人は欲望のままに動く
「秋那!!」
彼女の名前を叫びながら、本城さん達が学食へ向けて去っていく。俺はそんな後ろ姿を、とても微笑ましく感じていた。
――俺の知らないところで、なんだか色々あったみたいだけど……。あの本城さんに、新しい友達ができたのかぁ。嬉しいような、ちょっと寂しいようなって感じだなぁ。
この感情は、例えるのなら我が子を見守る親の気持ちとでも言うのだろうか。あれほど陽キャのことを毛嫌いしていた本城さんが、ちょっとギャルっぽい子と友達とは。人の考え方とはやはり、変われるものなのだと思う。
――まぁこれで、ちょっとは俺の役目も果たせたって感じかな。この調子なら、俺なんかがいなくても、本城さん一人でやっていけ……。
そこまで考えて、ふと一つの疑問が浮かび上がる。
――……そうなると、日和ちゃんからの頼みってのはどうなるんだ?
彼女がこのまま、俺がいなくとも楽しく生活ができるようになれば、その約束は果たしたことになるのだろうか。それとも、その後もしっかりと見守ってあげたほうがいいのだろうか。
日和ちゃんに頼まれる以前から、元々俺の考えていたこととしては、大きく二つだ。
一つは、本城さんに演劇サークルにぜひ入ってほしいということ。そしてもう一つは、何もかもに自信を持てない彼女のことを、サポートしてあげたいということだ。そして二つ目が達成できれば、恐らく一つ目の俺の願いも叶いやすくなることだろう。
――本城さんならきっと、彼氏だってすぐに作れるだろうし。そうなったらホントに、俺がサポートする必要もなくなるんだよな。
そうなった場合、日和ちゃんからの頼みは一体、どうしていけばいいのだろうか。
当然俺は友達としてい続けるつもりだが、どこまですれば日和ちゃんは、満足をしてくれるだろう。易々と頼みを引き受けてしまったが、その後のことは全く考えていなかった。
――まぁ、そんなこと今考えることじゃないか。取り敢えず俺も、飯食おう……。
今はまだ、行く末の分からない未来について考える必要はない。それについては、また将来考えればいい。
今日は一人で、いつもの学食へ向かい始める。何気ない考えを浮かべながら、構内を歩いていたときだった。
「ん」
突然ポケットの中に入れたスマホが、バイブ音を鳴らし始める。一体何事だろうと画面を覗いてみると、そこには七泉の名前が表示されていた。
「もしもし、七泉?」
「あ、み、実お兄ちゃん……」
耳元から聞こえた彼女の声は、酷く怯えているようだった。いつにも増して声を震わせており、なんだか様子がおかしい。
「どうした? 何かあったの?」
「うん、その……。さっきまでね、お兄ちゃんに頼まれてた洗濯物を干してたんだけど……」
そうして一呼吸を置くと、七泉は言葉を続けた。
「ベランダにいたらね、急におばさんから『ここって若いお兄ちゃんが住んでたよね?』って話しかけられて」
「うん」
「そうしたら続け様に、『やっと恋人ができたのね! ならそんな付き合いたてなカップルのあなた達に、いい本があるの!』とか言われちゃって」
「え、えぇ……?」
「私達は恋人じゃないとも説明したし、何度も断ったんだけど、『せっかく親切にしてやってるのに、貰わないなんてあなたはどうかしてるわ!』の一点張りで……。挙句に、『今すぐお兄ちゃんのことを呼びなさい。直接話してあげるから、話すまで帰らないわよ』って無茶を言われて、今もベランダの前に居座られちゃってるの……」
「なんだよそれ……。そんな迷惑なおばちゃん、近所にいたっけか……?」
少なくとも、近所でそんな話を俺は聞いたことがない。だが俺が住んでいることを知られている以上、向こうに存在は知られているようだ。単に俺が一人暮らしだったおかげで、ターゲッティングされなかっただけなのだろうか。
「おかげで偶に、『早くしなさいよ』とか『まだなの?』って呼びかけてくるし、全然帰ってくれそうにないの。お兄ちゃん、今日何時に帰ってこれそう……?」
「うーん、今日か……。三限目終わって急いで帰っても、三時過ぎにはなると思う……」
「さ、三時!? うぅ、あと三時間か……大丈夫かなぁ……」
今にも泣き出しそうな声で、七泉が告げる。泣かないでくれと言いたいところなのだが、このままでは無理なお願いになってしまいそうだ。
「えっと、そのおばちゃんって結構キツい性格してそう?」
「うん。ちょっとやそっとじゃ、全然引いてくれなさそう。お兄ちゃんのことを呼んでも、帰ってくれるか分かんないかも……」
「そうかぁ……」
このまま三時間、ずっとベランダにいてくれるだけならいいのだが……。そういうタイプは興奮すると、家の中にまで入ってこようとするかもしれない。もしそうなったら、七泉が危険だ。
「……分かった。今から授業サボって、家に帰るよ。七泉に何かあったら大変だし」
そう告げながら、それまで学食へと向かっていた足を百八十度回転させて、今度は駐輪場のほうへと向かい始める。
「えっ!? でも、いいの?」
「あぁ、一緒に授業受けてる友達もいるからさ。一日分ぐらい、後で教えてもらうよ」
「でもお兄ちゃんは、それでもいいの?」
「いいって言ってんだろ? ともかく、今から急いで帰るからさ。あんまりおばちゃんのことは刺激しないようにして、ほどほどに話せば大丈夫だと思うから」
「うん……分かった。……わざわざありがと」
「ん、おう」
「……じゃあ、待ってる。気を付けてね」
「あぁ、七泉もね」
お互いに身を案じると、そのまま通話を切った。ポケットにスマホを再度仕舞うと、急ぎ足で自転車のもとへと向かう。
――ったく、なんでこう変なことばっかり重なるのかなぁ。もう少し平穏に暮らしたいんだけど。
停めてあった自分の自転車を見つけて、鍵を挿し込みサドルを跨ぐ。そのまま助走をつけて走らせると、急いでペダルを漕ぎ始めた。
――……あ、本城さんにも後で連絡しなくちゃ。取り敢えず、家に着いてからでもいいか。今は七泉が心配だし。
多少心配させてしまうかもしれないが、彼女には理由は後で説明すれば平気だろう。今は一秒でも早く、七泉の身にもしものことが起こる前に向かわなくては。
俺の顔面へ向けて、びゅうっと冷たい風が襲ってくる。今日はなんだか、普段よりも風の悪戯が強いような気がした。
◇ ◇ ◇
――結局、先輩来なかったな……。
授業終わりのチャイムが鳴り、室内の学生達が一斉に散らばり始める。私は荷物をまとめながら、先輩のために余分に取っておいたプリントをファイルの中に入れた。
――ホントにどうしたんだろう。連絡入れてみようかな。
他の学生達と共に教室を出ながら、トートバッグからスマホを取り出す。彼とのトーク画面を引っ張り出すと、一言「三限目来てなかったけど、何かありましたか?」とだけメッセージを送信した。
――すぐに連絡来るかなぁ。村木先輩のことだから、来るとしても少し遅く返事寄越しそうだけど。
そんなことをぼんやりと考えながら、次の四限目に受ける授業の教室へと向かい始める。
大学生になってみて思ったが、この教室移動が実に面倒だ。広い構内の中を、授業休みの僅か十分の間に移動しなければならないだなんて、この規則を作った人は頭がどうかしていると思う。もう少し、時間に猶予は作れなかったのだろうか。
――先生によっては、多少遅れても許してくれる人もいるからいいけど、許さない人はホントに許さないからなぁ。そこら辺も、もうちょっとハッキリしてほしいよね。
規則に甘い先生、厳しい先生もいる。また先生ごとに単位への配慮がガバガバだったり、ワンミスで即終了だったりもする。そして何よりも、先生ごとにルールが存在し、また同じ先生でもその人が受け持つ授業ごとにルールが変わったりもする。前期を終えてみて分かったが、意外と大学は大学で面倒くさい。
――正直舐めてたなぁ、大学のこと。みんな揃って「大学はラク」って言うから、簡単に卒業できると思ってた。
そういえば村木先輩と会ったばかりの頃、先輩も言っていた。学年の違う友達や、他の学科の友達がいたほうが、何倍も大学生活は楽になると。半年通ってみて思うが、まさにその通りだと思う。
――意外と先輩が言うことって、理に適ってるんだよね。いつも強がって突っぱねちゃってるけど、それが正しいことなんだって、ホントは分かってる。
彼が言うことの多くは、間違ったことではない。けれど、それを彼自身に言われているという事実がもどかしくて、認めるのを拒んでしまうのだ。
――もっと素直になったほうがいいのかなぁ。もっと素直に……私が先輩に素直になったら、どうなっちゃうんだろ。
分からない。そんなこと、想像すらしたことなくて、そのビジョンすらも見えてこない。
彼と一緒にいるときは、強がりで情けない自分が私なのだ。それはもはや、イコールで結びつけられており、それ以外の私になってしまったら、それはもう私ではなくなってしまうような気がする。
もし仮に私が、彼に対して素直になってしまったら――きっとそれは、“村木先輩と私”ではなく、別人同士の誰かだろう。いま私が先輩と友達でいられているのは、そんな強がりで情けない私だからこそなのだと思う。
――……でもそれだと、私は変われないんだよね。変わるためには、今の私じゃいけなくて。でもそうなると、私は先輩と友達じゃなくて……あぁもう、なんかよく分かんなくなってきた。やめよ。
段々と思考が、ゲシュタルト崩壊を起こし始めてきた。誰がどうで何が私か、もうよく分からなくなってしまった。
このまま考えても、どうせ結論なんて出てこないだろう。こんな無駄なことを考えるのはやめたほうがいい。
いびつな塊となった思考を振り解いて、一度頭の中をリフレッシュさせる。一つ深呼吸をすると、私は次の授業が行われる棟へと入った。
階段を上って、三階奥の教室を目指す。……ふと、普段ならこの辺りから学生達の喋り声が聞こえてくるはずなのだが、今日はやけに廊下が静かだった。
――あれ? おかしいな、階は間違ってないはずなんだけど。
違和感を覚えながら、廊下を進んでいく。そうして、普段四限目の授業を受けている教室の前にたどり着いた。……が。
――誰もいない……もしかして、休講とか? そんなこと、前回言われてなかったと思うんだけど……。
スマホを取り出して、休講や教室変更のお知らせが見られる学生専用のWebサイトを開く。するとそこには、ちょうど今から自分が受けようとしていた授業の、休講のお知らせが記載されていた。
――うっそ。なぁんだ、じゃあここまで来る必要なかったじゃん。時間無駄にしたなぁ……。
そうだとしたら、前回の授業のときに直接口頭で言ってほしかった。この移動時間を費やしたおかげで、普段から三限目終わりに乗っているバスに乗れなくなってしまったじゃないか。
――まぁ、いうほど待ち時間ないからいいけどさ……。
そんなことを心の中でぼやきながら、その教室をあとにする。ふわっと欠伸をして目を擦りながら、階段をのんびり降りた。
――ん……。
ちょうど一階へとたどり着いたとき、バッグの中へ入れていたスマホに通知が入った。
――先輩かな?
スマホを取り出して、画面を確認する。そこには案の定、村木先輩からのメッセージが表示されていた。
――『ごめん、ちょっと色々あって家に帰ったんだ。今日って何か、プリント出された?』か……。色々って、なんだろう。
その“色々”について気になったものの、一旦は何気ない会話を続けてみる。
「三枚出されましたよ」
「多いな。それって来週分も含めたやつ?」
「です。一応先輩の分も確保しときましたけど」
「お、ホントに? ありがとう! じゃあそれ、今度の昼に貰える?」
そこまで会話が続いたとき、私は何気なくこんなメッセージを送った。
「いえいえ。どうせなら、ちょうど今日四限目が休講になったので、今から先輩に家に寄れますけど。寄っていきましょうか?」
そのメッセージを送ると、それまで絶え間なく会話が続いていたはずなのに、急に返信が途切れた。既読は付いているので、恐らく返信を考えているか、別のことをしているのだろう。
一分程待っていると、ようやく先輩からのメッセージが返ってきた。
「あぁいや、それはいいよ。わざわざ本城さんにも悪いから、それは大丈夫だよ」
そんな彼の返事に、私は何故か何とも言えない感覚を覚えた。
――あれ、断るんだ。てっきり先輩のことだから、オッケーしてくれると思ってたんだけど……。
ジワジワと、心の中に違和感が芽生え始める。そこまで深く考える必要はないはずなのに、何故かその返信が、彼らしくないと私は思ってしまった。
――もしかして、その“色々”ってことが関係してるのかな……?
一体それは何なのか。彼からのメッセージを心の中で何度も復唱しながら、何か手掛かりがないかと考え始める。
――返信がちょっとだけ遅れてたってことは、何かしら事情があったってことだよね。それにわざわざ家に帰ったってことは、それなりの理由があるはず。ということは、家で何かをしてるってこと……?
そこまで思考が至ったとき、脳裏にあの光景が蘇った。途端、私の中でとある一つの答えが導き出される。――同時に、私の中に気持ち悪いものが根付きだす。
――先週見たあの女の子……もしかして、あの女の子が家にいる? それであの子に呼び出されたから、急いで家に帰った……辻褄としては、合う気がする。
そうだとしたら、恐らく答えは一つだ。
今あの彼女は、彼の家に泊まっているのではないか? 遊びに来ているのだとしたら、わざわざ家へ帰る必要はない。家に泊まっていて、何らかの問題が発生したから、先輩のことを家へ呼び出した。――そして彼は、あの子と私を会わせたくないからこそ、こうして私のことを拒否している。これなら全部、当てはまるんじゃないか?
――……行きたい。
ポツリ、そんな衝動に駆られる。普段ならそんなこと、絶対に思わないはずなのに。何故かこの瞬間は、どうしても村木先輩に会いに行きたいと思ってしまった。
――別にさ、あの女の子がいたっていいじゃん。どうせ私はただ、友達にプリントを届けに行くだけ。ただ、それだけなんだから。……それならこの気持ちとも、サヨナラできるよね?
行ったところで、自業自得になるのはとうに分かっている。それで自分が、傷つくことは目に見えている。
だが今は、今だけは、彼に会わないといけないような気がした。
「別にそんなこと、気にしないでください。私が先輩に家に行きたいんです。今から行きますね」
少し遅れて、彼へちょっと強引な返信を飛ばす。そのまま私は彼の返事を見ずに、バス停へと向かい始めた。
――いいの、これで。これでいいんだ。もう、どうなったっていい。……この気持ちが、収まるのなら。
私は一体、どうしてしまったんだろう。どうしてこんな気持ちを、抱いてしまっているのだろう。私は私の考えていることが、全く以て分からなくなってしまっていた。――もしかすると、今動いている私はもう、“村木先輩と友達の私”では、なくなってしまっているのかもしれない。
そんな折。何かがそっと、私の頭の上に優しく落ちてきた。何事だろうと手に取ってみると、それはどこかの木から枯れ落ちてきた、一枚のモミジの葉っぱだった。




