12.はじめての
幸せになれ。
それは亮司が涼音にした初めての命令だ。
「はい」
眼に涙をいっぱい浮かべたまま涼音は返事をした。
まだ否定したいのだろう。でも、どうしようもない。だったら、主人としての権限を有効活用させて貰おうと思ったのだ。
「ねぇ涼音」
出来る限り優しい声で語り掛ける。
「はい」
「涼音が辛いのは良く分かった。でも涼音が幸せになっちゃいけないってのは違うと思う。色々と思う事もあると思うし、まだ整理がつかない事もあるだろう。でもそれを理由に涼音が自ら不幸になるのは許さない。涼音は俺の奴隷で、奴隷の生き方を決めるのは主人だ。だからもし怨まれるとしたら俺だ。最低なのは俺だ。涼音は俺に命令されて幸せになるんだから。いいね?」
涼音が目を見開いた。
「それは違います。ご主人様は最低じゃありません」
「違わないさ。涼音が先輩に負い目を感じるのならその責任は俺にあるんだから」
「でも……」
「大丈夫。きっと先輩は怨んでない」
「分からないじゃないですか」
「そうだね。分からないんだ。だったら怨んでないかもしれないだろ?」
「そうですけど……」
「とにかく、涼音は幸せになりなさい。これは命令だよ。いいね?」
最後に言い聞かせるように、少しだけ声を強めた。
「――はい」
返事とは裏腹に涼音の表情はしぶしぶといった具合だ。
今日の事を忘れる事は難しいだろう。これからきっと何度も思い出す事になるのだろう。同じ事を何度も何度も考えてしまうのだろう。
でも、それでいい。それを抱えた上で、涼音は幸せならなければいけない。
涼音にとっての幸せは何だろうか?
亮司にはわからない。
それでも、これまでの接し方は間違ってはいないはずだ。まだ出会ってからたったの三か月。
これから少しずつ知っていけば良いのだ。
「涼音」
「はい」
「俺は涼音を大切にするから」
「はい」
「あんな酷い扱いは絶対しないって約束する」
「はい」
「だから安心して欲しい」
「はい」
「もう一度言うよ。涼音は絶対に幸せになるんだ。いいね?」
今度は命令じゃない。涼音にお願いをした。
「はい」
涼音はしっかりと頷いてくれた。涙でぐちゃぐちゃの顔を見ながら頭を撫でる。泣き腫らした眼は腫れぼったく、鼻先は赤くなっている。どう見ても酷い状態のはずなのに、不思議と美しく見えた。それはまるで一枚の絵画のように亮司の心にしっかりと刻まれた。
涼音がおずおずと亮司に話しかける。
「あの」
「ん?」
「ありがとうございます」
「うん」
「本当はずっと怖かったんです」
「怖かった?」
「はい。ご主人様に良くして貰えてすごく嬉しいです。ですが、それがいつか終わってしまうんじゃないかって、ずっと不安だったんです。それで今日あんな姿の先輩を見たら自分もああなるかもしれないって思って……」
「そっか」
「はい」
下を向いてしまった涼音の頭を撫でる。
「ごめん」
亮司の言葉に涼音は顔を上げた
「え?」
「不安にさせてごめん。さっきも言ったけどずっと大切にする。絶対に手放したりしないって約束する。だから……」
だから何だ。亮司は涼音の眼を見て区切った言葉の先をもう一度考える。そして言葉にした。
「俺を信じてずっと傍にいて欲しい」
「それって……」
まるでプロポーズのようだ。
二人の間に沈黙が訪れる。三か月共に過ごしながらも雇い主と使用人という関係がメインだった。二、三度デートの真似事をしたが、せいぜい手を繋いだ程度だ。こんな急展開はどう考えても勇み足に過ぎる。
しかし今更口に出してしまった言葉をなかった事にはできない。
「嫌かな?」
気まずそうに聞く亮司に涼音はすぐに首を振った。
「嬉しいです。でも」
「でも?」
「いえ、何でもありません。ずっと傍にいさせてください」
本当に良いのだろうか?口からこぼれかけた言葉を飲み込む。亮司の返事がわかってしまったから。
互いに見つめ合う二人。
話が終わって落ち着いた所で現状を理解する。
しっかりと抱きしめ合ったままだ。
これまでは必要以上の接近を避けてきたのだ。にも拘らずこんなにも急に接近してしまった。
抱きしめた腕を解く事も、そこから先に進む事も出来ない。ただ時間だけが流れる。
そして。
ぐぅー。と間抜けな音が響いた。近すぎてどちらの腹がなったのかさえ分からなかった。
「ぷっ」
互いに噴出して大いに笑った。
笑うのに疲れて一息ついた時、どちらからともなくコツンとおでこを合わせた。
そして互いに引き寄せられるように、ゆっくりと唇が触れた。
二人にとっての初めてのキスだ。
ゆっくりと離れる唇。名残惜しそうに互いに唇を見た後で見つめ合う二人。
二度目のキスは少し長めに触れ合った。
バクバクと五月蠅い程に心臓の音が聞こえる。その音は自分の音だろうか。それとも……。まるで一つになってしまったような錯覚に陥りつつも互いに見つめ合う。
三度目のキスは更に長かった。そして少しだけ深い。
唇を離した瞬間、何とも言えない切なさに襲われる。こんなにも近いのに、望めばもう一度出来るのに。相手から離れる瞬間は酷く切ない。
四度目のキスは亮司が涼音のおでこにした。
その後に互いに照れた笑いを浮かべ、まるで示し合わせたかのように、互いにコツンとおでこを合わせたのだった。
亮司はくしゃくしゃっと涼音の頭を乱暴に撫でまわした。
「いきなり何するんですか」
乱れてしまった黒髪を直しながら、涼音がわざと頬を膨らませる。そして。
「ぶっ」
予想以上に間抜けな音が出た。
亮司が涼音の膨らんだ頬を押しつぶしたのだ。
「やめてくだしゃい」
「しょうがないな」
言うと同時に立ち上がった亮司はさっさとキッチンへと向かった。
涼音から離れても亮司の胸の鼓動は早いままで、気を抜けば亮司の頬はだらしなく緩んでしまうだろう。
亮司は気を引き締めると、作りかけの料理の仕上げを開始するのだった。
亮司がキッチンに立つと涼音が慌ててやってきた。
「私がやります」
「今日は俺がやるよ」
「いえ、私が」
「いいから。いいから」
涼音を強引にキッチンから追い出して、手早く仕上げを行った。
出来た雑炊を涼音に食べさせれば美味しいと言って喜んで食べてくれた。
亮司に対して嘘を付けないのだから、本当なのだろう。涼音の為に作った初めての料理だ。
料理と言えるかは微妙な所だが、喜んで貰えたなら何よりだ。
涼音の食べている姿を眺めながら亮司は考える。
どうしたら涼音を幸せにしてあげられるのだろうかと。




