチャ厳しいけど、案外娘想いな人なんだな。
今までずっと、ただただ厳しい人だと思い込んでいたが、そんな一面があったことに驚きだ。彼はただ不器用なだけで、根はとても優しい人なのかもしれない。今後彼と接するときは、見る目が変わってしまいそうだ。
「そういや七泉。すっかり忘れていたが、お前は今どこにいるんだ?」
ふと、思い出したかのように七泉のお父さんが問うた。
「あ、うん。えっと……」
すると七泉は、途端に俺のことを見て微笑んだ。……この顔は、なんだか嫌な予感がする。
「ふふっ、今はね――私の大好きな実お兄ちゃんのところにいるんだ」
「へっ?」
途端、俺の口から素っ頓狂な声が出た。
「何? ……実って、あの実君か?」
「うん! そうだよー」
「……ほう。声が聞こえたということは、実君もそこにいるんだな? 何やら面白そうじゃないか。詳しく話を聞かせてほしいな。……そこにいるんだろう、実君?」
「え。え、えぇっ!?」
あまりにも突然すぎる飛び火に、俺は思わず七泉のことを恨む。
――七泉が頑なに居場所を言いたくなかったのって、こういうことだったのかよ……!
父は娘の彼氏を嫌う。よく聞く話ではあるが、それは彼にとっても当てはまることのようだ。
そんな七泉はまるで、この状況を楽しんでいるかのように、涙混じりに肩を震わせながら、悪戯っ子のようにクスクスと笑っていた。




