Loser1.伊集院光輝の場合
【六月二十二日 午後三時四十二分】
重苦しい灰色の雲が空を埋め尽くし、体中にじっとりとした嫌な汗が浮かぶ。
伊集院光輝は、上着のポケットからハンカチを取り出すと額を拭った。
梅雨どきというのは、割と雨が降ることばかりにフォーカスを絞られがちだが、こうやってむしむしと熱気と湿気がまとわりつく曇りの日の方がよほど鬱陶しいと、伊集院は心の中でひそかに悪態をついた。
大通りの交差点を渡ると、伊集院は歩道脇にあるタクシー乗り場へと向かった。
今日は日曜日ということもあって、買い物客やカップルなど、人通りは多かったが、幸いにもタクシー乗り場に待つ客は誰も居なかった。
伊集院は客待ちをしている一台のタクシーに近づくと、すっとドアが開いた。
「はい、どうぞ」
運転手は読みかけのスポーツ新聞を畳み、助手席に置いた。
「それで、どちらまで?」
伊集院が後部座席に乗り込むのを確認してから、運転手は尋ねる。
「ジャルダン・クライスト教会までお願いします」
伊集院は運転手に向かって、流暢に告げた。
「はいよ、ドア閉めます」
再びすっとドアが閉まると、タクシーはゆっくりと滑りだすように発進した。
伊集院は何気なく運転席の裏に取り付けられている、名刺ほどの大きさのプレートを見た。
プレートには〈本日の乗務員は『神宮寺守』です。安全運転でお送り致します〉と書いてあった。
伊集院もなかなかお目にかからないが、神宮寺はもっと珍しい名字だなと、伊集院はぼんやりと考えていた。
「お客さん、これから結婚式か何かですか?」
「えぇ……まぁ、そんなところですね」
ふいに運転手から声をかけられた伊集院は曖昧に答えた。
「……それ、なかなか良いブランドのスーツでしょ? 私こう見えてもファッションのことに詳しいんですよ」
運転手はルームミラー越しに伊集院を見ると、笑みを見せた。
一見して、神宮寺という男はどこにでも居そうな風貌の中年男にしか見えなかった。
しかし、実際に伊集院の着ているスーツは一昨日買ったばかりの一着二十万円を超える程の高級ブランドであったため、伊集院は内心小さな驚きをおぼえた。
「えぇ、よく気づきましたね。この日のために買ったばかりなんですよ」
伊集院はスーツの良さに気づいてもらったことに気を良くしたのか、運転手に向かってこう言葉を続けた。
「でも運転手さん。僕ね、これから行く結婚式……実は招待状を受け取ってないんです」
「……はい?」
運転手はまるで言葉が聞き取れなかったかの様に、顔を少しだけ左に背ける仕草を見せた。
「言葉通りですよ。どうせここからなら近道したって五〜六分はかかりますから、聞いてもらえます? 僕の話」
そう言って伊集院は少しはにかんだ。
「あ、はぁ。どうぞ……」
運転手は突然の告白に面食らったような表情を見せると、その後は伊集院の言葉を促すように閉口した。
「僕ね、前に六年間付き合っていた女性がいたんですよ。でも、ある日突然彼女は僕の前から姿を消してしまったんです。僕に何の相談もないまま」
伊集院はどこか遠い目をしながら、窓の景色を眺めていた。
「それから必死になって彼女を探しました。彼女の知人や友人に片っ端から話を聞いてみたり、私立探偵にまでお願いしたりしてね」
伊集院がとうとうと話を続ける中、運転手は無言でハンドルを握っていた。
「そうしたら、半年かかってようやく見つかったんですよ。僕の住んでいる所から遠く離れたこの街で。しかも驚いたことに彼女はこの街で結婚式を予定していました。この事実を知った後、三日間は何も食べることができませんでしたけどね」
伊集院は自嘲するような薄ら笑いを浮かべた。
「そ、それじゃあ今から行く教会って……」
首筋や背中にじわじわと汗がにじむのを感じた運転手が、思わず口を挟んだ。
「ええ、その彼女の結婚式が今日、ジャルダン・クライスト教会で行われるという訳です」
伊集院はルームミラーを見てニッコリと微笑んだ。その笑みにはどことなく異様な雰囲気が漂っている。
「失礼ですが……行ってどうなさーー」
「僕の話はこれでおしまいです。ここで停めて下さい、ここからは歩いて向かいますから」
伊集院は運転手の言葉を遮ると、財布の中から一万円札を出しコンソールボックスの上にあるトレーに乗せた。
「お釣りはとっておいて下さい」
そう言うと伊集院は自分でドアを開け、外へと出て行った。
「あ、ちょっとお客さん!」
運転手が振り返り、一万円札を返そうとしたが伊集院はそのまま歩いて行ってしまった。
その時、運転手は伊集院の腰のベルトの辺りに拳銃の様なものがちらりと見えた気がして、ピクリと体を硬直させた。
そしてしばらくの間、遠ざかって行く伊集院の後ろ姿を呆然と見送っていた。