Loser2.尾崎龍平の場合
【六月十六日 午後九時三十六分】
「待てやぁ! コラァ!!」
空気を切り裂くような鋭い怒声が、繁華街に響き渡る。道ゆく酔っ払いのサラリーマンや派手な服装をした若い女性を次々にかき分け、ひとりの男が人ごみの中から躍り出た。
「勘弁しろっつーの! ……ったく!」
尾崎龍平は、息を切らしながら大通りを曲がり路地裏へと身を翻す。
路地裏を奥へ奥へと疾走して行くと、隣の通りへと出た。尾崎は更に通りを全力で駆け抜けると、公園内の公衆トイレへと身を隠した。
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ」
息を潜めようとするが、大きく脈打つ心臓の鼓動のせいで呼吸もままならない。
すると、遠くの方で追手の声が聞こえた。
「おい、居たか!」
「いや、こっちには来てないッス!」
「お前らそっち探せ!」
様々な方向からドスの利いた声が飛び交っている。尾崎は個室のトイレでうずくまり、自分の体をきつく抱きしめた。体は汗だくにも関わらず、歯がひとりでにガチガチと震える。
「……行った……か?」
尾崎は小さく呟いた。辺りの怒声はすっかり静まり、繁華街ならではの喧騒が少しずつ戻り始めている。
尾崎は携帯を取り出すと時間を確認した。ここに隠れてから既に十分以上経っていた。
尾崎は慎重にドアを開け、トイレから顔を出すと辺りを確認した。周囲には追手はおらず、通行人も少ない。今がチャンスだとばかりに尾崎はそそくさとトイレを出て公園を後にした。
そのまま追手に見つかることなく、尾崎は自分のアパートへ帰ってきた。尾崎の住むアパートは築四十年は経とうかというボロアパートで、廊下を歩く度にぎしぎしと床が鳴る。
「良かったぁ〜、リュウちゃん無事だったんだ!」
玄関のドアを開けると、部屋の中から肩まで伸ばし、白いタンクトップを着た金髪の男がひょいっと顔を出した。
「てめー、誰のせいで俺がこんな目に遭ったと思ってんだよ」
尾崎は金髪の男を睨み付けながら、詰め寄った。
「あーあー、俺が悪かったよう〜許してぇ〜」
金髪の男はふざけた様に両手を合わせ、尾崎にへこへこと頭を下げる。
「大体ヒロキは今日仕事じゃねーのかよ」
尾崎は平べったく潰れた座布団の上にどかっと座ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「今日はオ・ヤ・ス・ミ。売れっ子もたまには休まないとねー、あ、俺もビール〜」
ヒロキと呼ばれた金髪の男は、甘えたように尾崎に言った。尾崎は軽く舌打ちをして、再び冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ヒロキに手渡す。
「そんじゃま、リュウちゃんの無事をお祝いして! 乾杯っ!!」
ヒロキはプシュッとプルタブを開けると、ごきゅごきゅと勢い良くビールを喉に流し込んだ。
「ぷっはぁ〜! やっぱ仕事よりもプライベートで飲む酒の方が百万倍ウメー!」
ヒロキは満面の笑みで尾崎を見たが、尾崎は何か言いたそうにちびちびとビールを飲んでいる。
「……どったの?」
「どーしたじゃねーよ、そもそもヒロキがあの時、拳銃パクろうって言わなきゃ俺はこんなことに巻き込まれてねーの!」
せきを切ったように尾崎が口を開く。
「あーあ! こんなことなら大人しく言われた通りに組に全部拳銃渡して小遣いでももらっとくんだったな〜」
尾崎は天井を見ると深くため息をついた。
「またその話ぃ? だってあの時はリュウちゃんだってノッてくれたじゃん!」
ヒロキが座りながら足をばたばたさせて地団駄を踏む。
「まぁ、そーだけどよ。それだって今考えてみれば、お前はホストだから顔を知られてないかもしんねえけど、俺は何回も事務所に顔出してっからバレてんの! 万が一トラブってもお前には何のリスクもねーじゃん!」
「あ、バレた?」
ヒロキはいたずらっぽく舌を出した。この無邪気な笑顔にハートを射抜かれた数多の女たちは、一体こいつにいくら貢いだのかと尾崎は思うと、余計にヒロキへの憎たらしさが増した。
尾崎龍平は、この街でシノギを削る「鮫肌組」という暴力団事務所で小間使いとして出入りしているチンピラであった。
事の発端は、組から拳銃の取引を任された尾崎が無事に取引を終え、事務所へ戻る道すがらで出会った同居人のこの一言であった。
『すっげー、リボルバーじゃん! これコッソリ一丁もらっちゃおうぜ!』
最初は否定した尾崎であったが、ヒロキの巧みな話術に呑み込まれ(ちょっと借りてみるなら)が次第に(五丁もあるなら一丁ぐらい貰っても)に変わるまでさほど時間はかからなかった。
それから尾崎は、事務所で最初から四丁しか受け取っていないと嘘をついて事務所を出たのだが、不審に思った組員が取引相手に確認してしまったことにより、尾崎の嘘は簡単に露見してしまったのである。
「でもさー、これからどーするつもり? いつまで逃げ切れるかわかんないよ」
ヒロキがテーブルの上に無造作に置かれている拳銃を眺めて言った。
「じきにこのアパートもバレるだろうしな、引越しも考えねーと」
「嫌だよ! 俺はこのアパート超気に入ってんだから」
ヒロキが真っ先に否定したことに尾崎は目を丸くした。
「え、なに? お前こんなボロアパート気に入ってんの?」
「そーだよ、もし引っ越すならリュウちゃん一人で引越しゃいいじゃん」
ヒロキはぷいと顔を横にそむけたが、その態度は尾崎の怒りに火をつけた。
「はぁ?! 誰のせいでこーなったと思ってんだよ!」
「俺はこのテッポウがかっこいいから貰おうって言っただけじゃん!」
二人は同時に立ち上がるといがみ合いを始めた。
するとどこからともなく声が聞こえてきた。尾崎はピタリと話すのを止め、辺りを見回した。
「……なんか聞こえるな、隣の部屋か?」
尾崎は壁に耳をそばだてると、壁の向こうから何やら男の喋る声が聞こえてきた。どうやら男は一人で何か言ってるらしく、尾崎は眉をひそめる。
「え、こいつ何言ってんの? 電話?」
尾崎はふとヒロキを見ると、ヒロキは腕を組み誇らしげな笑みを浮かべて呟いた。
「まぁ、もうちょっと聞いてなよ」
ヒロキの言葉に促され、仕方なく男の喋り声をしばらく聞いていた尾崎だったが、次第に頬がほころび、ついには噴き出してしまった。
「ぶはっ!……何こいつ、漫才やってんの?」
「そーなんだよ、しかも毎回ネタが超面白いの! そこらのつまんねーテレビ番組より百万倍おもしれーよな!」
ヒロキはぷぷっと思い出し笑いを始め、両手を叩いた。
「はっはっは! なるほどねー、こりゃ引越しは見送りたく気持ちもわからんではないな」
尾崎はくつくつと笑いながらヒロキを見た。
「でしょでしょ? 芸人なのかなー?」
「さぁてね、それよりまずは別の方法を考えてみるとするか」
二人は再び座布団に座り直した。するとしばらくして、頬杖をつきながらぽつりとヒロキが口を開いた。
「ねぇ、実は俺、いっことっておきの作戦があるんだけど……」
「なんだよ、期待しねーで聞いてやる」
尾崎はポケットから煙草を出して火をつけようとした。
「逃げるんじゃなくてさ、俺らで鮫肌組をぶっ潰しちゃう……ってのはどう?」
ニヤリと不敵に笑うヒロキを見て、尾崎は指に挟んだ煙草をポトリと落とした。