Loser3.木村卓郎の場合
【六月二十日 午前十時十八分】
祝日のデパートは買い物客でごった返す。
ましてやそれがセール中の婦人服売り場ともなろうものなら、そこはもはや店内ではない、戦場だ。
そこでは色とりどりにゴテゴテと着飾った〈自称〉おしゃれなマダム達が、醜い争いを繰り広げる。
安くて気に入ったデザインであればたとえサイズが合わなくても奪い合うその姿は、まさに「蜘蛛の糸」の亡者のようだ。
そんなことを考えて、木村卓郎は見下すように口角を吊り上げた。しかし慌てて表情を元に戻す。
木村が立っていたのは、まさにセール中の婦人服売り場の入り口であった。
木村の長身で端正な顔立ちはちょっとした人気アイドルを思わせた。さらに服装もマダム受けしそうな、爽やかな出で立ちであり、たとえマダムでなくとも世の女性が放っておかないような正真正銘のイケメンと呼べる。
(こいつにするか……)
木村は適当な買い物客に目星をつけると、ごく自然に客の後ろにつき、笑顔を振りまいた。
傍から見れば、母の買い物に付いてきた親孝行な息子の様に見えるかもしれないが、それこそが木村の狙いだった。
木村は、その客に不審がられないギリギリの距離を保ちながら売り場を歩き、いよいよ大勢のマダムが群がる〈戦場〉へとたどり着いた。木村は静かに、そしてゆっくりと深呼吸する。
客が戦場へ飛び込んで行くと同時に、木村もマダムの群れの中へ一気に飛び込んだ。
マダムの胸だか腹だか尻だかわからない弾力性のある肉が次々に押し付けられる。
そこで木村はいよいよ〈行動〉を起こす。
木村は狙いをつけたマダムに勢いよくぶつかった。マダムはもの凄い剣幕でこちらを振り睨み付ける。
「ごめんなさい! お怪我はありませんか?」
木村はマダムの顔に自分の顔を思い切り近づけた。つんとキツい香水の匂いが鼻を刺すが、木村は顔色一つ変えない。
てっきり自分と同類の女がぶつかったのかと思い込んでいたマダムは、いきなり好青年が顔を近づけてくるという事態に驚きを見せたが、すぐに目尻をとろんと下げた。
木村は心の中でガッツポーズを決める。
「いいえ、大丈夫ですわ。あなたこそ大丈夫かしら?」
マダムの白々しい演技に木村は一瞬吐き気を覚えたが、木村はしっかりと板についた演技で切り返す。
「僕も大丈夫です。本当にすみませんでした」
そう言って少しはにかんで見せた。これは数ヶ月に渡り、韓流ドラマを必死に見続けた木村が体得したマダム殺しの奥義とも言える絶妙のはにかみ顏である。
木村はそのままマダムに流し目を送りつつ、自然にその場からフェードアウトした。
デパートを出た木村は、適当な雑居ビルに入るとその地下にある喫茶店へと入り、アイスコーヒーを注文した。
コーヒーが来るまでの間、木村は上着の内ポケットに手を入れる。そこには先ほどぶつかったマダムの革財布が入っていた。
「さーてさて、今日の戦績はっと……」
木村は素早く財布の中身を確認すると、ざっと見ただけでも福沢諭吉が十人以上は収納されていた。木村は、よしっと呟くと再び財布をポケットに戻す。
木村はスリの常習犯であり、各地に渡り同じ様なスリを行っていた。しかし犯行の場所や時間がバラバラであることと、犯行がそれほど頻繁に行われないことから、警察も捜査に手を焼いていた。
というのも、木村はお金に困って犯行を重ねている訳ではなく、単にスリルを求めて行っているだけであるため、木村の次の犯行を予測するというのは、輪を掛けるように捜査の困難性を高めていた。
運ばれたコーヒーを飲みながら、ふと木村は自分の前に座る二人の男に目がいった。
この仕事をやるようになってから、どこか不審な雰囲気を持つ人間を見分ける眼力が木村には養われており、あの二人にはどこかそう思わせる妙な空気を感じた。
ひとりはこちらに背を向けているので顔は見えないが、派手な金髪と安物のスーツから見て仕事終わりのホストではないかと推測できる。
もうひとりは野球帽を目深にかぶり、服装も地味。口の周りは髭剃り後で青くなっているが、どうみても高校生にしか見えない童顔なその顏を見て、木村はこの金髪のパシリかなと勝手に設定づける。
木村はストローでコーヒーを飲みながら、携帯を見た。もちろん本当の目的は、あの二人が何を話しているのか興味が出てきたので、聞き耳を立ててみようと思ったのである。
「……事務所……サラ金を…」
「顧客の……金庫……」
「……忍び……名簿……」
「おいおい、穏やかじゃないなぁ……」
限界まで聴力を働かせ、聴こえてきた内容はどれも物騒な単語ばかりであった。
その後も、しばらく木村は二人の話を盗み聞こうとしたが、新たな客が入って来たことによってそれ以上は聞くことが出来なかった。
しかし元来、好奇心の塊の様な男でもある木村は、二人のことが次第に気にかかり、気が付けば二人から目が離せなくなっていた。
観察してから三十分程経った頃、帽子の男が席を立った。行き先から察するにトイレへ行ったようだ。金髪の男は退屈そうに、飲み終わったジュースのストローで遊んでいる。
すると今度は金髪の男がポケットから携帯を出して通話を始めた。しかし地下では電波が入りにくいらしく、金髪の男も席を立つと外へ出て行った。
木村は直感で立ち上がった。そこに悪意はなく、ただただ無限に膨れ上がる好奇心のみが木村を突き動かしていた。
木村はさりげなく二人のテーブル脇へと近づくと、靴ひもを結ぶふりをしてしゃがみ込んだ。金髪の座っていた椅子にブランドもののハンドバッグが置いてある。
木村に迷いは無かった。木村は素早くハンドバッグを引っ掴むとレジへと急ぎ、そそくさと会計を済ませた。もうひとりの男もまだトイレから戻って来ていない。
木村はハンドバッグを上着の内側に隠すように喫茶店を出て、雑居ビルの入り口へとたどり着いた。するとそこには先ほどの金髪男がヘラヘラと楽しそうに電話している。
「うん、そーだよぉ〜、俺にはミユキちゃんしかいないってぇ〜」
金髪の男の言葉に、どこか慣れたような含みを感じとった木村は、自分の勘の良さに思わず笑みをこぼしてしまった。
そのまま何食わぬ顔で金髪男の横を通り過ぎた木村は、路地を曲がりひと気の少ない公園へと向かった。
公園のベンチまで辿りつくと、木村はひと息ついてからベンチへと腰掛け、早速膝の上に置いたハンドバッグへと視線を落とした。
「よぉ〜し、あのホストのお宝はなんだろ……なっ!」
チャックを開け、勢いよくハンドバッグを広げるとその中には鈍く黒光りした、どこからどう見ても拳銃にしか見えない物が入っていた。
木村はしばしの間ピクリとも動くことが出来なかった。
「……いやいやいや、そんな訳ねえよ、うん。そうだ、モデルガンだモデルガン!」
そう言いながらも木村の額には次第に玉の汗が浮かび始めていた。
木村はごくりと生唾を飲み込むと、バッグに手を入れリボルバー型の拳銃を取り出した。手にずっしりとした重量感が伝わる。
木村は辺りを何度も見回し、誰も見ていないことを確認すると、再び拳銃をハンドバッグにしまった。
「もしかして……俺、相当マズいことしちゃった?」
もはや、木村の中で好奇心とスリルは〈恐怖〉へと変わり始めていた。
木村はハンドバッグを固く脇に抱えると、勢い良く立ち上がった。そして、そのまま卒業証書を受け取りに行く卒業生のようなぎこちない足取りで公園を出て行った。
大通りまで出てきた木村は、先ほどの二人組に出会わないように、さりげなく辺りを警戒しながら歩いた。
すると後ろから木村を追い抜かすように、スーツを着た明らかにカタギじゃございませんと顔に書いてあるような大男が現れた。
大男はもうひとり別な男と話をしながら、木村を追い越して行ったが、男達の会話を聞いた木村は戦慄した。
「なぁ、聞いたか? 鮫肌組の話」
「あぁ? 知らねえな」
「何やら、手下のひとりが裏切って拳銃一丁パクって逃げたんだとよ」
「ガッハッハ! なんじゃそら。それで今、鮫肌組はどうしてんだ?」
「手下が裏切ったんじゃ、他のもんに示しがつかねぇってんで血眼になって探してるってよ」
「へぇ〜、ってことは見つかったら、野犬のエサか魚のエサって訳だ!」
再び大男は笑い声をあげ、遠くへと歩き去って行った。そして木村の頭の中に一本の線が繋がった。
「……それじゃあ捕まったら、俺が……エサ?」
木村は誰に言うでもなくそう呟いた。しかしすぐに木村は踵を返し、交差点を渡った。
(冗談じゃない。俺が盗んだのはお宝なんかじゃなかった、これはババ抜きの〈ババ〉だったんだ!)
交差点を渡ると、木村は足早にタクシー乗り場へ向かった。そして客待ちのタクシーの見つけると急いで乗り込む。
「はいはい、どちらまで?」
いきなり乗り込んで来た客に少しばかり驚きながらも、運転手は淡々と尋ねた。
「とりあえず駅まで」
はい、と運転手が答えるとタクシーは滑らかに動き出した。
「お急ぎでしたら、スピード上げますけど」
運転手がルームミラー越しに木村に話しかけた。
「そうですね、なるべく急ぎで」
木村はぎこちない笑顔で答えた。今の木村はこの拳銃の処遇をどうするかで頭がいっぱいだった。
「いやぁ〜、それにしても最近一気に暑くなりましたねぇ」
やれやれと言った感じで話しかけてくる運転手に苛立った木村は、後ろから運転手を睨み付けた。すると目の前にあるプレートに〈本日の乗務員は『神宮寺守』です。安全運転でお送り致します〉と書いてあった。
安全運転するならペラペラ喋るなと、心で罵りつつも、そうですねと適当に調子を合わせる。
「来週には梅雨入りもするみたいだし、ほんと嫌になりますよねぇ〜」
「すいません、今ちょっと考え事してますから」
なおも話題を振ってくる運転手に嫌気がさし、木村は運転手の話を遮った。
「や、これは失礼」
運転手は申し訳なさそうに帽子のつばを持ち、くいっと下げた。
その後も一向に良いアイデアが浮かばぬまま、タクシーは駅前のロータリーへと入っていった。
「えーと、お代は千八百五十円になります」
今だに考えがまとまらない木村は、無意識に自分のではなくマダムの財布を出し、その中からお金を払っていた。
駅に着いた木村だったが、何の考えもなく来てしまったため、すっかりその場に立ち尽くしてしまった。
「一体どうしたらいいんだよ……」
駅前は祝日ということもあり、いつもより人通りも多く、家族連れやカップルがやけに目についた。
そんな中、茫然自失とする木村の前に、遠くの方からひとりの青年が歩いてくるのが見えた。
木村は何気なくその青年を見ていたが、あることに気がつき危うく飛び上がりそうになった。
熱心に携帯と周囲を交互に見ていることから、この街に不慣れな人なのだろうと察した木村は、更にその青年の手元を注視した。
(間違いない! あの男が持ってるのは、俺と全く同じハンドバッグだ!)
これがババ抜きであるならば、負けないためには他の誰かにババを引かせれば良い。木村の頭の中に悪魔の様な計画が出来上がった。
木村は青年めがけて勢い良く走り出した。もちろん途中で立ち止まる気は木村には毛頭ない。
ドンッという鈍く大きな音と共に、木村と青年は正反対の方向に吹き飛んだ。
しかし、木村は視界の端で青年のハンドバッグが宙を舞うのをはっきりと確認していた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
木村は急いで立ち上がると青年に駆け寄った。
「い、いえ、大丈夫です。こちらこそ携帯なんて見ながら歩いていたものですから……」
青年は苦笑して、ゆっくりと立ち上がった。
「あの……これ、落としましたよ」
木村は心配そうな振りをしながら、しれっと自分のハンドバッグを差し出した。
「あぁ、これはわざわざすみません」
青年は恐縮そうに微笑むと、何の疑いもなくハンドバッグを受け取った。
「それじゃあ、ちょっと急いでいるものですから」
そう言うと、木村は近くに落ちていた青年のハンドバッグを拾い上げ立ち上がった。
「そうですか、何もお詫び出来ずすみません」
青年は丁寧に頭を下げた、なんだか急に罪悪感に襲われた木村は早く立ち去ろうと、お得意のはにかみ顔を見せ、小走りにその場を去っていった。
駅の構内へ入り、自動ドアの陰から先ほどの青年の様子を伺ってみたが、青年は再び携帯を見ながら市街地へ向かって歩き始めていた。
(やった……俺はついにやり遂げた……)
木村の心は安堵で満たされていた。そこには数十秒前に感じた罪悪感は微塵も残っては居なかった。
木村はつい、いつもの癖でハンドバッグの中身を検めてしまう。
しかし中には地図や電車の時刻表、人気小説の文庫本といったものばかりで、財布も無ければ金目になるようなものすら入ってはいなかった。
「何だ、シケてんなぁ……」
木村は呆れ気味に呟くと、ハンドバッグの中に一冊の手帳を見つけた。
何気無く手に取った手帳を開くと、一ページ目にはこう書かれていた。
《Name:伊集院光輝》