―15―
ジェスはカンテラを手にドアの前に立つと、冷えた手を緩く握った。
この冷えは、決して空気の冷たさからくるものではない。
緊張しているのだ。
もしかしたら、今までで一番の緊張かも知れない。
初めて人を殺した時より、周りを敵に囲まれそうになった時より、今の方がずっと不安で胸が苦しい。
ジェスは深く息を吸い込むと、覚悟を決めて取っ手に手を掛けた。
ドアを大きく開け放つと、彫像のように動かないオルガと、退屈そうに床に寝転んで目を閉じているリディが目に入った。
二人共微動だにせず、鍋の炎だけが落ち着きなく揺れ動いている。
「遅かったね」
眠ってはいなかったのか、或いは目が覚めたのか、リディが目を閉じたままそう言った。
「悪りぃ。ちょっとな……」
ジェスはカンテラを置くと、二人の前に腰を下ろした。
話さなければならないことがあるのに、なかなか言葉が出て来ない。
口の中が乾き切っていて、唾を飲み込む喉が痛んだ。
激しい鼓動が胸を叩く。
ジェスはもう一度大きく息を吸い込んでから、吐息と共に言葉を吐き出した。
「話がある」
改まってそう切り出すと、オルガが目だけを動かしてジェスを見た。
「俺、ここを出ようと思う」
目を開けたリディが呆気に取られてジェスを見た。
「急にどうしたの?」
「別にどうもしねえけど、やっぱこの仕事は俺には向いてねえしな」
「まあ、確かにあんたは転職するのがいいかもね。その方が長生きできるでしょ」
リディはそれだけ言うと、再び目を閉じた。
もうすぐ別れることになると言うのに、いかにもリディらしい。
ジェスが黙ってオルガの言葉を待っていると、オルガの唇がゆっくりと動いた。
「……当てはあるのか?」
「特にねえけど、何とかなるだろ。今まで世話になった」
ジェスは深い感謝を込めてそう言った。
正直に言えば、ここを出て行きたくはない。
だが、もうここに留まる訳には行かなかった。
今の自分にはやらなければならないことがある。
ジェスがともすれば揺らぎそうな気持ちを引き締めていると、オルガはジェスから目を逸らし、燃え盛る炎に目を落としてぽつりと言った。
「……最後に一つだけ、話しておこう」
ジェスが黙って頷くと、オルガは静かに語り出した。
「……お前やリディと出会った頃、私は殺すことに倦んでいた。今でもそれは変わらん」
オルガのその言葉が、ジェスにはひどく意外なものに思えた。
オルガはいつも完璧に人を殺してみせたし、自分達に人を殺す術を叩き込みもした。
そんなオルガが人を殺すことに倦んでいたとは、夢にも思わなかったのだ。
訊きたいことはいろいろとあったが、ジェスは黙ってオルガの声に耳を傾けることにする。
口下手なオルガがせっかく自分から話そうとしてくれているのだ。
きっと大事な話に違いない。
ジェスが黙って話の続きを促すと、オルガは炎を見つめたまま言った。
「……理由は特になかった。ただ殺し過ぎて、殺すことに飽きたのかも知れん。いつの間にか人を殺すことを厭わしいと思うようになった。当然殺しを捨てて、他の生き方をしようと思ったこともある。だが結局は無理だった。私は所詮、人を殺すしか能がない女だ」
オルガは少し間を置いてから、ゆっくりと続けた。
「……こんな私がお前を、お前達を育ててきたのは、ただの道楽のようなものだったのだと思う。人が花を植え育てるように、ただ何かを育ててみたかった。人間でなくても、何でも良かった。お前達にとっては、酷な話だろうがな」
ジェスは黙って頭を振った。
理由などどうでもいい。
オルガは確かに自分を慈しんでくれた。
多分オルガは気付いていないだけなのだ。
自分が優しさを持っていることに。
「ありがとう」
ジェスが心からそう言うと、オルガはわずかに目を細めて小さく頷く。
「……本当はもうリディ以外に誰も引き取るつもりはなかったんだ。だが追っ手から逃げ切れずに戦おうとしたお前を見た時に、見所があると思った。育ててみたいと思った。お前をこんな道に引きずり込んでしまった私がこんなことを言うのもおこがましいが、私はお前と暮らせて良かったと思っている」
「俺もだ。俺、オルガのおかげで戦えるようになった。オルガに教えてもらったこと、この先すげえ役に立つと思う」
「……そうか。お前は私が見込んだ男だ。これからどこで何をするにしても、きっと立派にやって行けるだろう」
ジェスは胸が温かいもので満たされていくのを感じた。
オルガはちゃんと自分を認めてくれていたのだ。
失敗ばかりで役に立たない自分を、ちゃんと愛していてくれた。
ただ自分がオルガを信じていなかっただけ。
それだけのことだった。
今からでもやり直したくなったが、ジェスはそんなことはできないと自分に言い聞かせる。
今が別れの時だ。
「……食料でも武器でも好きなだけ持って行くといい。舟もやろう。餞別だ」
「助かる」
「……帰りたくなったらいつでも帰って来いと言いたいところだが、私達も明日にはここを発つつもりだ。上が綺麗に片付いたおかげで、もう仕事もなくなったようだからな」
「そっか……」
もしかしたら、オルガ達にはもう会えないかも知れない。
だがそれでいいのだろう。
未練もしがらみも、もう自分には不要のものだ。
ジェスは荷物をまとめて立ち上がると、カンテラを手に取った。
「じゃあな。元気で」
ジェスはオルガ達に背中を向けると、振り向かずに小屋を後にした。
ジェスは荷物を下ろすと、舟を漕ぎ始めた。
思い出に引き摺られないよう、一掻きごとに力強く水を押しやって小屋から遠ざかっていく。
胸に溢れた思い出にふと涙が出そうになって、ジェスは慌てて瞬きの数を増やした。
程無くして待たせていたレリアと魔王の元に差し掛かっても、ジェスは舟の速度を緩めることなく二人の前を素通りする。
レリアと魔王は慌てるでもなく、黙って舟の後ろに付いて来た。
小屋が完全に見えなくなってしばらくすると、ジェスはようやく速度を落として緩やかに水を掻き始める。
少し乱れた息を整えていると、魔王の声がジェスの背中に掛かった。
「構わぬのか?」
「何がだよ?」
「もうあの家には戻らないつもりなのだろう?」
「え?」
レリアが目をぱちくりさせる横で、ジェスは軽く魔王を睨み付ける。
聞かれて困る話ではないとはいえ、聞き耳を立てられていい気はしなかった。
「あんた、上品そうに見えて意外と無作法なんだな」
「心外だな。先程も言った通り、我は知覚したい範囲にあるあらゆるものを知覚しているのだ。敢えて聞こえないようにすることもできるがな」
「……できるけどやらねえって選択肢はねえのかよ」
ジェスがげんなりしていると、レリアが心配そうな顔で訊いてくる。
「ねえ、本当にもう家には帰らないの?」
「おう。殺し屋はもうやめだ」
「それは嬉しいけど、これからどうするの?」
「お前の姉貴を殺しに行く」
「えええええっ!?」
レリアは頭が痛くなるような大声で、力一杯驚いた。
「そんなにびっくりすることか?」
「だって、ジェスがそんなことするなんて思わなかったから……どうして姉様を殺さないといけないの?」
ジェスは危うく水に落としかけた櫂を辛うじて掴み直すと、ぐったりと項垂れて言う。
「何だってそういう質問が出るんだよ……お前を殺した奴なんだぞ?」
「私、姉様のこと好きじゃないけど、でも死んで欲しいとは思ってないよ。すっごく痛かったけど、心だけはこうやって生きてるし」
「……お前、どれだけお人好しなんだよ」
「それっていけないこと?」
レリアのこういうところが、ジェスは嫌いではなかった。
殺伐とした暮らしに慣れ切っていた自分にとっては新鮮で、心和まないこともない。
だが無性に腹も立った。
命を奪われたのに何を呑気なことを言っているのだろう。
「……ムカつく、とか思わねーのかよ」
むすっとしたジェスに、レリアは忽ち笑顔になった。
「そっか、ジェスは私のために怒ってくれてるんだね」
「別に。そんなんじゃねえよ」
ジェスはぷいっと横を向いたが、レリアは上機嫌でジェスにじゃれ付いてきた。
触れなくても鬱陶しい。
ジェスが渋面で再び舟を漕ぎ始めると、レリアはぴったりと背中にくっ付いて言った。
「怒ってくれるのは嬉しいけど、そんなことしないでいいよ。危ないんだろうし」
「別に死ぬって決まってる訳じゃねえよ。お前だってそれで魔王を招喚したんだろ?」
「それはそう、だけど……でもやめようよ。もう人を殺すお仕事はしないって言ったじゃない」
「お前の姉貴を殺したら、もう誰も殺さねえよ。多分な」
レリアはまだまだ言い足りなそうな顔をしていたものの、たった一言だけ言った。
「……どうしても姉様を殺さないと駄目なの?」
「俺なりのけじめなんだよ」
自分はこれまで金のために人を殺してきた。
それは生きるためにしたことで、少しも後悔してなどいない。
だが自分が人を殺した時に誰かがあんな思いをするのなら、もう殺せそうになかった。
それでも最後に一度だけ正しいと思うことのために殺したい。
どんな理由があっても人を殺すのは間違っているのかも知れないが、レリアを殺した女が生きている方が余程間違っている。
今すぐにでも殺してやりたかった。
たとえレリアがそれを望んでいないとしても。
「……私はやっぱり嫌だし、多分ジェスの邪魔すると思うよ」
「したきゃしろよ。俺は俺で勝手にやる」
「うん……」
どことなくぎすぎすした空気を置き去りにするように、ジェスは舟の速度を上げた。




