―13―
ジェスは今夜も小屋を抜け出して、舟の上で魔法の練習をしていた。
言葉が消えていく冷たい闇の中には相も変わらず幽霊達が漂い、強い風にも似た声を上げている。
おかげで水音一つしない静けさも台無しだった。
ジェスは何度も幻を創り、できるだけ長い間その像を保たせようとするが、なかなか思うようには行かない。
創ってもすぐに消えてしまったり、消えないまでも形が崩れたりする。
おまけに辺りをうろつく幽霊が鬱陶しく、遂に集中力がぷつりと切れた。
ついでにもう一つ何かが切れた。
「がああああっ! ムカつくー!」
ジェスが両手で激しく頭を掻き毟っていると、魔王が何の前触れもなく虚空に現出してきた。
だが、いつも一緒にいるレリアの姿がない。
「珍しいな。あんた一人か。あいつは?」
ジェスが何気なくそう尋ねると、魔王は短く答えた。
「死んだぞ」
「え……」
ジェスはそれしか言えなかった。
胸に重い何かがずしりと落ちてきて、息が苦しくなる。
久しく忘れていた感覚。
感情。
それらを噛み締めながら、ジェスはいつの間にか随分レリアを好いていたことに気が付いた。
とっぽくて、物知らずで、鬱陶しい、どうしようもない馬鹿だが、あんな友達はもうできないかも知れない。
そう思うと、無性にレリアに会いたくなった。
だが、もう二度と会えない。
ジェスが唾と共に息苦しさを飲み下していると、魔王が淡々と続けた。
「正確には、王女は殺された。殺したのは王女の姉だ」
「……どういうことだよ? あいつ、死なねえんじゃなかったのか?」
「王女は確かに死にたくないと願ったが、そもそも不死などというものは存在しない。全てのものは無より生まれ、やがて無へと還るのだからな。この我を以ってしても、存在し得ないものを存在させることはできない」
「でも、あんたあいつの願いを叶えたんだろ?」
「厳密に言えば、それは違う。ただ我と同じように、心だけは永遠に近い時を生きられるようにしてやっただけだ。肉体がなければ、飢えることも渇くこともない。滅多なことでは消滅させられることもないだろう」
「それなのに何で死んだんだよ!?」
ジェスは苛立ちを隠そうともせずに声を荒げた。
神とも呼ばれる程の力を持ちながら、どうして魔王はレリアを守れなかったのだろう。守ろうとしなかったのだろう。
ジェスは殺気の篭った目で魔王を睨み付けたが、魔王は全く動じることなくジェスの眼差しを受け止めた。
「死んだことは死んだが、それはあくまで肉体だけだ。心はまだ生きている」
ジェスは少し泣きそうになった。
わずかに震える声で問う。
「……本当だな?」
「今にも消えそうな程弱々しいが、王女の心は確かにまだ存在している」
ジェスは何とも複雑な気持ちになった。
レリアの体は死んでも、心はまだ生きている。
それはまだ生きていると言えるのだろうか。
それともやはり死んでいるのだろうか。
わからないが、レリアがまだ欠片だけでもいるなら、それで十分なのだろう。
会いに行こうと、ジェスは思った。
「なあ、あいつどこにいるんだ?」
「ここからは少し遠いな。城の辺りだ」
それだけ聞くと、ジェスは舟を漕ぎ始めた。
ジェスは魔王と共に城の近くまでやってきた。
突然町が半分無くなっているのには驚いたが、魔王に自分がやったと聞かされれば、素直に受け入れるしかない。
人智を超えた存在に人間の理屈や常識が通用する筈もなかった。
馬鹿さ加減だけなら、金と引き換えに魔王に国を半分譲り渡したというジュヌヴィエも立派に人智を超えている。
国をこんな有様にしてどうするつもりなのだろう。
これでは政情不安に拍車がかかるばかりだ。
人々は只でさえ飢饉や不況に苦しみ、鬱屈した生活を送っている。
そんな人々を余計に追い詰めるような真似をしたら、反乱の一つも起こりかねない。
今はまだ大きな騒ぎは起こっていないようだが、町の人間は不安げな様子で城の周りに集まり始めていた。
人々が明るい城の周りに集う光景は、夜でも煌々と灯る明かりに群がる蛾を思わせる。
今もその数は増え続けていて、ジェスは人の流れに乗って魔王と共に城へと向かった。
人込みをかき分けて衛兵が守る高い鉄柵の前に辿り着くと、左右対称の意匠だった筈の城が半分しかなくなっている。
中央の主塔だったもの、その脇に設えられた大きな尖塔の上には、更に小さな尖塔がいくつも並んでいた。
調和が取れた配置だった筈なのに、半分を失った今となっては出鱈目に並んでいるようにしか見えない。
城から少し視線をずらすと、焼け落ちた塔が目に入った。
元が何だったかわからない程に崩れた塔が、低い空に歪に食い込んでいる。
レリアはもうあそこにはいない筈だったが、もしかして焼き殺されたのかも知れない。
ジェスは両手をきつく握り締めた。
「……あいつ、どこにいるんだ?」
「近くにはいる。ただ見えないだけだ。今の王女は姿形を失っている」
ジェスは辺りを見回した。
空や町を彷徨う幽霊に混じって、どこかにレリアがいる。
見えなくても感じられる筈だが、こう数が多くては特定できそうになかった。
「話はできるのか?」
「無理だ。王女の心は眠っている」
「眠ってるって、心も体みたいに眠るもんなのか?」
「ああ。心が眠っている状態とは、つまり心を閉じた状態だ。そうすることで、殺された時の衝撃から咄嗟に心を守ったのだろう。死んだと思えば、体のみならず心までも死んでしまう。我と契約した以上、そのような真似をせずとも存在を維持することはできたが、そこまで気が回らなかったようだな」
「殺される時にそんな冷静でいられる奴がいたら、頭おかしいだろ」
死ぬのが怖いのは当たり前だ。
ましてレリアは魔王と契約してまで生きたがっていた。
恐らくは生きるということがどういうことかも知らないままに。
どれ程口惜しかっただろう。
怖かっただろう。
もう抱き締めることはできなくても、せめて労わってやりたかった。
「なあ、あいついつ頃目が覚めるんだ?」
「さあな。このまま放っておけば二度と目覚めぬことも有り得る。目覚めたとしても一年後か、或いは十年後かも知れぬな」
「だったら叩き起こす。どうすりゃ起きるんだ?」
「簡単なことだ。心で呼び掛ければいい」
「それって、魔法を使えってことか?」
「察しがいいな。人間が編み出したものではないが、広義の魔法ではあるだろう」
「無茶言うなよ。あんた、俺が魔法初心者だって知ってんだろうが」
「勿論知っている。だが其方が強く呼べば、あれは必ず応える筈だ。心を閉じていても、心の繋がりは途切れることがない」
逆に言うと何とも思っていない相手に呼ばれても、レリアは起きないのだろう。
起きなかったらちょっとどころでなく落ち込みそうだが、やるしかない。
レリアを見殺しにした魔王がレリアを起こしてくれるとも思えなかった。
「ただ呼ぶだけでいいのか?」
「そうだ。声を出すように思いを放てばいい。声に思いを乗せてもいいがな」
ジェスは目を閉じると、深く息を吸い込んだ。
黙って思いを放つより、魔法を使う時のように声に出して名前を呼ぶ方が簡単だろう。
そう言えば、名前を呼ぶのはこれが初めてだ。
どうせならもっと早くに呼んでやれば良かったと思う。
だがもう遅過ぎた。
レリアは死んでしまって、やり直しは永遠にできない。
人間がいかに死に易く、死がいかに絶対的なものかくらいわかっていたつもりだったのに、結局何もわかっていなかった。
どうしてもっとレリアとの時間を大事にしようとしなかったのだろう。
レリアを大事にしようとしなかったのだろう。
後悔は果てがなく、目尻にじんわり涙が滲んだ。
とにかくもう一度会いたい。
ジェスは声を限りに叫んだ。
レリアの心は虚空をたゆたっていた。
ここはとても静かだ。
自分の中には自分しかおらず、この平穏が乱されることは永遠にないだろう。
だがひどく満ち足りている筈なのに、どこか物足りないような気もした。
この平穏を壊してでも求めたいものが、確かにあった気がする。
何だっただろう。
もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない。
それでも、とにかくここを出た方がいいように思えた。
空っぽの心の中、自分の他に残っていたもの。
ここにないそれは、きっと大切なものだ。
探しに行かなくてはいけない。
そのためにここを出よう。
そう決めた時、ジェスの声が聞こえた。
「レリアー! 起きろー! この馬鹿ー!!」
城を揺らすような大声で、レリアは覚醒した。
同時に全てを思い出す。
最後に覚えているのは地下の研究室だったが、いつの間にか空に浮かんでいる自分に気付いて、レリアは混乱した。
「落ちる」という考えが頭を過ぎった途端、吸い込まれるように地面へと落ちていく。
肉体を持たないため、風を切ることはなかったが、加速感のせいで風を切る時とよく似た感覚を覚えた。
見る間に地面が迫ってくる。
このままだと地の底まで落ちて行きかねない。
心を阻む物は何もないのだ。
だからこそ自分で止まらなければならない。
止まれ!
レリアが強くそう念じると、それまでの落下が嘘のようにぴたりと止まった。
落ち着いて態勢を立て直したところで、レリアはジェスを探し始める。
きょろきょろと辺りを見回す内、人込みの中のジェスを見付けた。
城の敷地のすぐ外にある石畳の上で、周りの人々の注目を集めながら大きく肩を上下させている。
人目も憚らずに大声で自分を呼び起こしてくれたのだろう。
レリアは喜びのままにジェスに抱き付こうとして、自分が姿を失っていることに気が付いた。
まずは自分の姿を作らなければと思うのに、やり方がわからない。
と言うより、思い出せないと言った方が適切な気がした。
もう少しで思い出せそうなのに、どうしても出て来ない。
多分寝起きで上手く声が出せないようなもので、時間が経てば元通りにできるようになるのだろう。
レリアがひどくもどかしい思いでジェスを見ていると、魔王がジェスに言った。
「目覚めたようだぞ」
「本当か!? どこだ!?」
魔王はすっと白い手を上げると、レリアを真っ直ぐに指差した。
「あの辺りだ」
ジェスは魔王の指先を追ってレリアの方を見たものの、どこにいるのかはっきりとはわからないようで、視線が定まっていなかった。
レリアはジェスの元に降りて行くと、静かに声を掛ける。
「ここだよ。わかる?」
「おう」
ジェスが上げた手をそっとレリアへ伸ばすと、レリアもまだ姿を取ることはできないながらもジェスに触れようとする。
するとなかった筈の手が朧げに現れて、レリアはその手をそっとジェスのそれに重ねた。
触れ合うことはなかったが、ジェスの手と重なったところからレリアのそれが徐々にくっきりとした輪郭を持ち始める。
指先から始まって、腕から顔から全てがある程度の形を取り戻した。
いつもよりずっと霞んだ、今にも闇に飲み込まれてしまいそうな姿だったが、何とか表情を作るくらいのことはできる。
レリアはあるかなしかの微笑みを湛えて、ただ静かにジェスを見つめた。
言いたいことはたくさんあった筈なのに、いざジェスを目の前にすると、何を言えばいいのかわからない。
しばらくしてからやっと一つ言葉を選んで、レリアは言った。
「……ジェスにお願いがあるんだ」
「何だ?」
「いつかジェスがもっと魔法を使えるようになって、魔王と契約できても、『死にたくない』なんて願わないで」
レリアは一言一言噛み締めるように、ゆっくりと願いを口にした。
勝手な願いだとは思ったが、そう言わずにはいられなかった。
ジェスには生き損なうことも、今をないがしろにすることもなく、生きることを大事にして欲しい。
それは、自分にはできなかったことだから。
「……わかった」
ジェスはレリアの手を握るように、己のそれを動かした。
ジェスは折り曲げた指先に、知らず力を込めた。
この先再びレリアに触れることができたとしても、もうあの手に触れることはない。
抱き締められることもない。
温もりを分け合うこともできない。
心以外のものは、全てジュヌヴィエに奪われてしまった。
だが、レリアに何の罪があったと言うのだろう。
レリアはただ生きようとしていただけだ。
友達がいて、どこへ行くのも自由で、そんな当たり前の暮らしをしたかっただけ。
本当にそれだけだったろう。
子供のように澄んだ心で、こんな罪に塗れた人殺しでも友達だと認めてくれた、そんな優しい少女だったのに。
許せなかった。
刺し違えてでもジュヌヴィエを殺さなければ収まらない。
レリアが味わった以上の苦痛と屈辱を与え、ジュヌヴィエに自分がしたことの罪深さを思い知らせてやるのだ。
そのためには、あの小屋を出なければならなかった。
もし捕まればオルガ達に迷惑を掛けることになるだろう。
自分の都合に二人を巻き込む訳には行かない。
家族同然に暮らした二人と別れるのは寂しかったし、一人になるのはやはり怖いが、自分のことよりレリアの仇を討つことの方がずっと大事だった。
それに多分、二人とは別れるのが一番いいのだ。
そんなことはとうにわかっていたのに、ずっと認められなかった。
勇気が持てなかった。
だが今なら持てる。
ジェスはレリアの手をすり抜けて拳を握ると、静かに手を下ろした。
「行くぞ」
「どこへ?」
「俺の家だ」
ジェスは遠巻きに囁き合う人々が作る輪を抜けて、足早に歩き出した。




