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死んでから届いた、あなたの心の声

作者: 霧原 澪
掲載日:2026/04/02

 目が覚めたら、棺桶の中だった。


 三日連続の徹夜明け、会社からの帰り道で意識が途切れた——らしい。


 らしい、というのは、正直よく覚えていないからだ。

 気がついたら白い天井が見えて、なんだか妙に窮屈で、周りに花の匂いがして。


 ……いや待って、これ棺桶じゃない?


 慌てて起き上がった。

 というか、すり抜けた。

 体が棺桶の蓋を通過して、私はふわりと宙に浮いた。


 自分の手を見る。

 向こう側が透けている。


(あー……死んだのか、私)


 驚くほど冷静だった。

 たぶん、どこかでわかっていたんだと思う。

 限界だったことくらい、自分が一番知っていた。


 見慣れた顔がちらほら並んでいる。

 黒い服。白い花。読経の声。

 祭壇には私の写真が飾ってあった。

 社員証の写真を引き伸ばしたらしい。目が半開きだ。


(もうちょっとマシな写真なかったの……?)


 いくら独身の一人暮らしでも、スマホの中にはもう少しましな自撮りくらいあっただろうに。


 私の葬式だ。

 しかも、あんまり盛大じゃない。


 *


 最初に立ち上がったのは、部長の田所さんだった。


 黒いネクタイを締めて、咳払いをひとつ。

 A4の紙を広げて、弔辞を読み始める。


「故・藤宮彩乃さんは、我が社の宝でした」


 紙を持つ手がまっすぐで、声も落ち着いている。

 知らない人が見たら、さぞ部下思いの上司に見えるだろう。


 でも——田所さんの心の声が、はっきりと聞こえた。


(早く終わらないかな。十四時から会議なんだよな。資料まだ確認してないし)


 ……おい。


「彼女は誰よりも仕事を愛し、常に笑顔で——」


(この弔辞、総務の山下に書かせたんだけど、長すぎるな。半分に削れって言ったのに)


 自分で書いてすらいない。


「趣味はガーデニングで、休日には花を育てることを楽しみにしていたと聞いています」


(あれ、ガーデニングだっけ。釣りだっけ。まあいいか)


 どっちも違う。

 私の趣味は深夜アニメの一気見だ。

 ガーデニングなんてやったことない。

 植物は枯らす側の人間だ。


「好きな食べ物はお寿司で——」


 焼肉だよ。


「——入社当初から笑顔を絶やさず——」


(笑顔……? あの子笑ってたっけ。まあいいや、故人を悪くは言えないしな)


 入社当初なんて毎日泣きそうな顔してたよ。

 覚えてないのはいいけど、捏造しないでほしい。


「——社内のムードメーカーとして——」


 私は基本無口だよ。


「——皆に愛された、かけがえのない存在でした」


(よし、三分で収まったな。上出来だ)


 達成感に満ちた心の声とともに、田所さんが紙を畳む。


(あとは焼香して、十三時半には出れば間に合うか)


(……しかし、三十二か。若いな)


 ——一瞬だけ、田所さんの心の声が小さくなった。


(俺も去年、健診で引っかかったんだよな。まあいいか。今日は会議だ)


 私のこと何も知らないじゃん。

 六年同じフロアにいて、何ひとつ合ってない。


 でも、田所さんなりに、一瞬だけ立ち止まりはしたのだ。

 一瞬だけ。それが、あの人の精一杯なんだろう。


 *


 次に目についたのは、同期の真奈だった。


 ハンカチで顔を覆って、肩を震わせている。

 一見すると、号泣。

 隣の人がそっとティッシュを差し出すくらいには、それらしく見えている。


 でも、心の声は——。


(窓際のデスク空くよね)


 泣いてない。


(あそこ日当たりいいんだよな。冬は暖かいし、夏は観葉植物がよく育つし)


 いや観葉植物の心配してる場合じゃないでしょ。


(総務に異動願い出そうかな。いや、でも直属の上司に言いにくいし……。あ、弔慰金っていくらだろ)


 真奈がちらっとハンカチの隙間から会場を見た。

 目が全然赤くない。


(あ、花がきれい。あとで種類聞こ。……あ、誰に聞けばいいんだろ。葬儀屋さん?)


 自由か。


(ていうか藤宮さんの私物、誰が片付けるんだろ。あの引き出しの中のお菓子、まだ賞味期限大丈夫かな)


 一周回って清々しい。

 これはこれで、真奈らしい。


(ていうか私の葬式、平日なんだ。休み取ってくれたんだ)


 ……そこは素直にありがたいと思った。


(有給使ったの痛いな。来月の旅行の前に使いたくなかったんだけど)


 前言撤回。


 人の死に対する温度差って、こういうものなのかもしれない。

 別に悪い子じゃない。ただ、私と真奈の関係はそのくらいだった。

 デスクが隣で、たまにお菓子を分け合って、飲み会では隣に座る程度の「同期」。

 深い話をしたことは一度もない。

 ——でも、私だって、真奈のことどのくらい知ってた?

 来月の旅行が誰と行くのかも知らない。考えたこともなかった。

 お互い様だ。


(帰りにコンビニでプリン買おう。あ、焼きプリンにしよ)


 焼きかどうかはどうでもいいだろ。


 *


 ざわめきが少し静かになった。


 焼香の列に、見覚えのある背中が並ぶ。


 ——裕也だ。


 幼馴染の裕也。

 小学校から大学まで、腐れ縁みたいにずっと近くにいた男。

 就職先が離れてからは会う頻度が減ったけど、年に数回は「飯行こうぜ」とLINEが来る。

 来ていた。


 焼香台の前に立った裕也は、手が震えていた。


 煙が細く昇る。

 裕也が目を閉じて、唇を噛んだ。


 心の声が聞こえる。


(あいつ昔から無理するくせに弱音吐かないんだよ)


 ……裕也。


(高校のときもそうだった。文化祭で体調崩してんのに準備サボれなくて、裏で吐いてた。俺が見つけたとき「ちょっと食べ過ぎただけ」って笑ってやがった)


 ああ、そんなこともあったっけ。


(中学のときもそうだ。部活の先輩にいびられてんのに「大丈夫、慣れた」って。慣れるようなことじゃねえだろ)


 ……覚えてるんだ、そんなことまで。


(社会人になってからも、たまに飯誘うと「今月ちょっと忙しくて」って。ちょっとじゃねえだろ。顔見りゃわかんだよ。目の下真っ黒で、笑い方がおかしくなってて)


(去年の暮れに会ったとき、やっと飯に来たと思ったら、あいつ箸持つ手が震えてた。気づいてないふりしたけど、俺は見てた)


 知らなかった。

 裕也がそんなふうに見ていたなんて。


(なんで言わなかったんだよ。俺に言えよ。しんどいなら、しんどいって——)


(先月、LINEで「久しぶりに飯行こうぜ」って送った。既読ついたのに返事来なくて。催促するのもなんだから待ってたら——次に来た連絡がこれだ)


 ……ごめん、裕也。

 あのLINE、見たんだよ。返そうと思ってたんだよ。

 でも「今週末は寝たい」が勝って、「来週返そう」って——来週は、来なかった。


 裕也の目から涙がこぼれた。

 拭わなかった。

 そのまま、ぼろぼろ落ちるに任せていた。


(化けて出てきたら絶対「ごめん遅くなった」とか言うんだろうな、あいつ)


 ——思わず、笑ってしまった。


 声は出ない。

 誰にも聞こえない。

 でも確かに、私は笑った。

 幽霊になって初めて笑った。温かい笑いだった。


 ああ、よく知ってるな。

 たぶん言う。

 化けて出たら、きっとそう言う。

 ごめん遅くなった、って。渋滞しちゃって、って。


(ばーか。早すぎんだよ)


 裕也が顔をくしゃくしゃにして泣いている。

 大の男が、人目も気にせず、子どもみたいに泣いている。


 ——ああ、そうか。

 私、死んだんだ。


 さっきから何度も思っていたはずなのに、裕也が泣いているのを見て、初めてそれが本当のことだとわかった。


 田所さんの間違いだらけの弔辞でも、真奈のデスクの話でもなく。

 裕也の涙で、やっとわかった。


 こんなに泣いてくれる人がいるのに。

 私は、もうここにいないのだ。


 裕也が席に戻る。

 途中で一度振り返って、棺のほうを見た。

 赤く腫れた目で、何かを言いかけて——言わなかった。


 裕也。ありがとう。

 ずっと近くにいてくれて、ありがとう。


 *


 母さんが、棺の横に座っていた。


 ずっとそこにいたのに、私は今まで目を向けられなかった。

 見たくなかったのかもしれない。

 見たら、たぶん壊れると思った。


 母さんは、小さかった。

 こんなに小さかっただろうか。

 黒い喪服が大きく見えるほど、肩が細くて、背中が丸まっていて。


 母さんの心の声は——。


(あの子……)


 断片的だった。


(電話、もっと……)


 言葉にならない。


(ごはん、ちゃんと……)


 完全な文章にならないのだ。

 上司の心の声は会議の時間まではっきり聞こえた。同期のデスクへの執着も、裕也の思い出話も。

 なのに母さんの思考は、壊れた信号みたいに途切れ途切れで。

 言いたいことがありすぎて、どれも最後まで形にならない。言葉が感情の重さに耐えられず、途中でへし折れてしまう。


(あの子が……小さいとき……)


 何かを思い出そうとして、そのたびに感情に飲み込まれる。


(手が……冷たく……)


 母さんが棺の中に手を伸ばした。

 私の——遺体の手に、そっと触れた。

 その瞬間、母さんの心の声が途切れた。

 しばらく、何も聞こえなかった。


 ただ、唇が微かに動いていた。

 声にもならない、言葉にもならない何か。


(……おかえり、って……もう……言えない……)


 感情が、言語を超えてしまっている。


 母さんの手が、棺の縁を握っていた。

 白くなるほど、強く。

 その指には見覚えがあった。

 子どもの頃、熱を出した夜におでこに当ててくれた手。

 高校の入学式で、恥ずかしいからやめてって言ったのに制服の襟を直してきた手。


 同じ手だ。

 あの頃より、少しだけ皺が増えた手。


 私はその手に自分の手を重ねた。

 すり抜ける。

 当たり前だ。触れられるわけがない。


(あの子、最後に帰ってきたの……お正月……。あのとき、もっと……)


 お母さん、ごめん。

 ごめんね。

 もっと電話すればよかった。

 ごはん、ちゃんと食べてなかった。

 お正月に帰ったとき、母さんが作ってくれた煮物、「おいしい」って言えたっけ。

 言ったっけ。覚えてない。


 ——届かない。


 何を言っても、もう届かない。

 母さんの小さな背中が、じっと棺の横に座っている。

 私はその隣に立って、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 *


 母さんが席に戻ったあと、しばらく時間が流れた。


 知らない親戚のおじさん、会社の人事部の人、一度だけ飲み会で話した営業の女性。

 いろんな人が焼香を済ませていく。


 心の声はそれぞれだった。

 本気で悲しんでいる人。義理で来ている人。私のことをほとんど知らない人。

 誰が悪いわけでもない。人の死との距離感なんて、人それぞれだ。


 もうそろそろ終わりかな、と思ったとき——。


 列の最後のほうに、ひとり、見覚えのある人がいた。


 柏木くんだ。


 別部署の後輩。私より三つ下。

 給湯室やエレベーターでたまに会う程度の関係。

 無口寄りの真面目な男の子。


 ……男の子って歳でもないか。もう二十代後半だ。


 柏木くんが焼香台に向かう。

 目が真っ赤だった。


 彼の心の声を聞こうとした。


 ——聞こえない。


 聞こえないのだ。


 上司も、同期も、裕也も、母さんも。

 断片的なものも含めて、全員の心の声が聞こえた。

 なのに、柏木くんだけが——何も聞こえない。


 母さんの心の声は、壊れながらも言葉だった。伝えたいことが多すぎて砕けた言葉だった。

 でも柏木くんは違う。

 思考そのものが止まっている。

 悲しみが言葉になる手前で、全部溺れている。

 何ひとつ浮かんでこない。静寂。ただの静寂。


 別部署の先輩が死んだだけなのに。

 給湯室で少し話す程度の関係だったのに。

 私たちの間にあったのは「お疲れ様です」と「これ余ったから」くらいだったのに。


 どうしてそんなに泣いているの。


 わからない。

 わからなくて、胸がざわついた。

 今までの参列者とは違う何かが、柏木くんにはあった。


 焼香を終えた柏木くんが、棺の前に進み出た。

 しばらく、ただ立っていた。

 唇を引き結んで、何かを堪えるように顎を引いて。


 それから、スーツのポケットから何かを取り出した。


 小さな、四角い紙。

 ——お菓子の包装紙だった。


 きれいに折られている。

 角がぴったり揃うように、丁寧に、丁寧に折り畳まれた包装紙。


 柏木くんがそれを、そっと棺の中に入れた。

 花の隙間に、そっと差し込むように。

 他の誰にも見えないように。


 他の人たちは花を入れたり、手紙を入れたりしていた。

 裕也は手紙を書いてきたみたいだった。母さんは、いつも使っていたハンカチを入れていた。

 なのに柏木くんは——お菓子の包装紙を。


 たった一枚の、お菓子の包装紙を。


 なんで。


 わからない。心の声が聞こえないから、理由がわからない。

 聞きたいのに。今すぐ聞きたいのに。


 手が震えていた。

 包装紙を置いたあと、その手で棺の縁を一瞬だけ握って、すぐに離した。


 まるで、触れてはいけないものに触れてしまったみたいに。


 *


 柏木くんは、まだ棺の前から動かなかった。

 私も、動けなかった。


 包装紙が、そこにある。

 きれいに折られた、小さな四角い紙。


 私は、その包装紙に手を伸ばした。


 理屈はわからない。

 ただ、包装紙から何かが滲み出しているのが視えた。

 強い念のようなもの。母さんが棺の縁を握ったときにも、同じものがかすかに滲んでいた。

 あのときは怖くて目を逸らした。

 他人の想いを覗くのは、たぶん、もう戻れないことを意味するから。


 指先を包装紙にかざした瞬間、視界が弾けた。


 ——給湯室。


 見慣れた景色だ。

 でも、視点が違う。

 これは、私の目線じゃない。


 給湯室のテーブルに、お菓子が置かれている。

 コンビニで売ってる、ちょっといいチョコレート。


 扉が開いて、女の人が入ってくる。

 ——私だ。


 疲れた顔をしている。

 でも、お菓子を見つけて少し笑った。


『これ余ったから、よかったらどうぞ』


 私はそう言って、隣にいた柏木くんにチョコレートをひとつ差し出した。


 覚えてる。

 たしかにそういうことがあった。

 特別なことじゃない。給湯室で顔を合わせたとき、お菓子をあげた。それだけ。


 でも——柏木くんの視点で見たその場面は、私が覚えているものとは全然違った。


 私が給湯室を出ていく。

 柏木くんの目が、閉まるドアを追いかける。

 それから視線を手元に落として——チョコレートの包装紙を、捨てずに、きれいに折った。

 角を揃えて、もう一度折って。

 それをポケットに入れた。


 場面が変わる。


 オフィスの引き出し。

 柏木くんの席だ。

 書類の下、引き出しの奥に、折り畳まれた包装紙が並んでいる。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ——。


 なんで。

 ただの包装紙だ。ゴミだ。普通は捨てる。


 増えていく。

 四つ。五つ。六つ。


 捨てられなかったのだ。

 この人は、私がなんとなく手渡したものを、一つも捨てられなかったのだ。


 場面が変わる。

 エレベーター。


 私と柏木くんが乗り合わせている。

 他に誰もいない。

 私は——疲れた顔をしていた。目の下にクマがあって、肌も荒れている。

 壁にもたれて、小さくため息をついた。


「お疲れ様です」


 柏木くんがそう言った。

 それだけ。


 それしか言えなかった。


 柏木くんの心の中が流れ込んでくる。


(大丈夫ですか、と言いたかった)


(顔色悪いですよ、と言いたかった)


(少し休んでください、と——)


 何も言えなかった。

 別部署の後輩が、先輩に向かって「帰ってください」なんて言えるわけがない。

「お疲れ様です」の五文字だけが、柏木くんの精一杯だった。


 エレベーターが目的階に着く。

 私が先に降りる。

 振り返らない。


 柏木くんは、閉まっていくドアの隙間から私の背中を見ていた。

 肩が下がっている。足取りが重い。


(……帰ってください、先輩)


 その言葉は、エレベーターの中に置き去りにされた。


 場面が変わる。

 また引き出し。

 包装紙がまた一枚増えている。


 場面が変わる。

 廊下。柏木くんが書類を抱えて歩いている。

 向こうから私が来る。

 すれ違いざま、私が軽く会釈した。

 柏木くんも会釈を返す。

 それだけ。

 たった二秒。


 でも柏木くんは、すれ違ったあと立ち止まった。

 振り返ろうとして、やめた。

 また歩き出した。


 また変わる。

 給湯室。私がいない。

 柏木くんが、誰もいないテーブルの前でマグカップを持ったまま立っている。

 湯気が昇る。

 誰も来ない。


 また変わる。

 また変わる。


 引き出しの中の包装紙が、もう十枚を超えていた。


 ——そこに、私自身の記憶が混じり始めた。


 給湯室に行く。

 柏木くんがいない。


(あれ、今日あの子いないな)


 無意識に、探していた。


 コンビニで、棚の前に立つ。

 いつものチョコレートに手を伸ばして——止まる。


(あ、これ柏木くんの好きなやつだ。こっちにしよう)


 ……え。


 生きていたときの私が、コンビニの棚の前で一瞬だけ微笑んでいた。

 疲れ切った顔に浮かんだ、ほんの小さな笑み。

 あのとき、私の胸は少しだけ温かかったはずだ。

 でも、その温度に気づく暇がなかった。

 次の瞬間にはもうスマホを見て、未読メールの数を数えていた。


 エレベーターで一緒になる。

 柏木くんが小さく会釈する。

 今日は目の下のクマがない。


(今日は顔色いいな、よかった)


 生きていた私は、その安堵の正体を考えなかった。

 考える余裕がなかった。

「気になる」の手前で、いつも仕事が割り込んできた。


 記憶が加速する。


 金曜日の夕方。残業中。

 給湯室に行くと、柏木くんが先にいた。

 目が合う。柏木くんが少し慌てた顔をする。


『あ、すみません、もう出ます』


『いいよいいよ、気にしないで』


 私はそう言って、柏木くんの向かいに座った。

 別に話すこともない。

 ただ、同じ空間にいるのが、なんとなく嫌じゃなかった。


 ……嫌じゃなかった?


 それを「好き」と呼ぶことを、私は知らなかった。

 いや、知っていたけど、知らないふりをしていた。

 忙しいから。それどころじゃないから。先輩だから。


 記憶の奔流が止まらない。


 柏木くんの引き出しの包装紙。

 私の無意識の視線。

「お疲れ様です」しか言えなかった後輩と、「これ余ったから」しか言えなかった先輩。


 ——両片想いだった。


 お互いに気づかないまま。

 言わないまま。

「忙しいから」で蓋をして、「立場が違うから」で目を逸らして。

 すぐそこにいたのに、手を伸ばさなかった。

 伸ばせなかった。


 包装紙から手を離した。

 視界が戻る。


 葬儀会場。

 棺の中の包装紙。

 きれいに折られた、柏木くんの気持ち。


「……ずるいよ、それ今知るの」


 声が震えた。

 誰にも聞こえない声が。


 泣いていた。

 さっきまでツッコミを入れていた私は、もういなかった。

 上司の弔辞に文句を言っていた私は、もうどこにもいなかった。


 知りたくなかった。

 いや、違う。

 もっと早く知りたかった。

 生きているうちに知りたかった。


 あの引き出しを見たかった。

 きれいに折られた包装紙が十枚以上並んでいるのを、生きている目で見たかった。


 柏木くんが棺の前で立ち尽くしている。

 心の声は、やっぱり聞こえない。

 言葉になれないほどの感情が、彼の中で渦を巻いているのだ。


 ねえ、柏木くん。

 私もね、あなたのこと、少し気になってたんだよ。

 給湯室であなたがいると、なんとなく嬉しかったんだよ。

 お菓子を「余ったから」って渡してたけど、本当は余ってなかったんだよ。

 あなたにあげるために買ってたの。自分でも気づいてなかったけど。


 少しじゃないかも。

 たぶん、少しじゃなかった。


 でも、もう遅い。

 どうしようもなく、取り返しがつかないくらい、遅い。


 *


 柏木くんが、ゆっくりと顔を上げた。


 袖で乱暴に涙を拭って、深く息を吸った。

 吐いた息が震えていた。

 もう一度、深く吸って、今度はゆっくり吐いた。


 そして——棺に、小さく頭を下げた。


「……お疲れ様でした」


 ——でした。

「です」じゃなくて、「でした」。

 もう「お疲れ様です」と現在形で言われることは、永遠にない。


 最後まで、その六文字だった。


 柏木くんが踵を返す。

 一歩、二歩。

 途中で足が止まった。


 振り返りかけて——振り返らなかった。


 さっき見た記憶の中の廊下と同じだった。

 振り返ろうとして、やめる。いつもそうだった。

 あと一歩が踏み出せない人。


 柏木くんの背中が、会場の扉の向こうに消えていった。

 まっすぐな背中だった。

 少しだけ、肩が震えていた。


 ——あ。


 自分の手を見た。

 さっきより、透けている。


 足元から、少しずつ薄くなっていく。


 ああ、そっか。

 そういうことか。

 葬式が終わりに近づいている。私も、終わりに近づいている。


 会場を見渡す。

 田所さんはもういない。たぶん会議に行った。

 真奈はまだいる。プリン、ちゃんと買いなよ。

 裕也は目を腫らしたまま、母さんの隣に座っている。

 時々、母さんの背中をさすっている。

 母さんは、ただ静かに花を見ている。


 みんな、ありがとう。


 膝が透けた。

 腰が薄れた。

 花の匂いが遠くなる。読経の声が、水の底みたいにくぐもっていく。


 棺の中の包装紙が見えた。

 きれいに折られた、小さな四角。


 ——まあ、悪くない人生だったかも。


 少し笑おうとして、やめた。


 嘘だ。

 嘘に決まってる。


「……嘘。もうちょっと生きたかったな」


 透けていく手を伸ばした。

 棺の中の包装紙に。

 きれいに折られた、あの小さな四角に。


 指が、すり抜けた。


 当たり前だ。

 最初からわかっていた。幽霊は、生者に触れられない。

 でも、棺の中の包装紙にも——もう、触れられなくなっていた。


 裕也の誘いに「行く」って言いたかった。

 母さんに「ただいま」って言いたかった。

 柏木くんに「余ったから」じゃなくて、「あなたにあげたくて買ったんだよ」って言いたかった。


 もうちょっとだけ。

 もうちょっとだけでよかったのに。


 胸から光が薄れていく。

 指先がもう見えない。


 最後に見えたのは、窓だった。

 カーテンの隙間から差し込む、三月の陽の光。


 窓の外は、馬鹿みたいによく晴れていた。

死んでから気づく切ない恋愛を書いてみました。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

生きているうちに届けたかった言葉、ありませんか。

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