叔父が、わたくしを捨てる遺言状を掲げた——父が名を二度書くのは、娘を愛したときだけですのに
燭台の下で、遺言状のインクだけが艶を返していた。
弔問の広間は蜜蝋の煙と、封蝋の焦げた匂いで満ちている。卓に並んだ父の書付はどれも古びて艶を失っているのに、その一通だけがまだ濡れているように黒い。書かれてまだ幾日も経っていない紙の黒だ。
わたくしは喪服の膝で両手を重ね、伏し目のままその黒を見ていた。
「亡き兄アルマンの遺言状である」
後見人の叔父ヴィクトルが、それを高く掲げた。声は広間の隅々まで届くようによく張られている。
けれど叔父はその文字を、自分の目で追おうとはしなかった。読み上げる言葉は、あらかじめ誰かに教わったように、よどみない。紙を見ているのに、紙を読んではいない。
「家督は弟たる私が預かる。姪アデルは我が子ロランへ嫁ぐ。——兄の、はっきりとした遺志だ」
広間がざわめいた。喪の席で家督が動くのは早すぎる、という囁きだ。だが誰も叔父を止めはしない。父が死んでまだ一夜も明けていないというのに。
わたくしは顔を上げなかった。
悲しみに沈んだ娘。今宵のわたくしはそれでいい。扇を口元に寄せて伏し目をもう少し深くする。泣くふりはしなくていい。父が死んだのは、本当のことだから。
ただ——その一点だけが目に刺さっていた。
遺言状の末尾に、父の署名。娘を家督から外し、従弟へ嫁がせる——そんな紙の、その署名のすぐ脇に、わたくしの名が書き添えてある。
そこに、わたくしの名が二度。
「アデル」の上に薄く重ねて、もう一度「アデル」。
指先がすっと冷えた。
父が名前を二度書くのは、愛したときだけ。それはこの家の誰も知らない、父とわたくしだけの決めごとだった。娘を捨てる紙に、その印があるはずがない。
わたくしは扇をほんの少し傾けた。心の中でだけ、叔父に返す。
——叔父さま。あなた、読めなかったのね。
けれどまだ何も言わない。二度書きひとつでは足りない。この紙が偽物だと証すには、父の手そのものを並べて見せなければならない。手札は、伏せたまま。
わたくしは悲しみに沈む娘の顔で、静かに一礼した。
——あれは、まだわたくしの背が父の腰ほどしかなかった頃のこと。
初めて自分の名を書けた日、わたくしは羊皮紙の隅に「アデル」と書いて、その上からもう一度なぞった。
「どうして二度書くんだい」
父が大きな手で羽根ペンを直しながら訊いた。
「とうさま、これ、消えちゃう?」
「どうかな。薄い墨だと、消えることもある」
「じゃあ、二度書く。消えたら、いやだから」
父は少し笑った。それから自分の証書の一枚を取って、末尾の署名の脇にわたくしの名を書き添えた。一度。それからその上に、もう一度。
「じゃあ、父さまもこうしよう」
「どういうとき?」
「アデルを心から想って書いたものにだけ、こうする」父は朱肉のついた指で、二度目の「アデル」を撫でた。「消えないように、二度。お前を叱る紙には書かないよ」
「じゃあ、二度書いてあったら、それは……」
「父さまが、アデルを大好きだって印だ」
寄進状、贈与状、わたくしへの祝いの文。父の書斎の証書のうち、名が二度書かれているものは数えるほどしかなかった。けれどその数えるほどが、父の愛のかたちだった。
だからわたくしは署名を読む娘になった。
五年前、まだ父が健やかだった頃、父はわたくしに一枚の贈与状を交わしてくれた。
家の証書と印章を、娘に託す、という公的な証書だ。「アデルが、この家の書付を守る」。末尾には、父の端正な署名。震えなど、まだどこにもない。そしてその脇に——わたくしの名が、二度。
「これで、お前は正式にこの家の証書番だ」父は少しおどけて、わたくしに印章を渡した。「重いだろう。名前ぶんだけ、重いんだよ」
その贈与状は、控えが公証院に納められ、原本は父の書斎の抽斗に大事にしまわれた。わたくしが「読む娘」になった、いちばん最初の紙だ。
その背骨が、初めて役に立った日のことを、よく覚えている。
ある村の代官が、徴税免除状を持ってきた。前の領主さまの署名が入っている、去年から効いている免除だ、と代官は言った。父はもう署名の実務をわたくしに任せていたから、わたくしがそれを検めた。
立派な署名だった。前の領主の名が、堂々と、末尾に据わっている。けれどわたくしは書庫から去年の証書を出して、並べてみた。
そっくり同じだった。
「お父さま。これ、偽物です」
「ほう。どうして分かる」
「去年の署名と、寸分違いません。同じ人の手なのに、寸分違わないんです。……人の手は、こんなに正しく、二度は書けないもの」
父は二枚を長いこと見比べて、それから、静かに笑った。
「よく見つけたな、アデル。手本を下に敷いて、なぞったんだろう。急いで写すと、こういう、死んだみたいに正しい線になる」父は免除状を光に透かした。「本物は毎日どこかが違う。だから、そっくり同じというのは、それだけで嘘の証さ。……お前は、いい目を持っているよ」
褒められて、嬉しかった。それ以上に——本物の署名が、毎回わずかに揺れて、生きていること。それが偽物と本物を分ける、たった一つの境目だということ。あの日、わたくしはそれを体で覚えた。
代官は、罰せられた。父はその村の免除を、本当に一年延ばしてやった。「悪いのは代官で、村人ではないからな」と言って。
父の病が重くなってから、証書の実務は、いよいよわたくしの手だけに移った。
契約、寄進状、徴税免除状、そして印章。北の要衝を統べる公爵家の紙は、日に何通も動く。わたくしは父の手足として、それを回した。
「アデル、この徴税免除状、期日を一年延ばしておくれ」
「もう三度目ですわ、お父さま。あの村の代官、甘やかしすぎです」
「まあ、そう言うな。今年は不作だ」
「不作は去年もでしたけれど?」
「……お前は、私より領主に向いているな」
わたくしが署名を運ぶと、父はそれを検めて、自分で名を書いた。上位の貴族には、読み書きを下々の仕事と侮り、証書を人任せにする者もいる。叔父が、そうだった。父が病がちになってから、叔父は妙な動きを見せた。後見の名を先取りするように、家の古い証書を「整理する」と言って、少しずつ自分の手元へ移していたのだ。けれど父は必ず自分で読み、自分で署名した。
その父の名が、月を追うごとに震えはじめた。
払いの終いがためらう。線が細かく揺れる。去年の署名と今年の署名を並べれば、揺れの差ははっきりと見えた。病が父の手を少しずつ奪っていく。わたくしはそれを、誰より近くで見ていた。
「お父さま。手が」
「……ああ。近ごろは、名を書くのがひと仕事でな」
「代わりに書きましょうか」
「馬鹿を言え」父は震える手で、それでも自分の名を書いた。「署名だけは、人にやらせるものじゃない。アデル、覚えておおき。同じ手は、二度と同じには書けない」
「同じには?」
「今日の父さまの名と、明日の父さまの名は、どこかが違う。生きている手というのは、そういうものだ」父は書き上げた名を、そっと見せた。「だからね、本物は真似できない。真似た瞬間に、その紙は、自分が偽物だと白状する」
「白状?」
「そう。嘘つきの署名は、必ずどこかで、口を滑らせるのさ」
父の生きた署名は、毎日どこかがわずかに違った。震えの位置も、払いの強さも。同じ日は二度と来なかった。
わたくしはその言葉を、背骨のようにして育った。
父は急に逝った。
朝、いつものように書斎へ呼びに行ったら、もう冷たくなっていた。手には、まだ羽根ペンが握られていた。書きかけの何かが、あったのかもしれない。
けれど卓の上はきれいだった。父がいつも古い証書と書簡をしまっていた抽斗が、半分ほど開いて、空になっていた。誰かが、わたくしより先に、この部屋を検めていた。あの贈与状の原本も、いつの間にか、消えていた。
そのときのわたくしはまだ、そこに意味を結べなかった。父が死んだ、それだけで、頭がいっぱいだったから。
その夜、叔父は遺言状を掲げた。わたくしには、それを手に取る機も、一言の弁明も与えられなかった。
「見せてください、叔父さま。父の遺言状を、この目で」
「悲しみで、気が触れたか」叔父は嗤った。「娘の世迷い言を、誰が真に受ける。喪が明けたら、ロランと式を挙げるのだ。それが兄の遺志だ」
「……せめて、日付だけでも」
「くどい。下がっていろ」
従弟のロランは叔父の陰で、わたくしと目を合わせなかった。彼もまた、父の野心の駒に過ぎない。
わたくしは伏し目のまま、頷いた。
その数日は、長かった。
わたくしは自分の屋敷にいながら、客のように扱われた。父の証書に触れることも、印章を検めることも、許されない。「気の触れた娘に、大事な紙を触らせるわけにはいかん」というのが、その理由だった。
喪の面をかぶり続けていると、ときどき、こわくなる。伏し目をつくり、悲しみを演じているうちに、自分の本物の悲しみまで芝居に見えてくる。父が死んだのは、本当のことなのに。泣かないわたくしは本当に、父を悼んでいるのだろうか。——それとも、もう、証拠のことしか、考えていないのだろうか。
従弟のロランが、一度だけ、部屋に来た。
「アデル。式のことだが」彼は壁のあたりを見て言った。「喪が明けたら、すぐに、と父上が。……悪く思わないでくれ。私も、こういうのは」
「ロランさま」わたくしは穏やかに遮った。「一つだけ。あなた、父の遺言状を、ご自分の目で読みました?」
「読む? そんなもの、父上が読み上げたのを聞いたよ」
「そう」わたくしは微笑んだ。「では、あなたも、読めない側なのね」
ロランは、意味が分からないという顔で、部屋を出ていった。彼も、駒だ。読めぬまま、盤の上に置かれている。
わたくしは伏し目を保ちながら、指の腹で卓の縁を三度撫でた。署名をなぞるときの、癖だ。心の中で、父の署名を思い返す。遺言状の日付は、父の、最後の週だった。あの週、父は名の払いさえ、ためらっていた。なのに、あの署名は。
あの署名は、震えていなかった。
けれどまだ確信ではない。並べる父の手が、わたくしの手元にはない。公証院に控えられた、父の署名の控え。あれを七通も八通も並べられたなら。
わたくしは手札を伏せたまま、数えていた。
ジュリアンが訪ねてきたのは、それから幾日か過ぎた、雨の夕方だった。
王立公証院の若き記録官。父の証書を何十通と検め控えを取ってきた男だ。実の父の看取りで、半年ほど職を離れていたと聞いた。喪中の屋敷に平民あがりの記録官が現れたのを女中は眉をひそめたが、わたくしは彼を亡父の書斎へ通した。
書斎は、もう見張られていなかった。めぼしい証書を叔父に持ち去られたあとの部屋を、わざわざ見張る者はいない。皮肉なことに、空にされた部屋だけが、わたくしの自由になった。
「お嬢さま」
ジュリアンは地味な外衣の下から、布に包んだものを取り出した。几帳面に磨いた玻璃のレンズを、胸に提げている。
「無礼を承知で参りました。……これを」
布を開くと、父の署名の控えが七通。
「これ、公証院の……」
「持ち出しました。規則を破って」ジュリアンの声は硬いのに、目だけが証書の上で生きていた。「記録官の職を賭けています。それでも、来ずにいられなかった」
「どうして」
「あの遺言状の署名が、どうしても呑み込めないのです」彼はまっすぐわたくしを見た。「最後の週の日付なのに、震えがひとつも無い。……あなたの父上の署名を、いちばん見てきたのは、たぶん私です」
わたくしはしばらく言葉が出なかった。
世間は、わたくしを「気の触れた娘」と呼んだ。ロランは目を逸らし、女中は眉をひそめた。誰も信じなかった。そのなかで、この不器用な記録官だけが、数と番号の側から、たった一人あの紙を「おかしい」と言った。
わたくしは女中が置いていった焼き菓子を一つ口に運んだ。舌の上で砂糖がほどけると、なぜだか、皮肉が冴える。
「ずいぶん遠回りをして来たのね。公証人どの」
「番号の照合に、時間がかかりまして」
「言い訳まで几帳面なのね」
「……面目ない」
「いいえ。そういうところ、嫌いじゃないわ」
ジュリアンの耳が、ほんの少し赤くなった。硬い記録官が、こういうときだけ、うまく隠せないらしい。
わたくしは菓子の欠片を指で払った。「座って、ジュリアン。父の手を、並べましょう」
わたくしたちは七通を亡父の書斎の卓に、日付の順に並べた。
いちばん古いものから、いちばん新しいものへ。左から右へ。
「見て、ジュリアン」わたくしはいちばん左を指した。「三年前の署名。払いがまっすぐ。震えはほとんど無いでしょう」
「はい。ここから、順に見ていきましょう」
二通目。半年後。払いの終いがわずかに揺れる。三通目。そのまた半年後。線が細かく震えはじめる。四通目、五通目——月を追うごとに、父の名は揺れを深くしていく。六通目では払いが途中でためらって、線が二度、途切れていた。
「見て、この払いの止まり方。ここで一度、息を継いでいるの。前の年はこんなふうに迷わなかったのに。それはね、寒い朝ほど手がこわばって——」わたくしは指で宙をなぞりながら、つい、語りに熱がこもる。「……あ」
「どうぞ、続けてください」ジュリアンが、少しだけ笑った。
「……つい。父のことになると、止まらなくて」
「病が進んでいくのが、署名だけで分かりますね」ジュリアンが玻璃を眼に当てた。「日付を追えば、手がどれだけ弱っていったか。……これが七通目。最後の月です」
七通目の署名は、痛々しいほど震えていた。名の一画一画が、細かく波打っている。これが、死の一月前の父の手。
わたくしはそれを見て、少しだけ泣いた。
凱旋の涙ではない。半年も遅れてやってきた、ただの悲しみだ。父の手がこんなにも弱っていたのを、わたくしは知っていたのに。何もできなかった。
そしてこわい考えが、ふとよぎる。——本当に、わたくしは愛されていたのかしら。あんなにも堂々と、娘を捨てる紙に名を書かれて。父は最後に、わたくしを疎んじたのではないか。喪の面の下で、その疑いだけが、冷たく育っていた。
「……お嬢さま」
「大丈夫。続けましょう」わたくしは指先を布で拭ってから、記憶の中の一枚を七通の右端に思い浮かべた。「あの夜、叔父さまが掲げた遺言状。日付は、父の、最後の週。この七通目の、さらに後よ」
「最後の週なら」ジュリアンが、七通目の震えを指した。「この痛々しい手より、もっと弱っているはず」
「ええ。もっと震えて、いなければおかしい。……なのに、あの署名は」わたくしは宙に、その形をなぞった。「震えて、いなかったの。払いはまっすぐ。線は、揺れひとつ無く端正で、まるで健やかだった頃みたいに」
「日付と体が、合わない」ジュリアンの声が低くなった。「最後の週に、あんな署名は書けない」
「そう。生きている手なら、日ごとにどこかが違うはず。なのに、あれだけが——揺れが無さすぎるの」
「まるで、写したような」
わたくしとジュリアンの目が合った。
「なぞったのよ、ジュリアン。震えの無い、古い署名を。手本を下に敷いて、上から」わたくしは遠い日の代官の免除状を思い出していた。死んだみたいに、正しい線。「では、なぞる手本にした、震えの無い署名は、どこにあったのかしら」
「アルマン公が、健やかだった頃の署名です」ジュリアンは束を繰った。「……私の控えに、五年前の贈与状があります。あなたに証書と印章を託した、あの一枚。端正な、震えの無い署名の」
「その原本は」わたくしは空になった抽斗を見た。「父の書斎に、しまってあった。……父が死んだ朝には、もう、消えていたわ」
「消えていた」
「後見の名で、古い証書を『整理する』と言って集めていたのは、叔父さまよ。あの贈与状の原本を握れたのは、叔父さま、ただ一人」
部屋の空気が、しんと張りつめた。
完全な一致は、「これは偽物だ」と言うだけではない。「誰がなぞったのか」を、同時に指す。読める者を遠ざけてきた叔父が、いちばん端正な手本を握り、それをなぞっていた。
「けれど」ジュリアンが、慎重に言った。「今のは、私たちの読みです。手本にした贈与状の原本は、叔父どのの手の中。遺言状の原本も、宣誓の場でしか掲げられない。この目で確かめられるのは」
「宣誓の場、ただ一度」わたくしは頷いた。「原本の遺言状を、控えの署名と並べて、玻璃で検める。敷き写しなら、生きた手には決して出ない証が、必ず残っている。それを衆目の前で。……あそこで、初めて」
「間に合わせましょう」ジュリアンは七通を、そっと揃えた。「あとは、あなたが読むだけです」
「勝てるかしら」
「番号は嘘をつきません」
わたくしは遺言状に二度書かれた、自分の名を思い出した。あれも、贈与状から写したものなら。……そこまで考えて、指が止まった。
あの二度書きが何を意味するのか。今、それを確かめるのが、こわい。もし違ったら。もしあれが本当に父の遺志だったなら、父は最期に、わたくしを捨てたことになる。
わたくしは、その問いに蓋をした。答えは、この胸の内では出せない。原本の遺言状と、贈与状の控えを、衆目の前で並べたとき。そのときに、初めて分かる。
わたくしは喪の面をゆっくりとたたんだ。
もう、沈むふりはしない。家督のためだけではない。父がわたくしに遺したものの正体を、この目で確かめて、取り戻すために。
「ジュリアン。一つ訊いていい?」
「はい」
「平民あがりの記録官が、公爵令嬢のために職を賭けた。……あなた、損な性分ね」
彼は少し困った顔をして、それからぼそりと言った。
「番号は嘘をつきませんが、私は、あなたのことも同じくらい信じているだけです」
わたくしはその不器用な言い方に笑ってしまった。喪が明けてから、初めて。
家督継承の宣誓の場は、公爵家の大広間で開かれた。
王の使者、公証院の立会人、居並ぶ貴族たち。ヴァレンヌの家督が正統に叔父へ渡る——はずの席だ。
叔父ヴィクトルが、遺言状を掲げた。今日もまた、その文字を、自分の目で追おうとはしない。
「亡き兄の遺言により、家督はこの私、ヴィクトル・ヴァレンヌが継ぐ。姪アデルは我が子ロランへ嫁ぎ、家の血を絶やさぬ」
立会人が、進み出ようとした。そのとき。
「——お待ちを」
わたくしは喪服のまま、広間の中央へ進んだ。伏し目の娘は、もういない。背筋を伸ばして、まっすぐ卓へ向かう。
手には、七通の控え。
「悲しみで気が触れたか」叔父が声を張った。「娘の世迷い言など——」
「叔父さま。少しだけ、お時間を」わたくしは卓に、七通を並べはじめた。日付の順に。左から、右へ。「これは、父の署名の控えですわ。公証院に、番号と登録日つきで控えられていたもの」
ジュリアンが立会人の側から、静かに頷いた。制度の側の裏づけだ。
「三年前。二年前。一年前。半年前」わたくしは一通ずつ、指し示した。「ご覧のとおり、父の署名は、日付が進むほど震えていきます。病で、手が弱っていったから。生きている手というのは、そういうもの」
貴族たちが、身を乗り出す。
「叔父さま。恐れ入りますが、その遺言状を、こちらへ」
わたくしは手を差し出した。叔父の顔が、こわばる。だが衆目の前だ。拒めば、それだけで疑わしい。叔父はしぶしぶ遺言状を卓に置いた。
わたくしはそれを七通の右端に並べた。父の、最後の週の日付。
署名。ひとつ。それだけ。
最後の週の署名だけが、震えず端正に、そこにあった。
「同じ手は、二度と同じには書けません。生きた手なら、日ごとに揺れるはず。それが病の最後の週なら、なおのこと」わたくしは遺言状の署名に指をかざした。「なのに、これだけが、震えていない」
わたくしはジュリアンに目配せした。彼が、五年前の贈与状の控えを、卓に置く。わたくしの名が、二度書かれた、あの一枚。
その署名を、遺言状の署名の、隣に並べた。
二枚は、寸分違わず、同じだった。
「五年前の、父の贈与状。この署名を、敷き写したのです。だから震えが無い。だからそっくり同じ」わたくしは静かに言った。「同じ手は、二度と同じには書けません。——これだけが、そっくり同じですの」
広間が、しんと静まった。
「立会人どの。玻璃で、遺言状のその署名を、検めてくださいますか。なぞった線が、二重になっているはず。強く押しつけた、凹みも」
公証院の立会人が、玻璃を受け取り、遺言状に顔を寄せた。長い沈黙のあと、立会人は王の使者に向き直った。
「……申し上げます。この署名には、なぞった二重の線と、押しつけた凹みが認められます。控えの番号・登録日は公証院の記録に符合。日付と筆勢の矛盾、明白にございます。——この遺言状は、敷き写しの偽造にございます」
広間が、どよめいた。
「偽物、だと」「では、あの遺言状は」「後見人が、姪御を……」
貴族たちの囁きが、波のように広がっていく。さっきまで叔父の側にあった空気が、潮のように引いて、こちらへ寄せてくる。誰かが、はっきりと声に出した。「読めなかったのだな、あの男は」。
叔父の顔から、血の気が引いた。
わたくしは遺言状の末尾——父の署名のすぐ脇、わたくしの名が二度書かれたところに、指を移した。
「それに、これ。わたくしの名が、二度。……これも、五年前の贈与状から、署名ごと丸ごと敷き写したのですわ」わたくしは叔父を見た。「父が名前を二度書くのは、愛したときだけ。……叔父さまは、その愛の印だとも知らずに、飾りだと思って一緒になぞった。娘を捨てる紙に、父の愛の印を」
「な、それが……」
「父が、わたくしを捨てる遺言など、書くはずがないのです。だって、ここに、二度」
言いながら——その瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。今、初めて分かった。この二度書きは、父が最期にわたくしへ遺した言葉ではない。五年前、まだ健やかだった父が、わたくしを想って書いた、あの一枚のもの。あの場所に蓋をしてきた問いの答えが、ここに二度、書かれている。——父は、わたくしを捨ててなど、いなかった。
喪が明けてから、こらえていた涙が、ひとつだけこぼれた。けれど、それだけ。わたくしは目もとを拭って、まっすぐ前を見た。ここで泣くのは、すべてが終わってからでいい。
叔父は遺言状を裏返した。表を、また返した。近くの廷臣に、それを突きつける。
「読め。どこが偽物だ。読んでみせろ」
けれど廷臣は、後ずさった。読める者は、叔父の側には一人も立っていなかった。読める者を、叔父が遠ざけてきたのだから。
「……悲しみで、気の触れた娘のたわ言だ」叔父の声が上ずった。「そうだ、公証人が。公証人が控えを偽ったのだ。家令が——家令が仕組んだに違いない」
公証人のせい。家令のせい。叔父は、罪をなすりつける先を、次々と探して回る。
そのとき、叔父の目が卓の上で止まった。震えのある七通と、震えの無い一通。そして二度書きされたわたくしの名。何かに気づきかけるように、目がそこで止まった。
——あれは、いたずらでは、なかったのか。
叔父の唇が、そう動いた気がした。けれど叔父は顔を背けた。認めれば、姪の愛の印を飾りだと思って握り、笑っていた男になる。だから認めない。認めないまま、崩れる。
「頼む……家督は、いい。家名だけは、家名だけは残してくれ……」
さっきまで広間を打っていた声が、今は、床に落ちた紙より小さい。
広間の、誰も口をきかなかった。羽根ペンを走らせる立会人の、かすかな音だけが、天井の高いところで響いていた。
わたくしは叔父を見て、ただ静かに言った。
「読めなかったのは、わたくしではありません。……あなたです、叔父さま」
後見の任を解かれた叔父は沙汰を待つあいだ、父の書斎に籠もっていた。
わたくしが様子を見にいくと、叔父は卓に向かって、父の名を何度も書いていた。「アルマン・ヴァレンヌ」。それを、また、なぞろうとして。
けれど叔父の手は震えていた。
一枚として、そっくり同じには書けない。当たり前だ。生きた手は、二度と同じには書けないのだから。叔父は五年前の贈与状を握り締めて、繰り返していた。
「たかが、娘の、いたずらの癖が……たかが、癖が……」
書斎じゅうに、書き損じの紙が散らばっていた。そのどれもが、父の署名とは似ても似つかない。一字も読めぬまま、叔父は震える手で、なおも名を書き続けていた。
わたくしは何も言わずに戸を閉めた。
公証院の記録官が、名簿を開く。
ヴァレンヌの家督者の欄に記された「ヴィクトル・ヴァレンヌ」の名に、羽根ペンが横へ、一本の線を引いた。墨が、じわりとにじむ。たった一本の線で、その名は消えた。
従弟ロランとの縁談は、どこの家にも通らなかった。「遺言状ひとつ、本物に書けなかった男」——社交界では、それが愚か者の代名詞になった。子どもたちが、遊びの捨て台詞に使う。「お前の書いた手紙なんて、叔父さまの遺言状みたいだ」と。
わたくしは正統な女公爵としてヴァレンヌの家督を継いだ。
宮廷は、わたくしに都へ留まるよう勧めた。けれどわたくしは北の要衝へ、自ら赴く道を選んだ。父が守った、海と国境の地だ。あそこの民は、身分より実を見る。わたくしの署名が本物かどうかを、ちゃんと読んでくれる人たちだ。
そして父の署名の控え、七通。それに、五年前の贈与状も。あれを公爵家の宝として、公証院に永く残すことにした。父の手が生きていた証を。父が、わたくしを愛していた証を。
旅立ちの支度が整った、よく晴れた朝。
ジュリアンが、書斎の戸口に立っていた。相変わらず地味な外衣。胸に、玻璃のレンズ。
「お嬢さま。書類をお持ちしました」
「もう、公証院の記録官には戻らないのでしょう?」
「ええ。北の統治には、証書を検める者が要ります。……お役に立てるかと」彼は書類を差し出した。それきり、次の言葉が続かない。「では、私は、これで」
ジュリアンは一礼して、戸口を出ていこうとした。公爵令嬢と、平民あがりの記録官。彼はその線を、越えないつもりなのだ。
わたくしはその背に、声をかけた。
「ジュリアン。番号の照合には、時間がかかるのでしょう?」
彼の足が、止まった。
「……はい」
「なら、一生かけて、照合なさい。わたくしの隣で」
ジュリアンは振り返った。喉の奥で小さく咳をして、それからまっすぐにわたくしの手を取った。
「いちばんいい門出の日を、一緒に選びませんか。……アデルさま」
アデルさま。
彼が初めて、わたくしの名を呼んだ。
わたくしはその手の温かさに、指先がじんわりとあたたまるのを感じた。あの夜、遺言状の前ですっと冷えた、この指が。
「ええ。喜んで」
その日の午後、わたくしは一枚の証書に、自分の名を書いた。
ヴァレンヌの家督を継ぐ、受けの証。末尾に「アデル・ヴァレンヌ」と署名して、その上にもう一度なぞる。
父が、愛して書いたものにだけこうしたように。今日は、わたくしが、自分の名に二度書く。愛のために。生きて、愛される証として。
卓の上に、書き上げた証書が一枚。
「アデル」の上に、もう一つの「アデル」が、消えないようにきちんと重なっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「ミステリ暴露型ざまぁ」の王道です。証拠を並べて、悪役が自分の手で自滅する——ベタですが、だからこそ気持ちいい。今回はあえて、悪役を「家族(後見人の叔父)」に置きました。他人の悪意より、身内の裏切りのほうが、取り返すべきものが重くなる気がして。
偽造の決め手を、魔法でも自白でもなく、「同じ手は、二度と同じには書けない」というただ一つの真実に絞ったのが、この話のこだわりです。生きている手は、日ごとにどこかが違う。だから、そっくり同じなら、それは敷き写し。叔父が排斥に使った「本物らしさ」が、そのまま偽造の証になる——読めない人ほど、読めないものを「飾り」だと思ってしまう、というところが、書いていて一番痺れました。
そして、父が娘の名を二度書いたのは、愛したときだけ。真贋を見抜く技術と、愛の証が、同じ一点で交わる。娘を捨てる遺言に見えたものが、実は、父が愛して書いた紙を盗んでなぞったものだった——冒頭で「捨てられた愛の印」に指が冷えたアデルが、結びでは、自分の手で、愛のために名を二度書く。同じ二度書きの意味が反転するところを、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
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