Loser6.花澤ゆかりの場合
【前年十二月十五日 午前十時二分】
花澤ゆかりは、緊張した面持ちで応接室のソファーに座っていた。
応接室の中は、高価そうな絵画や花瓶などがそれぞれ見事に調和するように飾られており、素人のゆかりが見ても格調高い部屋だとわかった。
そのまま部屋のインテリアなどを見るともなく眺めていると、ふいに応接室の扉が開き一組の夫婦が入って来た。
「わざわざ、お呼びだてして悪かったね」
恰幅の良い男がゆかりに向かって口を開くと、二人はゆかりとテーブルを挟んだ向かいのソファーに腰を下ろした。
「い、いえ……こちらこそお会い出来て光栄です」
ゆかりは恐縮しながらも言葉を返したが、その言葉はゆかりの本心から出たものだった。
「紹介が遅れたね。私が光輝の父である伊集院幸三。そして妻の裕子だ」
裕子と紹介された女性がゆっくり頭を下げた。慌ててゆかりも頭を下げる。
「花澤ゆかりと申します。この度は、このような機会を設けて頂きありがとうございます」
ゆかりは再び深く頭を下げた。
今日、ゆかりは交際相手でもある伊集院光輝の両親に招かれ、彼の自宅を訪れていた。ゆかりは初めて訪れた光輝の桁外れに大きな豪邸と、今日が初対面となる両親とのプレッシャーで頭がパンクしそうになりながらも、必死に冷静さを取り繕っていた。
「君が学生の頃から光輝と交際していたのは、もちろん聞いていたよ」
「は、はい」
父親の言葉にゆかりは無意識に背筋をぴんと伸ばした。
「光輝も、もう今年で27歳になる。将来はこの伊集院財閥を背負って立つ身としては、そろそろ結婚も考えなくてはならない頃合いだ」
結婚ーー
その言葉にゆかりの体はぴくりと動いた。もちろんゆかり自身、意識していなかった訳ではない。しかし光輝の立場を察していたゆかりは、なかなか自分からそう言った話題を言い出す事が出来なかったのだ。
そしてゆかりは、今日何故自分がここに呼ばれたのかをうっすらと理解した。そしておそらく自分は、この両親に将来の嫁候補として品定めされているのだろうと漠然と自覚した。ゆかりは曇りの無い瞳で父親の顔を見据える。
「ところで……花澤さんのご両親はどういったお仕事をされているのかしら?」
ふいに光輝の母が口を開いた。ゆかりは視線を母親の方へ移すと、ゆっくりと話し始めた。
「はい、私の父は製薬会社の研究者として、三森製薬に勤めています。母は専業主婦です」
三森製薬か、と父親が顎を触りながら小さく呟いた。
「そう、それはさぞ大変なお仕事でしょうね」
母親はなんの抑揚もない言い方で言葉を返した。
「それで、あなた自身はどんな仕事を?」
「私は、化粧品メーカーの営業部門で日々新しい化粧品のデザインや各メディアへの宣伝などを主に行っております」
ゆかりは落ち着いて答えたが、心に染み付いた緊張感は未だゆかりの体を固くさせたままである。
ふむ、と父親がまた小さく呟くとソファーから少しだけ身を起こした。
「花澤さん。あなたは私たちの企業が行なっている仕事を知っておるかね?」
父親の質問は途切れることなく続く。
この時、ゆかりは五年ほど前に受けた就職活動の面接試験を思い出していた。ゆかりは学校の筆記試験では、常にトップに名を連ねる程の優秀な成績を収めてきたが、面接試験だけは最後まで得意になることが出来なかった。
幼い頃のピアノの発表会でも、練習では完璧にできていたことが本番の時に限って上手く弾けなかったり、運動会でもリレーのバトンを落っことしたり、つまり極端に本番に弱かったのである。
「はい、海外からの石油の取引きや売買を主に行う商社だと伺っております」
ゆかりは少しずつ高鳴る胸の鼓動を隠すように、精一杯の作り笑いを見せた。
「そうか……では光輝が私の後継者として、将来はこの財閥を背負って立つ人間だということも、わかっているね?」
「は、はい」
父親のどことなく含みを持った言葉にゆかりは心に小さなひっかかりを感じた。
「我々の組織は、民間企業とはいえかなり大規模なものだ。国家や政界との繋がりも多い。そうした中で他の組織と競合し、生き残るためには、次期社長の妻という立場は非常に重要なものになってくるのだ」
ここまで話すと父親は小さく息を吐いた。
「先日、光輝に縁談の話が持ちかけられた。相手は現在内閣府に入閣しているとある議員の姪の子だそうだ」
ゆかりは言葉の意味がうまく飲み込めなかった。
「つまり私達は、あなたと縁談の相手のどちらが財閥の妻としてより相応しいのか、見定める必要があったという訳だ」
父親は依然として話を続けているが、隣に座っていた母親がおもむろに口を開いた。
「端的に申し上げて、私達はあなたには光輝の伴侶は務まらないと判断したのです」
「……えっ」
喉の奥を押し出すようにゆかりの口から声が漏れた。父親は少しばつが悪そうに眉をひそめている。
「そ、それは一体……」
ゆかりは今にも止まってしまいそうな脳細胞を必死に働かせ言葉を繋げた。
「花澤さん。うちの光輝から身を引いてもらえないだろうか」
父親はきっぱりと言い放った。
ゆかりはしばらくの間、身じろぎひとつ出来ないまま一点を見つめていた。
応接室は重苦しい静寂に包まれ、壁掛け時計の振り子の音だけが部屋中に充満する。
そしてその沈黙を破るように、ゆかりはひとつだけ気になっていたことをぽつりと口を開いた。
「そのお話は、光輝さんはご存知だったのですか?」
ゆかりには光輝の態度や話しぶりから、そんな気配は微塵も感じられなかったため、一瞬この縁談の話自体が光輝に知らされていないのではと思ったのだ。
「それは、あなたの知るところではなーー」
「この決断は光輝本人が下したものです」
父親の話を途中で遮るかのように母親が口を挟んだ。父親は驚いたように目を剥いたが、すぐに居住まいを正した。
ゆかりの頭は完全にフリーズした。
ゆかりは、そのままフラフラと立ち上がると礼儀もなにもなく応接室の扉へ向かって歩き出した。
「もちろん、君にはこれまで光輝が世話になった分のお礼はさせてもらうつもりだ」
父親は小さく咳払いをすると、背中越しにゆかりに向かって声をかけた。
ゆかりはドアノブに手を掛けると、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……私は……光輝さんの地位や肩書きが好きになった訳じゃありません」
ゆかりは目に涙をため、声も震わせていたが、その言葉と瞳には先ほどまでの緊張や萎縮はすでに無くなっていた。
ゆかりはそのまま振り返ることもなく応接室を後にした。
そして、それから光輝の前に姿を現すことも二度と無かったーー
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半年後ーー
【翌年六月二十二日 午後四時十五分】
光輝との結婚を諦め、学生時代ゆかりにしつこくアタックをしていた同じゼミだった男の求婚を半ばヤケ気味に決めたことを少し後悔しつつも、ゆかりはいよいよ結婚式当日を迎えた。
しかし、そんなゆかりは今、目の前で起こっていることが全く把握出来ていなかった。
ゆかりと婚約者である新郎が誓いのキスをする直前に教会の扉が勢いよく開くと、そこに立っていたのは紛れもなく伊集院光輝本人であった。
そして伊集院の右手には、ゴツゴツとしたリボルバー型の拳銃が握られていたのである。