―23―
レリアは魔王と共に、ジェスがいる家の地下に浮かんでいた。
こうしている間にも記憶は少しずつ増え続けていて、今ではかなり生前に近い姿を保つことができるようになっている。
多少魔法を使った程度で動けなくなることはなさそうだった。
辺りは墓場のような静けさと新月の夜に似た濃い闇に支配されていて、明かりと言えば時折下を通る者が手にしているカンテラの明かりくらいだが、それでもレリアには魔王がはっきりと見える。
もう目はなくとも、目がないからこそ見えていた。
魔王は更に遠くまでよく見えるので、ジェスがジュヌヴィエを殺そうとしないか、ずっと見張ってもらっている。
その側で、レリアは物に触る練習をしながらいざという時に備えていた。
体を失ってしまったのは残念だったが、睡眠をとる必要がなくなったのは有難い。
おかげでずっとジェスを監視していられた。
「ねえ、ジェスどうしてる?」
「其方のその問いかけは、今日既に百を越えているぞ」
虚空に腰掛けた魔王は本のページを繰りながら、些かあきれた口調でそう言った。
付き合わせて悪いとは思うが、今は魔王に頼るしかない。
自分には地上の様子を見ることはできないのだ。
練習さえすればできるようになると魔王は言うけれども。
心のみの存在となった自分には、もう目も耳もない。
それでも見えて聞こえるのは、生きている時と同じように見えて聞こえるのが当然だと思っているからこそなのだそうだ。
後は知覚範囲をどう広げるかの問題で、魔王などは世界の裏側で起こっている事象すら知覚できるという。
魔王並みに知覚範囲を広げることは無理でも、地下から地上の様子を知覚する程度のことは十分可能だそうだが、簡単にはできそうになかった。
何しろこれまでの感覚とはあまりに違い過ぎる。
天井の向こうにあるものが見え、聞こえない筈のものが聞こえるというのはどんな感じなのだろう。
何度試しても地上のものは全く見えないし、聞こえなかった。
魔王は見えないと思うから見えず、聞こえないと思うから聞こえないのだと言うし、事実その通りなのだろうが、できないものはできない。
「とにかく、ジェスは今どうしてるか教えて?」
「特に動きはないぞ。魔法の練習をしているだけだ」
「そう、良かった」
レリアはほっと息を吐くようにして、それから少し苦笑した。
もう体がないとわかっていても、つい生きている時と同じように振る舞ってしまう。
この調子では魔王のように見えるようになるまでには相当時間がかかりそうだった。
自分が物に触れるようになったら魔王は在るべき場所に帰ってしまうので、当面物に触る練習は手を抜いた方がいいだろう。
ジェスを止める上で役立つかも知れないことを思えば、程々にはやっておかなければならないが。
「もしまたジェスがどこかへ行ったら、すぐに教えてね」
「その言葉も流石に聞き飽きたな」
魔王は本に目を落としたままそう言った。
※
ヴェリリエールが半分消失してから半月余り。
ジェスは今日も半分だけ残った家で、魔法の練習をすることにした。
誰かが盗んでいくらしく、家具は日ごとに減って行って、今では家具の大半が無くなっている。
最早椅子すら残っていない。
ジェスは埃っぽい床に腰を下ろして大きく深呼吸すると、嫌でも目と耳に入る幽霊の存在を無視して幻を創り始めた。
「……白い石……丸い石……固くて、すべすべしてる石……手の平に収まるくらい……」
程無くして、思い通りの白い幻が手の平の中に生まれた。だがやはりすぐに消えてしまう。
消えるまでの時間は少しずつ長くなってきた気がするが、まだまだ短かった。
この場にレリアがいたら、的確な助言の一つもしてもらえたのだろうか。
ついそんなことを考えて、ジェスはすぐにその考えを頭から振り払った。
自分から別れを切り出したのだから、いつまでもこんなことではいけない。
ジェスが気持ちを切り替えて再び幻を創り始めると、魔王が何の前触れもなく現出してきた。
突然の登場にジェスが言葉もなく魔王を見上げていると、魔王が言う。
「久しいな」
「あ、うん。あんたも元気そうだな」
我に返ったジェスは魔王から目を逸らし、躊躇いがちに尋ねた。
「……なあ、あいつどうしてる? 元気か?」
「ああ。記憶の量が増えて、其方が最後に会った時より姿も安定している」
ジェスはそっと安堵の溜め息を吐いた。
もしかしたら今でも消えそうな姿でぐったりしているのではないかと思っていたが、元気になったのならそれでいい。
「ところで、あんた何しに来たんだ?」
「王女に頼まれたのだ。其方が王女の姉を殺さぬよう、説得して欲しいとな。それと、王女から伝言だ」
そう言った途端、魔王の服が闇に溶け、広がって魔王を飲み込む。
警戒したジェスが素早く立ち上がって距離を取る前で、魔王の体は瞬く間に形を変え、闇の中に色が広がり始めた。
闇が体に馴染んで消えると、そこにいたのはレリアだ。
呆気に取られるジェスの前で、レリアの姿をした魔王がレリアそっくりの無邪気な顔と声で言う。
「私がジェスに会ってる訳じゃないし、こういうのは別にいいんだよね?」
魔王は一瞬で元の姿に戻ると、何事もなかったかのように続けた。
「だそうだ」
「……どうでもいいけど、何で一々顔とか声とか変えるんだよ?」
「只の茶目っ気だ」
至って真顔でそう言われ、ジェスは脱力して床の上にひっくり返った。
ふざけているのか本気なのかわからない。
そもそも理解したくもないが。
ジェスが寝転がったまま天井を見上げていると、魔王は優雅に空中に腰掛けて言った。
「つい先程思い付いたようだぞ。己が会うことが叶わぬのなら、我を行かせればいいのだとな」
「あんた、実は結構お人好しだな」
「そうでもないと思うがな。我としては、其方がこのまま王女の姉に復讐した方が面白い」
「じゃあ、何で引き受けたりしたんだよ?」
「引き受けなければ王女がうるさいのだ。とりあえず我が其方を説得しさえすれば、結果が伴わなくとも王女は満足するだろう」
「かもな」
自分が魔王だったら、やはり同じことをするかも知れないとジェスは思う。
レリアは子供なので、とりあえず説得に行きさえすれば、説得に失敗したとしても割合すんなり納得しそうだった。
多分文句は言うだろうが。
「一応の義理として言うが、復讐などやめたらどうだ?」
「……変なところで律儀だな、あんたも。とにかく俺は説得される気なんてねえから」
ジェスはすげなくそう突っぱねたが、内心ではどうすべきかまだ迷っていた。
レリアの仇を取りたい気持ちも、レリアを傷付けたくない気持ちも同じくらい強くて、どうすればいいのかわからない。
だがそんなことを馬鹿正直に魔王に打ち明ける気にはなれなかった。
弱味を見せるのは癪だ。
だが魔王には全てお見通しのようで、その美しい唇に笑みを乗せて言った。
「心を伴わない言葉は弱く響くものだぞ」
「そうかよ。あんたの耳が悪いんだろ」
「我は耳ではなく、心で全てを知覚している」
魔王は立ち上がった。
「我はこれで帰るとしよう。これで王女も納得するだろうからな」
ジェスは魔王がそのまますぐに帰るものと思ったが、魔王は何か思い出したような顔になって続けた。
「そう言えば、王女の姉が近々戴冠式を行うようだぞ。加えて軍備も整え始めている」
ジェスは勢いよく起き上がった。
「議会は? まだ何にもしてねえのか?」
「情報は入っているが、まだ今後の対応についての結論は出ていない。ちなみに今も議会の最中だ」
ジェスは軽く唇を噛んだ。
まだどうすべきかわからないままだが、議会の結論次第ではレリアの仇を取る機会さえ失われてしまうかも知れない。
選択をするその時まで、できれば選択肢は減らしたくなかった。
議会には何としてもジュヌヴィエと戦ってもらわなければならない。
ジェスは決然と立ち上がると、駆け出した。
議場の消失に伴い、代わりに設けられた議場は市庁舎にあった。
警察署や裁判所の近く、ヴェリリエール城からさして遠くない場所にあるそれは、城と呼んでも違和感のなさそうな、大きく荘重な建物だ。
中央の尖塔の上で、国旗と市旗が並んで翻っている。
その市庁舎に、ジェスは息を弾ませたまま足を踏み入れた。
市庁舎の一部も避難所として開放されているため、建物に入ること自体は簡単だったが、肝心の議場がどこにあるのかわからない。
近くにいた人間を捕まえて議場の場所を訊くと、ジェスは階段を駆け上がった。
教えられた通りに廊下を進むと、両開きのドアを挟んで警官が立つ部屋がある。
ここだ。
ジェスが息が整うのを待って中に入ろうとすると、案の定警官に止められた。
「ここは駄目だ。今は議会の議場として使われている」
「その議会の連中に話があるんだ。すぐに終わるから入れてくれ」
「駄目だと言っているだろう。どんな話か知らんが、こっちも仕事なんだ。さっさと帰れ」
「長い話じゃない! 一言だけでもいいんだ!」
「いい加減にしろ! 今すぐ帰らんと、こちらも手荒な真似をせざるを得なくなるぞ!」
警官が銃剣を構えて威嚇したが、ジェスは全く怯まなかった。
いっそこの二人を叩きのめして中に入ろうかという剣呑な考えが頭を過った時、開いたドアからセルジュがひょっこり顔を出す。
「何事ですか?」
「申し訳ありません。この少年が話したいことがあるとのことで……」
セルジュはジェスに目を留めると、「あ」と唇を動かした。
その様子を見て、ジェスはセルジュとどこかで会っていたらしいことに気付いたが、しかし全く思い出せない。
ジェスが記憶をまさぐりながらセルジュの顔を見つめていると、セルジュは廊下に出て来てジェスに手を差し出した。
「こんにちは、セルジュ・レオンス・ジェルヴェーズです」
「ジェスだ」
ジェスが戸惑いながらも差し出された手を握ると、セルジュはにこやかに言った。
「またお会いしましたね」
「どこかで会ったか?」
「会ったと言うより、見掛けたと言った方が語弊がないでしょうね。一度すれ違っただけです。覚えていなくても仕方がありません。私は見ての通り、ぱっとしない風貌ですしね」
セルジュは小さく肩を揺らして笑うと、にこやかに続けた。
「何か私達に話したいことがあるそうですね。どうぞお入り下さい」
「よろしいので?」
警官の問いかけに、セルジュは浅く頷いた。
「構いませんよ。この方の働きに対するささやかなお礼です。どうぞ」
ジェスにはセルジュの言葉の意味がよくわからなかったが、黙ってセルジュに従うことにした。
中に入れるなら、それでいい。
ジェスが図書室に足を踏み入れると、天井の明かり取りの窓から項垂れた太陽が放つ赤い光が細く差し込んでいた。
壁一面に並んだ書架。
木目が美しい床の上には、長方形の大きなテーブルと三十余りの革張りの椅子が置かれていた。
その椅子に腰掛けた議員達が一斉にジェスを見てくる。
セルジュに棘のある視線を向けるものもいたが、セルジュは一向に気にしていない様子で言った。
「皆さん、突然ですがしばし休憩して、この少年の話を聞いてあげて下さい」
「勝手なことを……」
議員の一人はセルジュから議長に視線を流すと、耳を貫くような鋭い声を上げた。
「議長! これは議会の妨害です! ジェルヴェーズ議員と少年の退出を願います!」
「まあまあ、ほんの少しの間ですよ。一市民がわざわざ意見を述べようとやってきたのですから、議員として耳を傾けるくらいの手間を惜しむべきではないでしょう」
議長はセルジュと議員の顔を交互に見てから、少しの間を置いて言った。
「……いいだろう。審議の一時中断を許可しよう。但し、用件は手短に」
「ありがとうございます」
セルジュは丁寧に感謝の言葉を述べると、ジェスをテーブルの前に連れて来て言った。
「さあ、どうぞ」
「恩に着る」
「偉そうに着せられる程の恩ではありませんよ」
セルジュが淡い微笑みを残して着席すると、ジェスは静かに切り出した。
「俺はジェスだ。あんたらにどうしても言いたいことがあってきた」
ジェスは一度大きく深呼吸をして続ける。
「ジュヌヴィエ王女と戦ってくれ! あいつは俺の友達を殺したんだ! あいつは女王になんか相応しくない! だから戦ってくれ!」
本当はこんなことをしなくても、議会はジュヌヴィエとの戦いを選択するのかも知れない。
反対にジュヌヴィエとの協調路線を取ろうとする者が大勢を占めているのであれば、こんなことをしても何も変わらないだろう。
だからと言って何もしないのは嫌だ。
あきらめて、何もしない自分は嫌なのだ。
財力や権力がある訳でもない自分にはこれくらいしかできないが、何もしないよりはずっといい。
「頼む!」
ジェスが頭の芯が痛くなる程の大声でそう言うと、辺りは水面に波紋が広がる音すら聞こえそうな程静まり返った。
その沈黙を議長の声が静かに破る。
「話はそれだけかね?」
ジェスは黙って頷くと、ドアの方へと歩き始めた。
ドアを開け放って廊下に出る前に、一度だけテーブルを振り返って言う。
「聞いてくれて、感謝する」
出て行くジェスを見送ると、セルジュは議長に申し出た。
「議長。一旦審議を中断したことですし、少々休憩を頂きたいのですが」
「良かろう。では、只今より二十分休憩に入る」
議長に続いて他の議員達も次々に席を立つ中、セルジュは近くに座っていたアレスティッド・ヴェゼルに歩み寄った。
アレスティッドはディクリーズ・クラブの穏健派で、その中心人物の一人だ。
他の穏健派の有力者は行方不明となっており、今はこの男が穏健派をまとめている。
「少しお時間よろしいでしょうか?」
「構わんよ。私もあなたと話したいと思っていた」
アレスティッドは何かを覚悟したような面持ちでそう言った。
セルジュはアレスティッドの先に立ち、警官達の前を素通りして階段の方へ進む。
そうして人気のない階段の前で立ち止まって振り返ると、アレスティッドの目を真っ直ぐに見て言った。
「単刀直入に言います。法案の賛成に回るよう、穏健派の皆さんを説得して下さい」
セルジュは急進派の同志と共に王権の停止や軍の招集についての法案を提出し――本来法案の提出にはそれなりの人数が必要なのだが、非常事態なので特例が認められた――審議を始めたのだが、法案を可決するには難しい状況が続いていた。
ヴェリリエールの消失に伴い、国王派はその数を大幅に減らして、現在議会の中では改革派であるディクリーズ・クラブの面々が過半数を占めている。
しかしディクリーズ・クラブの多数派は穏健派だ。
その穏健派が強硬に法案への反対を続けているのだった。
ヴェリリエールの消失に伴ってその数を減らしてはいるが、それでも十人はいる。
対する急進派の方はセルジュの他には一人しかいなかった。
法案を通過させるには、穏健派を味方に付けるしかない。
セルジュは続けた。
「あなたは先日おっしゃいましたね。王家が人民に銃を向けることには反対だと。それが現実のものになろうとしているのですから、最早決断を躊躇うべきではないでしょう。先程の彼の頼みでもありますしね」
ジュヌヴィエに友人を殺されたというジェスの言葉が真実かどうかはわからないが、たった一人で直談判にやってきたあの必死さは嘘とは思えなかった。
少なくともジェスにはジュヌヴィエと戦わなければならない理由があるのだろう。
命を燃やすようなあの激しさ。
どれ程高い理想を掲げても、あの激しさはきっと自分には持てない。
源となるのは若さやそれ故の愚かさであって、それは自分にはもうないものだ。
だが、それでもまだこんなにも心が滾る。
共に戦いたい。
「どうか、お願いします」
アレスティッドは目を閉じた。
しばしの沈黙の後、溜め息交じりにゆっくりと言葉を吐き出す。
「……殿下の強硬姿勢には多くの者が失望している。全員を説得するのは無理だろうが、何とかなるだろう」
「ありがとうございます」
アレスティッドは表情を和らげるでもなく、その身を翻して言った。
「可能なら今日にも投票に移ろう。あまり長引かせたくない」
休憩の後、アレスティッドの発案で投票が行われ、王家の王権の停止及び軍の招集が可決された。
王の承認がない法は本来無効だが、最早そんなものは不要だろう。
散会した後、セルジュは帰ろうとするアレスティッドに歩み寄り、握手を求めた。
「どうもありがとうございました」
「礼を言われる筋合いではない。私はただ、自分が正しいと思う選択をしただけだ」
「それでも、私はあなたに――あなた方に感謝していますよ」
アレスティッド達が賛成に回ってくれなければ、到底法案を可決させることはできなかった。
だからこれはせめてもの感謝の印だ。
アレスティッドは下ろしたままだった手をゆっくりと動かしてセルジュのそれを軽く握ったが、すぐに放した。
「私達は本日を以てディクリーズ・クラブを脱退することにした」
「そうですか」
セルジュは特に驚くこともなく、そう言った。
遠からずこうなるだろうとは思っていたのだ。
先鋭化する革命に、穏健派はとても付いて来られない。
考え方は違っても同じ志を持つ者同士、できることならこれからも手を携えて行きたかったが、仕方がなかった。
「私達は近く議会からも去るつもりだ。議会は事実上消滅だろう。後はあなた方の好きなようにするといい。革命の成功を祈っている」
「ありがとうございます。どうぞお元気で」
セルジュはアレスティッドに背を向けた。




