02-朝の陽ざしはみかん色。
「イヴ!朝だよ!起きて!見せたいものがあるの!」
「んー、、、、。」
「イヴ~起きてよ~ねぇねぇねぇ!」
ガバッっと毛布を奪い取ると頭を鳥の巣にした弟が眠そうな眼をこすりながらムックリ体を起こした。髪の毛をすいてやると気持ちよさそうにしている。ツヤツヤした滑らかな弟の髪を触るのは私としてもとっても大好きだ。自然とにやけてしまう。
「早起きは三文のなんとか!出かけるよ!」
のろのろとする弟を急かして着替えさせると、その手を取って家の外へと飛び出した。平日朝の7時。台所ではお母さんが朝ごはんを作っていて、洗面所ではお父さんがひげを剃っている。
「ふふふ、内緒だからね!」
イヴが都市部の方からやってきたと聞かされたときは驚いたが、私の住んでいるこの町は自然豊かなカントリーサイドだ。お父さんはここから2時間もかけて都心へと働きに行く。いっそ引っ越してしまえばいいのに、ふたりは田舎でのゆったりとした暮らしが好きなのだそうだ。私もいつか都市に行ってみたいなぁと思いつつも、遊び場の多いこの場所が気に入っているので不満はない。新しい弟も、ここへ来て2週間、慣れ始めてきているように思う。
「イヴ、こっちだよ、転ばないでね。」
「姉さん待って!」
嬉しきかな、嬉しきかな、イヴとは随分と言葉を交わすようになった。初めて会ったあの日は盛大に泣かせてしまい、結局夜になって寝付くまで弟は泣いていた。堰を切ったように流れ出した涙は留まるところを知らず、あれはびっくりしたと本人さえ語る。幸い、次の日は憑き物が取れたようなさっぱりとした顔を見せてくれ、おずおずと私の名前を呼んでくれたんだ。すごくすごく可愛くてキュンとしたなぁ。
家から私の通う小学校に向かうときに辿る通学路を少しばかり進んでいくと、右手に雑木林が見えた。木のほとんどが白樺であるため、林自体は白っぽい色をしている。その中を茶色い頭の私と金色の頭の弟がずんずん進む。しばらくして私たちの体躯ほどの岩を見つけたとき、私は歩みを止めた。
「イヴ、ここからは静かにね。」
「うん、わかった。」
見せたいものがある、と言われて私について来させられた弟は随分と素直で従順だ。文句ひとつ言わない。私はそのことにひどく感心していた。親戚のちびっ子たちと比べても、歳はイヴとさほど変わらないくせに我儘し放題でとても手がかかる。いつも私の方が折れて遊びに付き合ってあげたり面倒を見たりしなくちゃならなかったから、イヴとの関係はとても居心地がよかった。とってもいい子なのだ。
「そろそろ会えるよ!」
「何に会えるの?」
弟は小首を傾げる。ぶっちゃけすごく可愛い。絵になる。私は愛すべき弟の姿を網膜に焼き付けたのち、視線を前へと戻した。もうそろそろ、やってくるはずだ。
パキッ
「わ!」
イヴが小さく声を漏らした。それもそうだろう。目の前に現れたのは、銀色の毛並みを持つたくましいオオカミだったのだから。
「ね、姉さんオオカミ!」
「大丈夫だよ、こっちから何もしなければ襲ってきたりしないから。」
足元の小枝を踏み鳴らし、堂々とした足取りでオオカミは近づいてくる。怖気づいた弟は私の背にしがみついて震えている。私は11になるが弟はまだ8つになったばかりだと言っていた。無理もない。
「オオカミさんあのね、今日は私の弟を連れてきたの。言った通りとっても可愛いでしょう?性格もよくてお利口さんなんだよ。少し怖がりでオオカミさんに怯えてるけど、動物に慣れてないだけなの、許してあげてね!」
私とオオカミさんの仲は割と長く、深い。始まりは私が小学校に入学したすぐの頃にこの雑木林へ迷い込んだ時の邂逅だ。自然豊かな分、野生の動物とは頻繁に出くわすのだがオオカミを見たのはそれが初めてだった。都会の少女であれば泣いて逃げ出すのだろうが、私はなまじ図太い神経をしていたため好奇心の方が勝った。自分は敵ではなく単に迷子になってここに辿り着いただけなのだと、伝わるはずのない人間の言語と身振り手振りとで必死に弁解しようとした。
「グルルルル…。」
「う、うなってるよ姉さん!」
「イヴに挨拶してるの!ほらイヴも自己紹介してみて。」
「え、え!?ええっと!」
しどろもどろな弟が少し笑えた。ポンポンと背中を叩いてやると、ようやくつっかえずに話せるようになった。
「オオカミさんはじめまして、イヴです。少し前にこの町にやってきて、ミーク姉さんの弟になりました。」
「グルルルル…。」
「姉さん、伝わったのかな?」
「うん、これでオオカミさんとイヴはもう友達です!」
オオカミさんは黒い眼を弟からそらさずに近寄ってくると、ベロンと赤いほっぺたをひと舐めした。イヴがひゃぁっと声を上げる。それを見て私はオオカミさんに警戒心がないと察した。弟とオオカミさんが仲良くなってくれるのは自分のことのように喜ばしい。心がぽかぽかする。
その後私たちふたりと一匹は大きな岩を背に腰を据えて他愛もない話をした。オオカミさんが発言することはなかったけど、私や弟の話に耳をピクピクさせ、時折尻尾をふって相槌を打ってくれた。なんて素敵なオオカミなんだろう。弟もオオカミさんとすっかり打ち解けて、しまいには触れ合える程度にまでなっていた。オオカミさんの屈強な肢体にもたれ掛ったり、牙を見せてもらったり。オオカミさんと弟は同性だから、男同士わかりあえるものがあるのかもしれない。そこはかなり羨ましい。
「さて、そろそろ帰らないとお母さんに怒られちゃう。」
「え?もう行くの?」
「オオカミさんもずっとイヴに付き合ってるわけにいかないでしょ?さ、立って。」
別れの頃合いを告げると、オオカミさんはスクッと立ち上がる。いつも通りの威厳ある風格だ。本当に惚れ惚れしてしまう。対するイヴは心底残念そうな顔をしてしぶしぶ立ち上がった。
「オオカミさん、楽しかったです。どうもありがとうございました。」
「ありがとうございました!」
「良かったらまた遊びに来させてください。」
「また遊んでください!お願いします!」
イヴの一生懸命な懇願を耳にしたオオカミさんはそれを聞き入れたのか否か定かではないが、私たちを一瞥してすぐ颯爽と林の奥へ消えていった。もっとずっと遠くには深い森がある。詳しいことはわからないが、オオカミさんのすみかもそこにあるのかも知れない。
「行くよ、イヴ。」
パキッ
復路は何も気にせず大きな音を立てながら歩いた。弟の顔をちらと見ると頬を上気させてまっすぐ前を見ている。まさかオオカミに出会って、あそこまで仲良くなれるとは思ってなかっただろう。楽しんでくれていたようだったから姉としては幸いだ。連れてきた甲斐があった。
「…姉さん。」
透き通る声が私を呼んだ。
「んー?」
「どうもありがとう。」
私はにへらと笑う。出会って間もないけど、イヴが可愛くてしょうがない。きっと将来ブラコンになるなぁ…うはぁ。
「姉さんはさ、僕にいろんなものをくれるね。」
「え?何かあげたっけ?昨日のぬいぐるみのこと?」
クマのぬいぐるみをあげたっちゃあげたけどそんなに嬉しかったのかな。
「クマもだけど、オオカミさんも。あったかい手も。朝起きて姉さんがいるのも。全部。」
「そ、そう…?」
「僕、寂しかったけど、今はね、寂しくないんだ。」
パキッ、パキッ、パキッ
雑木林が開け、明るい土地に出る。イヴが足を止めたので私もスローダウンし彼の左隣に並んだ。弟の小さな左手が私の右手を取る。
「今はね、嬉しくて、楽しいんだ。だからありがとう。」
それはよかった、本当によかった。ただ私は嬉しいのと恥ずかしいので返答するよりはにかむ他なかった。えへへ、と笑うと弟も微笑む。私の笑みと違って弟のそれは反則的に可愛くて魅力的だ。思わず見とれてしまう。私にはこんなに良い子で可愛い弟がいるんだよ、と町中に自慢して回りたい。どういたしまして、と返そうかなと思った矢先弟が私に告げる。
「好きだよ、姉さん。」
絶句した。体中を得体のしれない何かが駆け巡って血液を沸騰させたかのように熱くなった。この弟の破壊力について本が書けそうだ。心臓がバクバク言ってる。
「わ、わたしも、好きだよ、イヴのこと。」
「本当に?」
「う、うん、本当に。」
「そっか~じゃあ僕たち両思いだね。」
刹那、彼の体から淡く発せられていた光が色濃く煌めき始めた。以前は薄いベールのようにまとわりついていた青っぽい光だったが、じわじわと紫がかってきて、最後には優しいピンク色になった。だが一瞬のうちにまた元の色と形状に戻っていく。私はただそれを見ているしかできなかった。触れている右手にだってなんの違和感もない。不思議な光景だった。
「姉さんどうかした?」
「え?あ、うん、今さ、自分の体に何か変わったこと起きてる?」
変わったことー?と呟きながら弟は考える。徐に歩き出して、家へと向かう。私はパタパタと顔を仰ぎながら今しがた見た光景を反芻していた。そういえば今日はオオカミさんにイヴが光って見えることを相談しようと思ってたのにすっかり忘れちゃったな、ちぇ。
少し先にレンガ造りの我が家が見え始めた。あと5分もしないで着くだろう。さすがにおなかがすいてきたから朝ごはんが恋しいばかりだ。
「あ。」
「何か思い当った?」
「変わったことっていうか。」
「何でもいいよ、教えて!」
我が家の外門から中に入る。野菜やパンの焼けたいい匂いが腹の虫を刺激した。だが右手がギュッと握られて、弟の方へ意識が戻される。
「僕、前よりすごく幸せ。さっきも言ったけど、姉さん。」
「え、あ、はい。」
「ずっと一緒にいてくれるんでしょう?」
「そりゃもちろん。」
「嬉しいな、ありがとう。」
「う、うん、そりゃ良かった。」
さっきもしたよねこの類の会話。またか、またなのか。この子は愛情表現を恥ずかしげもなくやっちゃうタイプなんだな。
「好きだよ、姉さん。とっても。」
「あ、ありがとう…。」
照れた。すごく照れた。何度言われても照れる。こんな可愛い純真無垢な子に好きだなんて言われたら誰だってこうなるよ!ドキドキだよもう!
早朝の晴れやかな日差しが私たちを包みこむ。それは優しくてきれいなオレンジ色。
読んで下さってありがとうございます。