―14―
ジェスはレリアと魔王を連れて地下に戻った。
ねぐらに向かって力強く舟を漕ぐジェスを挟んで、レリアと魔王が低く飛んでいる。
いつもと変わらない水や空気の冷たさ。
揺れる暗い水や闇の中にたゆたう無数の幽霊が見えるのも、レリアと魔王がいるのもいつも通りで、レリアが死んでしまったというのが性質の悪い冗談のような気がしてくる。
死体を見ていないせいもあるだろう。
だが、レリアはもう死んでしまった。
こういう時には何と言葉を掛ければいいのだろう。
何も言わない方がいいのだろうか。
ジェスは答えを出せないまま舟を漕ぎながら、ふと魔王に問いかけた。
「そういや、あんた何でまだいるんだ?」
レリアは既に死んでいて、魔王との契約は終了している筈だ。
ということをレリアの前で言うのは気が引けたので敢えて言わなかったが、魔王にはきちんと伝わったらしく、水面を滑るように移動しながら教えてよこしてくる。
「死んだのは王女の肉体だけだ。見ての通り、心はまだ生きている。形はどうあれ、生きてさえいれば契約は継続する。そもそも心の使い方を教えるのも契約の内だからな」
本人の前で平然と「死んだ」と口にする魔王の無神経さに、ジェスは心底呆れ返った。
ジェスがレリアにちら、と目を配ると、レリアは案の定複雑そうな顔をしている。
自分が死んだと言われていい気はしないだろう。
自分の死を受け入れること自体がきっと難しいに違いない。
しばらくは触れないでそっとしておいた方がいいように思えた。
ジェスは軽く魔王を睨んだが、棘のある言葉を敢えて飲み込む。
言いたいことはいろいろとあったが、下手をすればレリアに続いて自分まで幽霊になりかねない。
ジェスが黙って舟を漕いでいると、レリアが唇を尖らせて言った。
「もう、死んだ死んだって言わないでよ。人が死ぬことなんて何とも思ってない訳? さっき姉様と契約した時だって、代価にこの国の半分を持っていくことなんてなかったじゃない。たくさん人が死んじゃったんでしょ? 魔王を姉様に会わせた私も悪かったと思うけど、いくら何でもやり過ぎだよ」
「おい、お前に責任はねえだろ」
ジェスが思わず口を挟むと、レリアはひどく気まずい様子で、ジェスの視線から逃れるように水の中に身を沈めた。
だがすぐに浮き上がってくると、目から上だけを水面から出して、上目遣いにジェスを見る。
「……本当に、そう思う?」
口は完全に水の中に沈んでいたが、肉体を失っているレリアの声は水に阻まれることはない。
明瞭に響く声で、レリアは続けた。
「私が魔王を招喚したから、ああなったんだよ?」
「そりゃ、結果的にはあんなことになっちまったけど、お前に悪気はなかったんだろ? それとも、ああなるってわかっててもやったのか?」
「多分、やらなかったと思う」
「なら、もう気にすんなよ」
全ては済んでしまったことだ。
気に病んでも全てが元通りになる訳でもないのだから、割り切った方がいいが、それでもレリアの表情は晴れなかった。
「ジェスがそう言ってくれるのは嬉しいけど……でもやっぱり私も悪いと思う。魔王が人間にとっていい存在じゃないのはわかってたんだし、気安く姉様と契約なんかさせちゃいけなかったんだよ」
レリアは水の中に沈んだまま、魔王を見上げた。
「人をたくさん死なせて楽しいの?」
「我が人に似た姿を取っていることで、人間と同じような観念や道徳を有していると思い違いをする者は珍しくもないが、其方もその手合いのようだな」
魔王は些か面倒臭そうに続けた。
「我は肉体を持つ其方等と円滑に意思の疎通を図るためにこういった姿をしているのであって、その本質は其方等とは大きく異なる。我は肉体を持たず、よって生物ではない。存在してはいるが、其方等が命と呼び習わすものを持ってはいないのだ。そのような者に命を尊べというのは、無理というものだろう。まあ、一度失えば二度とは戻らないことからして、それを持つ者にとって貴重なものだということは理解できるがな」
「だったら、死ななくてもいい人をたくさん死なせたりしないで。命って簡単になくなっちゃうものだから大事だし、なくなっちゃったら悲しいし、死ぬって凄く怖いことなんだからね。多分死んじゃった人、みんなそう思ってたよ」
わかり切っていたことだが、レリアが自らの死に堪えていることが改めてわかって、ジェスは再び胸が痛むのを感じた。
しかしそんなジェスとは対照的に、魔王はレリアの心を凍て付かせるような冷ややかさで言う。
「理解できぬな」
「私、そんなに難しいこと言ってる?」
「いや、ただ認識が違い過ぎる。先程も言ったが、我は肉体を持たない。人間は感覚器官で捉えられない情報を無自覚に振るい落とすが、我は知覚したいと思う範囲にあるありとあらゆるものを全て知覚しているのだ。生物の体内で血液が巡る音や、細胞一つ一つの動きさえ、我には全てわかる。故に、我にとって命というものは情報の塊に過ぎない。誰かが死んでも、それは得られる情報が書き換わっただけでしかないのだ」
魔王の話はジェスには到底理解できないものだったが、体の有無が事物の認識に大きな差を生じさせるものらしいということは理解できた。
体のない状態に慣れたら、レリアもいつか魔王のようになるのだろうか。
魔王のようなレリアを想像してジェスが思わず眉を皺めると、レリアが溜め息と共に疲れの滲む言葉を漏らした。
「……感覚が違い過ぎるし、難しい言葉もあってよくわかんなかったけど、魔王が人間だけじゃなくて、他の生き物のことも何とも思ってないのはよくわかったよ」
レリアは一度言葉を切ると、半ば独白のように続けた。
「別に、魔王が特別冷たいって訳じゃないんだよね。もし私が生まれつき魔王みたいだったら、きっと今の魔王みたいに思うんだろうし……でも、やっぱり人を無闇に死なせるのは良くないと思うよ」
「今其方が口にしたのは決して珍しい言葉ではないが、其方は少し変わっているな」
「どうして?」
「其方は先程から我に対して怒りを抱いているが、我が其方を救わなかったことに関しては何も言わぬだろう」
ジェスは一瞬櫂を動かす手を止めた。
今まで気付かなかったが、思い返してみれば確かに魔王の言う通りだ。
レリアは恨み言など一言も言わなかった。
ずっと他人のために怒っていた。
自分がレリアだったら、とにかく見殺しにされたことを怒るに違いない。
確かに変わっていると思う。
「お前、ここはまず自分のために怒るところだろ」
「そうかな? でも、そういうのはちょっと違う気がするなあ」
「寧ろお前の反応の方が違うだろうが! お前、死にたくなんてなかったんだろ! それなのにこいつはお前を見殺しにしたんだぞ!」
思わずそう言ってしまってから、ジェスは失言だったことに気付いて軽く唇を噛む。
これでは魔王の無神経さといい勝負だ。
「……悪りぃ」
「別にいいよ。全部本当のことだし」
レリアは緩く頭を振ると、軽く目を伏せて続けた。
「私ね、死にたくないから魔王と契約までしたけど、体は死なないようにできないってわかってからいつかは死ななきゃならないってあきらめてたんだ。それに、魔王とは私の体を守る契約なんてしてなかったし、文句を言ったりするのはちょっと違う気がする。私、父様や姉様によく思われてなかったくらいだから、家族でもない魔王に助けてもらえなくても仕方ないって言うか、当たり前だし」
ジェスは自分の耳を疑った。
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「だって私、父様に嫌われて、母様に殺されかけて、姉様に殺されたんだよ? 世の中の人みんなが、私のことが嫌いでも不思議じゃないもん」
「おい、俺のこと忘れてねえか? 俺、一応お前の友達なんだぞ」
「そうだね。でも都合のいい時だけでも友達でいてくれれば、それでいいと思ってるよ」
そこまで友達甲斐のない奴だと思われていたのかと少し落ち込んでから、ジェスはそうではないのだと思い直した。
レリアはきっと、他人に優しさを期待しないことでこれまで自分自身を守り続けてきたのだろう。
誰も優しさをくれない状況で、それでも優しさを求め続けていたら、きっと壊れてしまう。
さも当然と言わんばかりの口調で愛情など期待しないと語るレリアがひどく痛々しくて、ジェスはレリアからそっと目を逸らした。
「……結果は変わらなかったかも知れねえけど、俺だったらお前を助けようとはしたと思う」
「ありがとう。ジェスは優しいね」
ジェスが少し熱くなった頬を軽く掻くと、レリアは小さく笑って静かに水面の上に出た。
魔王に正面から向き直る。
「私を放って置いたことを怒るつもりはないよ。私が生きてても死んでても、魔王にとって大した違いはないんだろうし。魔王が国の半分を消したことはずっと怒ってると思うけど、もうこのことは言わないようにするね。これ以上何か言ってもお互い嫌な思いをするだけだろうし、そもそもの原因作ったのは私だから、偉そうに魔王を怒れる立場でもないし」
「賢明だな」
「じゃあ、これからもよろしくね」
「ああ」
話はそれで終わり、辺りに沈黙が広がった。
魔王は反省も謝罪もしていないが、レリアはとにかく自分の感情と折り合いを付けることにしたようだ。
怒りを飲み込んで、ひたすら耐えるのは苦しい筈なのに。
自分にはとても無理だ。
ジェスが黙って舟を漕ぎ続けていると、程無くして寝起きしている小屋が見えてきた。
「……ちょっと待っててくれ。すぐ戻る」
ジェスは小声でそう言うと、レリアと魔王をその場に残して舟を小屋に付けた。




