―5―
地下を出たレリアは、魔王と共に空を飛んで塔に向かっていた。
空から見下ろすヴェリリエールは高い市壁に囲われている。
魔王が言うには他国と地続きであるルーヴェリアの都市は、防衛のためにヴェリリエールのそれと同じように壁に囲まれている所が多いのだそうだ。
壁の中では多くの建物が窮屈そうに犇めき合い、ほとんど消えることのない影を細い路地に落としている。
町並みを作る建物は煉瓦や石造りの瀟洒で美しいそれが多く、一つ一つは芸術品めいているが、全てがまとまるとひどく混沌としてしまっていた。
そんなヴェリリエールの上を、レリアは鳥に混じって飛んでいく。
幽霊と大差ないレリアはともかく、魔王が町中を飛んでは大騒ぎになるところだが、大抵の者には魔王が見えない。
魔王には肉体がないのだ。
死人という訳ではなく、生まれつき肉体を持っていないらしい。
だがその気になればライオンに化けた時のように物に触れることもでき、物質と非物質を自在に使い分けている。
魔王のようになることが、レリアの今の目標だった。
レリアがいつものように空から城の敷地に入ると、妙に辺りが騒がしい。
あちこちで人々が慌しく行き交い、低く囁き合っていた。
何かおかしい。
レリアはすぐさま城に入って様子を見ようとしたが、壁の前で一度止まった。
城の中には魔法使いもいるのだから、念のため自分の存在を更に薄めた方がいいだろう。
レリアがいつもより淡い姿で城の壁をくぐると、中も外と同じような有様だった。
今朝城を出た時にはいつも通りだったのに、出掛けている間に何かあったらしい。
静けさを保ったままなのは存在を半ば忘れ去られたような塔くらいで、城全体がひどく落ち着かない雰囲気だった。
廊下に浮かんだレリアは、背中を屈めるようにして歩いていく下女達を見ながら、半ば独り言のように言う。
「……何かあったのかな?」
「あったと言えばあったな」
魔王は訳知り顔でそう言った。
過去を見ることができる魔王にとって、城の騒ぎの原因を知ることなど造作もないのだろう。
「其方の父が死んだぞ」
そう魔王に告げられても、レリアは少しも悲しくはなかった。
突然のことで、かなり驚きはしたけれども。
「ねえ、父様ってどうして死んじゃったの?」
「其方の姉が殺したのだ。公式には病死したということになっているようだがな」
「姉様が?」
レリアはきょとんとした。
ジュヌヴィエも会いに来てくれたことはないが、心だけの状態でジュヌヴィエの部屋に忍び込んだことがあるので、顔くらいは知っている。
触れても少しも温かくなさそうな人だった。
実の父親を平気で殺す程怖い人には見えなかったけれども。
「本当に姉様が殺したの? どうして姉様が父様を殺さなきゃならなかったの?」
「単純に邪魔だったのだろうな。権力を握る上でも、国を存続させる上でも、其方の姉にとって父親は障害でしかない。其方の父には、最早国を治める力はなかったからな。無能な王をいつまでも玉座に座らせておいては、国が滅びかねないだろう」
「そう……」
殺されかけただけであれだけ苦しかったのだから、本当に殺されてしまったデュドネはさぞ苦しかった違いない。
そのことを気の毒には思ったが、やはり悲しいとは思えなかった。
結局デュドネとは碌に顔を合わせたことはなかったのだから、このままもう二度と会えなくなってもどうということはない。
ジェスと会えなくなるのはとても寂しいけれども。
「ねえ、魔王は死ぬってことがどういうことかわかる?」
「人間の基準に照らして言えば、瞳孔の収縮及び、呼吸と脈拍がない状態だろう。今の其方の父のようにな」
「何だか辞書みたいだね」
レリアは空気を揺らすことのない笑みを漏らした。
無味乾燥な言葉の羅列。
定義としては正しいのだろうが、求めていた答えとはまるで違っていて、レリアは少し訊き方を変えてみることにした。
「いくら魔王でも、死んだことはないよね?」
「愚問だな。死は長く存在していれば経験できるというものではない。むしろ長く存在しているからこそ体験できない事象だろう」
「じゃあ、やっぱり魔王でも本当のところはわからないんだね」
「そうだな。だが我なりの答えはある。生きることを知れば、自ずと何らかの答えは出るものだ。だからこそ人間の間には様々な宗教が存在するのだろう」
レリアは首を捻った。
「私は今までだってずっと生きてたよ?」
「いつかわかる時が来るだろう。其方はまだ幼い」
「そうなのかなあ?」
レリアはますます首を捻った。
いつかというのはいつだろう。
自分が死ぬ時だろうか。
それとも近しい人間が死んだ時だろうか。
丁度死んだばかりの父親がいるのだから、顔を見に行ってみれば何かわかるかも知れなかった。
最後にもう一度くらい顔を見ておくのも悪くはないだろう。
「あのさ、魔王なら父様がどこにいるかわかるよね? 案内してくれる?」
「こちらだ」
魔王は黒衣の長い裾を引きながら、廊下を飛び始めた。
人が体をすり抜けても全く意に介さない魔王と違って、レリアは侍女や衛兵にぶつからないように人の頭より高い所を飛んでいく。
物ならまだしも人となると、すり抜ける上での精神的抵抗はかなりのものだ。
避けられるものならできるだけ避けて通りたい。
レリアが魔王の背中を追って飛んでいると、やがて魔王は一枚のドアの中に消えた。
四方に百合の紋章が配された、美しいドア。
ここは確かデュドネの部屋だったなと記憶を辿りながら、レリアも魔王に倣ってドアをすり抜ける。
そこはやはりデュドネの部屋で、レリアは天蓋付きの大きなベッドの中で覚めない眠りに落ちた父親を見付けた。
風化した脆い岩のように皺だらけのその顔からは、すっかり血の気が失われている。
眉間には深い皺が刻まれていて、口元には血が伝った跡があった。
レリアはそっと父親の頬に触れてみたが、肉のない手では温かいか冷たいかもわからない。
この体がもう二度と動かないことを悲しいとは思えなくても、怖いとは思った。
気持ち悪いとも思う。
生きている姿を見た時には少しもそんな風には思わなかったのに。
いつか自分がこうなったらと思うと、本当にぞっとした。
ただ横たわるだけの抜け殻になどなりたくない。
だからこそ生きるのだろうか。
自分も。
そしてジェスも。
レリアはそっとデュドネの亡骸から手を離すと、魔王に言った。
「ジェスに会いに行こう」
「先程戻ってきたばかりだが、また行くつもりなのか?」
「だって、急に会いたくなっちゃったんだもん」
レリアは壁をすり抜けて城の外へ出た。
そのまま魔王を待たずに、逸る心に任せて空を行く。
生きているジェスを早く確かめたかった。
危険な仕事をしているジェスが、今正に危機に陥っていないとも限らない。
ジェスがデュドネのようになってしまわないように、これからもずっとジェスが生きていられるように、自分にできる全てでジェスを守ろう。
レリアは体をすり抜ける風よりも早く、空を駆けた。
ジェスが小屋に戻ると、オルガとリディは何をするでもなく、鍋の炎に当たっているところだった。
何故か幽霊もちゃっかり炎を囲んでいる。
ジェスはいつもより一層腰を屈めると、痛む足を引き摺って中に入った。
カンテラを置いて幽霊の隣に腰を下ろしたところで、ぼそりと言う。
「……ただいま」
「お帰り。何か掴めたの?」
リディの問いかけにジェスが黙って頭を振ると、リディが馬鹿にし切った口調で言った。
「やっぱりね。だから無理だって言ったのに」
「俺のせいじゃねえよ! いきなりライオンに襲われるわ、足は捻るわ、俺にどうしろっつーんだ!? ああ!?」
「お前、詐欺師にはなれそうにないね。吐くならもうちょっとマシな嘘吐けば? ライオンはないでしょ、ライオンは」
「本当なんだよ! 『大杯と葡萄』にいた奴に聞いてみりゃわかるって!」
「あーはいはい。そうねー。その内ねー」
リディがいかにも適当な口調でそう言うと、ジェスは床を拳で強く叩いた。
その拍子にささくれが指に刺さる。
ジェスが痛みごとささくれを振り払うように激しく手を振っていると、オルガがゆっくりと唇を動かした。
「……警察の動向は探っておいた。しばらくは獲物の身辺警護を続けて、巡回を強化するつもりのようだが、相変わらず地下まで捜査の手を伸ばす気はなさそうだ。しばらくは大人しくして、次の機会を待とう」
ジェスは爪が食い込む程きつく手を握り締めると、低く抑えた声で言う。
「……何でだよ。俺がやるって言っただろ?」
「……念のためだ。お前を信用していなかった訳じゃない」
「だからって、そんなのあんまりじゃねえか!」
ジェスは壊しそうな勢いでドアを開け放つと、小屋を飛び出した。
足の痛みを堪えて舟に乗り、力に任せてがむしゃらに水を掻く。
櫂は水面を叩きはしても、上手く水を押しやることができず、なかなか前に進めなかった。
冷たい水が手にぶつかるように跳ねて、ささくれが作った傷に染みる。
痺れにも似た痛みが指から手へと広がった。
それでもジェスは収まらない怒りをぶつけるように櫂を水面に叩き付け、あちこちの壁にぶつかってひっくり返りそうになりながらも舟を進めていく。
そしてとうとう腕が疲れると、ジェスは感覚の鈍くなった腕をゆっくり動かして櫂を置いた。
大きな溜め息を吐いて暗い天井を見上げる。
辺りの闇は目を開けているのか閉じているのかすらわからなくなりそうな程深く、何も見えない。
ジェスは遅蒔きながらカンテラを持たずに出て来てしまったことに気付いたものの、今更どうしようもなかった。
これではもう帰れないかも知れない。
だが、それでもいいと思った。
オルガもリディも自分を待ってなどいないだろう。
自分などいなくても困らない。
むしろいない方がいいに違いなかった。
これからどこへ行けばいいのだろう。
行く当てもない。
方向すらもわからない。
どこへも行ける訳がなかった。
聞こえるのは幽霊の唸りにも似た声だけで、それ以外は何の音もしない。
もう子供ではないとはいえ、こう暗い所に一人だと流石に心細かった。
ジェスは膝を抱えると、そっと目を閉じる。
今日はいろいろあって疲れてしまった。
少し休んでからこれからのことを考えたいが、寒くてなかなか寝付けない。
それでも何とか体を休めようと目を閉じ続けていると、しばらくして聞き覚えのある声が降ってきた。
「あれー? どうしてこんな所で寝てるの? 風邪引くよー」
レリアの声を聞いて、ジェスは癪ながらほんの少しほっとした。
顔を上げると、暗闇の中に浮かぶレリアと魔王が目に入る。
こんな連中でもいないよりはマシだった。
「……お前ら、帰った筈だろ? 何でこんな所にいるんだよ?」
「ジェスこそ家に帰ったんじゃないの? どうしてこんな所にいるの?」
「うっせえな、迷ってんだよ。カンテラ忘れてきたから」
「それは迂闊だったな。地下に住まう者が明かりを忘れたなどという理由で道を失った挙句に餓死でもしようものなら、笑い話にもならぬだろう」
「餓死する前に多分誰か通るからいいんだよ。現にちゃんとあんたらみてえな暇人が通りかかったじゃねえか」
レリアはくすっと笑った。
「ちょっと元気ないかなって思ってたんだけど、元気になったね」
「別にいつもと一緒だぞ」
「そう?」
「そうなんだよ」
ぶっきら棒に応じながら、ジェスは自分がもう落ち込んでいないことに気が付いた。
この二人といると、とにかく腹が立つ。
何か言われる度にいちいち一言言ってやりたくなる。
そうしている内に、落ちていた気持ちがいつの間にか元に戻っているのだ。
こんな迷惑な連中でも少しは人の役に立つらしかった。
礼の一つくらい言ってやってもいいかも知れないと思いつつもなかなか言えずにいると、レリアが言う。
「行こう。案内してあげるよ。小屋まで戻ればいいんだよね?」
「まあ、な」
ジェスは歯切れ悪くそう言った。
飛び出してきた手前帰り辛いが、他に行く所がない以上、とりあえず帰るしかない。
「でも、こんなに暗いのに見えるのか?」
「見えるよ。私も魔王も目で物を見てる訳じゃないから」
ジェスは驚いたが、すぐに合点が行った。
考えてみれば、体がない以上目などある筈がない。
目どころか耳も口もないのに、どうやって見たり聞いたり話したりしているのだろう。
幽霊というのは謎だらけだ。
「でも見えるだけじゃ意味ねえだろ。肝心の道がわかんねえんだからよ」
「私はわからないけど、魔王ならわかると思うよ。ね、魔王?」
「ああ」
魔王が事もなげにそう答えると、レリアは可愛らしく首を傾げて魔王に言った。
「案内してあげてくれない? その方が、ジェスも早く帰れるし」
「いいだろう」
魔王が長衣の裾を翻すと、レリアも泳ぐ魚めいた軽やかさでジェスを先導し始めた。
ジェスは手早く舟を方向転換させると、二人を追って舟を進めていく。
闇を行く二人の速さは無理なく付いて行くことができる程度で、ジェスはゆったりと櫂を動かした。
やがて、行く手に小さな明かりがぽつんと浮かぶ。
次第に近付いてきているようだ。
「良かったね。お迎えが来たみたいだよ」
振り返ったレリアにそう言われても、辺りが暗いせいでジェスには誰が舟に乗っているのかわからない。
レリアが『お迎え』と言ったからにはオルガかリディか、あるいは二人共が乗っているらしいということは見当が付いたが。
程なくしてカンテラの光の中に入ると、舟に乗っていたのはオルガだった。
ジェスの手が止まる。
オルガは何をしに来たのだろう。
探しに来てくれたとは限らないし、このまま通り過ぎてしまうのかも知れなかった。
ジェスが少し緊張しながらオルガを見つめていると、オルガはジェスの目の前で舟を止める。
「……帰るぞ」
当然のようにそう言われ、ジェスは一瞬息を止めてから黙って頷いた。
これからも役には立てないかも知れない。
だが、そんな自分をオルガはわざわざ探しに来てくれたのだ。
帰らない手はないだろう。
オルガが舟を反転させると、ジェスはオルガの背中を追いかけて再び舟を漕ぎ始めた。
レリアがジェスを見下ろしてにこりと笑う。
「これなら大丈夫だね。じゃあ、もう行くよ」
魔王と共に暗闇の中へ消えていこうとしたレリアを、ジェスは水音に紛れるくらいの小声で呼び止めた。
「……おい」
「なあに?」
「あ」
「あ?」
「ありがとな……」
ジェスはほとんど囁くような声でそう言った。
聞き逃してくれればいいと思ったが、レリアにはちゃんと聞こえていたようだ。
これ以上はないと言うくらい幸せそうな笑みが満面に広がる。
「嬉しいなあ。お礼言われたの、私初めてだよ。じゃあ、またね」
レリアは軽く片手を上げると、魔王と共に今度こそ闇へ消えて行った。
ジェスは敢えてレリアを見送ろうとはせず、黙々と舟を漕ぐ。
本当に恥ずかしい奴だ。
こっちの方が恥ずかしくなってくる。
ジェスはつい緩みそうになった唇をきつく引き結んだ。




