死んでから届いた、あなたの心の声
目が覚めたら、棺桶の中だった。
三日連続の徹夜明け、会社からの帰り道で意識が途切れた——らしい。
らしい、というのは、正直よく覚えていないからだ。
気がついたら白い天井が見えて、なんだか妙に窮屈で、周りに花の匂いがして。
……いや待って、これ棺桶じゃない?
慌てて起き上がった。
というか、すり抜けた。
体が棺桶の蓋を通過して、私はふわりと宙に浮いた。
自分の手を見る。
向こう側が透けている。
(あー……死んだのか、私)
驚くほど冷静だった。
たぶん、どこかでわかっていたんだと思う。
限界だったことくらい、自分が一番知っていた。
見慣れた顔がちらほら並んでいる。
黒い服。白い花。読経の声。
祭壇には私の写真が飾ってあった。
社員証の写真を引き伸ばしたらしい。目が半開きだ。
(もうちょっとマシな写真なかったの……?)
いくら独身の一人暮らしでも、スマホの中にはもう少しましな自撮りくらいあっただろうに。
私の葬式だ。
しかも、あんまり盛大じゃない。
*
最初に立ち上がったのは、部長の田所さんだった。
黒いネクタイを締めて、咳払いをひとつ。
A4の紙を広げて、弔辞を読み始める。
「故・藤宮彩乃さんは、我が社の宝でした」
紙を持つ手がまっすぐで、声も落ち着いている。
知らない人が見たら、さぞ部下思いの上司に見えるだろう。
でも——田所さんの心の声が、はっきりと聞こえた。
(早く終わらないかな。十四時から会議なんだよな。資料まだ確認してないし)
……おい。
「彼女は誰よりも仕事を愛し、常に笑顔で——」
(この弔辞、総務の山下に書かせたんだけど、長すぎるな。半分に削れって言ったのに)
自分で書いてすらいない。
「趣味はガーデニングで、休日には花を育てることを楽しみにしていたと聞いています」
(あれ、ガーデニングだっけ。釣りだっけ。まあいいか)
どっちも違う。
私の趣味は深夜アニメの一気見だ。
ガーデニングなんてやったことない。
植物は枯らす側の人間だ。
「好きな食べ物はお寿司で——」
焼肉だよ。
「——入社当初から笑顔を絶やさず——」
(笑顔……? あの子笑ってたっけ。まあいいや、故人を悪くは言えないしな)
入社当初なんて毎日泣きそうな顔してたよ。
覚えてないのはいいけど、捏造しないでほしい。
「——社内のムードメーカーとして——」
私は基本無口だよ。
「——皆に愛された、かけがえのない存在でした」
(よし、三分で収まったな。上出来だ)
達成感に満ちた心の声とともに、田所さんが紙を畳む。
(あとは焼香して、十三時半には出れば間に合うか)
(……しかし、三十二か。若いな)
——一瞬だけ、田所さんの心の声が小さくなった。
(俺も去年、健診で引っかかったんだよな。まあいいか。今日は会議だ)
私のこと何も知らないじゃん。
六年同じフロアにいて、何ひとつ合ってない。
でも、田所さんなりに、一瞬だけ立ち止まりはしたのだ。
一瞬だけ。それが、あの人の精一杯なんだろう。
*
次に目についたのは、同期の真奈だった。
ハンカチで顔を覆って、肩を震わせている。
一見すると、号泣。
隣の人がそっとティッシュを差し出すくらいには、それらしく見えている。
でも、心の声は——。
(窓際のデスク空くよね)
泣いてない。
(あそこ日当たりいいんだよな。冬は暖かいし、夏は観葉植物がよく育つし)
いや観葉植物の心配してる場合じゃないでしょ。
(総務に異動願い出そうかな。いや、でも直属の上司に言いにくいし……。あ、弔慰金っていくらだろ)
真奈がちらっとハンカチの隙間から会場を見た。
目が全然赤くない。
(あ、花がきれい。あとで種類聞こ。……あ、誰に聞けばいいんだろ。葬儀屋さん?)
自由か。
(ていうか藤宮さんの私物、誰が片付けるんだろ。あの引き出しの中のお菓子、まだ賞味期限大丈夫かな)
一周回って清々しい。
これはこれで、真奈らしい。
(ていうか私の葬式、平日なんだ。休み取ってくれたんだ)
……そこは素直にありがたいと思った。
(有給使ったの痛いな。来月の旅行の前に使いたくなかったんだけど)
前言撤回。
人の死に対する温度差って、こういうものなのかもしれない。
別に悪い子じゃない。ただ、私と真奈の関係はそのくらいだった。
デスクが隣で、たまにお菓子を分け合って、飲み会では隣に座る程度の「同期」。
深い話をしたことは一度もない。
——でも、私だって、真奈のことどのくらい知ってた?
来月の旅行が誰と行くのかも知らない。考えたこともなかった。
お互い様だ。
(帰りにコンビニでプリン買おう。あ、焼きプリンにしよ)
焼きかどうかはどうでもいいだろ。
*
ざわめきが少し静かになった。
焼香の列に、見覚えのある背中が並ぶ。
——裕也だ。
幼馴染の裕也。
小学校から大学まで、腐れ縁みたいにずっと近くにいた男。
就職先が離れてからは会う頻度が減ったけど、年に数回は「飯行こうぜ」とLINEが来る。
来ていた。
焼香台の前に立った裕也は、手が震えていた。
煙が細く昇る。
裕也が目を閉じて、唇を噛んだ。
心の声が聞こえる。
(あいつ昔から無理するくせに弱音吐かないんだよ)
……裕也。
(高校のときもそうだった。文化祭で体調崩してんのに準備サボれなくて、裏で吐いてた。俺が見つけたとき「ちょっと食べ過ぎただけ」って笑ってやがった)
ああ、そんなこともあったっけ。
(中学のときもそうだ。部活の先輩にいびられてんのに「大丈夫、慣れた」って。慣れるようなことじゃねえだろ)
……覚えてるんだ、そんなことまで。
(社会人になってからも、たまに飯誘うと「今月ちょっと忙しくて」って。ちょっとじゃねえだろ。顔見りゃわかんだよ。目の下真っ黒で、笑い方がおかしくなってて)
(去年の暮れに会ったとき、やっと飯に来たと思ったら、あいつ箸持つ手が震えてた。気づいてないふりしたけど、俺は見てた)
知らなかった。
裕也がそんなふうに見ていたなんて。
(なんで言わなかったんだよ。俺に言えよ。しんどいなら、しんどいって——)
(先月、LINEで「久しぶりに飯行こうぜ」って送った。既読ついたのに返事来なくて。催促するのもなんだから待ってたら——次に来た連絡がこれだ)
……ごめん、裕也。
あのLINE、見たんだよ。返そうと思ってたんだよ。
でも「今週末は寝たい」が勝って、「来週返そう」って——来週は、来なかった。
裕也の目から涙がこぼれた。
拭わなかった。
そのまま、ぼろぼろ落ちるに任せていた。
(化けて出てきたら絶対「ごめん遅くなった」とか言うんだろうな、あいつ)
——思わず、笑ってしまった。
声は出ない。
誰にも聞こえない。
でも確かに、私は笑った。
幽霊になって初めて笑った。温かい笑いだった。
ああ、よく知ってるな。
たぶん言う。
化けて出たら、きっとそう言う。
ごめん遅くなった、って。渋滞しちゃって、って。
(ばーか。早すぎんだよ)
裕也が顔をくしゃくしゃにして泣いている。
大の男が、人目も気にせず、子どもみたいに泣いている。
——ああ、そうか。
私、死んだんだ。
さっきから何度も思っていたはずなのに、裕也が泣いているのを見て、初めてそれが本当のことだとわかった。
田所さんの間違いだらけの弔辞でも、真奈のデスクの話でもなく。
裕也の涙で、やっとわかった。
こんなに泣いてくれる人がいるのに。
私は、もうここにいないのだ。
裕也が席に戻る。
途中で一度振り返って、棺のほうを見た。
赤く腫れた目で、何かを言いかけて——言わなかった。
裕也。ありがとう。
ずっと近くにいてくれて、ありがとう。
*
母さんが、棺の横に座っていた。
ずっとそこにいたのに、私は今まで目を向けられなかった。
見たくなかったのかもしれない。
見たら、たぶん壊れると思った。
母さんは、小さかった。
こんなに小さかっただろうか。
黒い喪服が大きく見えるほど、肩が細くて、背中が丸まっていて。
母さんの心の声は——。
(あの子……)
断片的だった。
(電話、もっと……)
言葉にならない。
(ごはん、ちゃんと……)
完全な文章にならないのだ。
上司の心の声は会議の時間まではっきり聞こえた。同期のデスクへの執着も、裕也の思い出話も。
なのに母さんの思考は、壊れた信号みたいに途切れ途切れで。
言いたいことがありすぎて、どれも最後まで形にならない。言葉が感情の重さに耐えられず、途中でへし折れてしまう。
(あの子が……小さいとき……)
何かを思い出そうとして、そのたびに感情に飲み込まれる。
(手が……冷たく……)
母さんが棺の中に手を伸ばした。
私の——遺体の手に、そっと触れた。
その瞬間、母さんの心の声が途切れた。
しばらく、何も聞こえなかった。
ただ、唇が微かに動いていた。
声にもならない、言葉にもならない何か。
(……おかえり、って……もう……言えない……)
感情が、言語を超えてしまっている。
母さんの手が、棺の縁を握っていた。
白くなるほど、強く。
その指には見覚えがあった。
子どもの頃、熱を出した夜におでこに当ててくれた手。
高校の入学式で、恥ずかしいからやめてって言ったのに制服の襟を直してきた手。
同じ手だ。
あの頃より、少しだけ皺が増えた手。
私はその手に自分の手を重ねた。
すり抜ける。
当たり前だ。触れられるわけがない。
(あの子、最後に帰ってきたの……お正月……。あのとき、もっと……)
お母さん、ごめん。
ごめんね。
もっと電話すればよかった。
ごはん、ちゃんと食べてなかった。
お正月に帰ったとき、母さんが作ってくれた煮物、「おいしい」って言えたっけ。
言ったっけ。覚えてない。
——届かない。
何を言っても、もう届かない。
母さんの小さな背中が、じっと棺の横に座っている。
私はその隣に立って、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
母さんが席に戻ったあと、しばらく時間が流れた。
知らない親戚のおじさん、会社の人事部の人、一度だけ飲み会で話した営業の女性。
いろんな人が焼香を済ませていく。
心の声はそれぞれだった。
本気で悲しんでいる人。義理で来ている人。私のことをほとんど知らない人。
誰が悪いわけでもない。人の死との距離感なんて、人それぞれだ。
もうそろそろ終わりかな、と思ったとき——。
列の最後のほうに、ひとり、見覚えのある人がいた。
柏木くんだ。
別部署の後輩。私より三つ下。
給湯室やエレベーターでたまに会う程度の関係。
無口寄りの真面目な男の子。
……男の子って歳でもないか。もう二十代後半だ。
柏木くんが焼香台に向かう。
目が真っ赤だった。
彼の心の声を聞こうとした。
——聞こえない。
聞こえないのだ。
上司も、同期も、裕也も、母さんも。
断片的なものも含めて、全員の心の声が聞こえた。
なのに、柏木くんだけが——何も聞こえない。
母さんの心の声は、壊れながらも言葉だった。伝えたいことが多すぎて砕けた言葉だった。
でも柏木くんは違う。
思考そのものが止まっている。
悲しみが言葉になる手前で、全部溺れている。
何ひとつ浮かんでこない。静寂。ただの静寂。
別部署の先輩が死んだだけなのに。
給湯室で少し話す程度の関係だったのに。
私たちの間にあったのは「お疲れ様です」と「これ余ったから」くらいだったのに。
どうしてそんなに泣いているの。
わからない。
わからなくて、胸がざわついた。
今までの参列者とは違う何かが、柏木くんにはあった。
焼香を終えた柏木くんが、棺の前に進み出た。
しばらく、ただ立っていた。
唇を引き結んで、何かを堪えるように顎を引いて。
それから、スーツのポケットから何かを取り出した。
小さな、四角い紙。
——お菓子の包装紙だった。
きれいに折られている。
角がぴったり揃うように、丁寧に、丁寧に折り畳まれた包装紙。
柏木くんがそれを、そっと棺の中に入れた。
花の隙間に、そっと差し込むように。
他の誰にも見えないように。
他の人たちは花を入れたり、手紙を入れたりしていた。
裕也は手紙を書いてきたみたいだった。母さんは、いつも使っていたハンカチを入れていた。
なのに柏木くんは——お菓子の包装紙を。
たった一枚の、お菓子の包装紙を。
なんで。
わからない。心の声が聞こえないから、理由がわからない。
聞きたいのに。今すぐ聞きたいのに。
手が震えていた。
包装紙を置いたあと、その手で棺の縁を一瞬だけ握って、すぐに離した。
まるで、触れてはいけないものに触れてしまったみたいに。
*
柏木くんは、まだ棺の前から動かなかった。
私も、動けなかった。
包装紙が、そこにある。
きれいに折られた、小さな四角い紙。
私は、その包装紙に手を伸ばした。
理屈はわからない。
ただ、包装紙から何かが滲み出しているのが視えた。
強い念のようなもの。母さんが棺の縁を握ったときにも、同じものがかすかに滲んでいた。
あのときは怖くて目を逸らした。
他人の想いを覗くのは、たぶん、もう戻れないことを意味するから。
指先を包装紙にかざした瞬間、視界が弾けた。
——給湯室。
見慣れた景色だ。
でも、視点が違う。
これは、私の目線じゃない。
給湯室のテーブルに、お菓子が置かれている。
コンビニで売ってる、ちょっといいチョコレート。
扉が開いて、女の人が入ってくる。
——私だ。
疲れた顔をしている。
でも、お菓子を見つけて少し笑った。
『これ余ったから、よかったらどうぞ』
私はそう言って、隣にいた柏木くんにチョコレートをひとつ差し出した。
覚えてる。
たしかにそういうことがあった。
特別なことじゃない。給湯室で顔を合わせたとき、お菓子をあげた。それだけ。
でも——柏木くんの視点で見たその場面は、私が覚えているものとは全然違った。
私が給湯室を出ていく。
柏木くんの目が、閉まるドアを追いかける。
それから視線を手元に落として——チョコレートの包装紙を、捨てずに、きれいに折った。
角を揃えて、もう一度折って。
それをポケットに入れた。
場面が変わる。
オフィスの引き出し。
柏木くんの席だ。
書類の下、引き出しの奥に、折り畳まれた包装紙が並んでいる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ——。
なんで。
ただの包装紙だ。ゴミだ。普通は捨てる。
増えていく。
四つ。五つ。六つ。
捨てられなかったのだ。
この人は、私がなんとなく手渡したものを、一つも捨てられなかったのだ。
場面が変わる。
エレベーター。
私と柏木くんが乗り合わせている。
他に誰もいない。
私は——疲れた顔をしていた。目の下にクマがあって、肌も荒れている。
壁にもたれて、小さくため息をついた。
「お疲れ様です」
柏木くんがそう言った。
それだけ。
それしか言えなかった。
柏木くんの心の中が流れ込んでくる。
(大丈夫ですか、と言いたかった)
(顔色悪いですよ、と言いたかった)
(少し休んでください、と——)
何も言えなかった。
別部署の後輩が、先輩に向かって「帰ってください」なんて言えるわけがない。
「お疲れ様です」の五文字だけが、柏木くんの精一杯だった。
エレベーターが目的階に着く。
私が先に降りる。
振り返らない。
柏木くんは、閉まっていくドアの隙間から私の背中を見ていた。
肩が下がっている。足取りが重い。
(……帰ってください、先輩)
その言葉は、エレベーターの中に置き去りにされた。
場面が変わる。
また引き出し。
包装紙がまた一枚増えている。
場面が変わる。
廊下。柏木くんが書類を抱えて歩いている。
向こうから私が来る。
すれ違いざま、私が軽く会釈した。
柏木くんも会釈を返す。
それだけ。
たった二秒。
でも柏木くんは、すれ違ったあと立ち止まった。
振り返ろうとして、やめた。
また歩き出した。
また変わる。
給湯室。私がいない。
柏木くんが、誰もいないテーブルの前でマグカップを持ったまま立っている。
湯気が昇る。
誰も来ない。
また変わる。
また変わる。
引き出しの中の包装紙が、もう十枚を超えていた。
——そこに、私自身の記憶が混じり始めた。
給湯室に行く。
柏木くんがいない。
(あれ、今日あの子いないな)
無意識に、探していた。
コンビニで、棚の前に立つ。
いつものチョコレートに手を伸ばして——止まる。
(あ、これ柏木くんの好きなやつだ。こっちにしよう)
……え。
生きていたときの私が、コンビニの棚の前で一瞬だけ微笑んでいた。
疲れ切った顔に浮かんだ、ほんの小さな笑み。
あのとき、私の胸は少しだけ温かかったはずだ。
でも、その温度に気づく暇がなかった。
次の瞬間にはもうスマホを見て、未読メールの数を数えていた。
エレベーターで一緒になる。
柏木くんが小さく会釈する。
今日は目の下のクマがない。
(今日は顔色いいな、よかった)
生きていた私は、その安堵の正体を考えなかった。
考える余裕がなかった。
「気になる」の手前で、いつも仕事が割り込んできた。
記憶が加速する。
金曜日の夕方。残業中。
給湯室に行くと、柏木くんが先にいた。
目が合う。柏木くんが少し慌てた顔をする。
『あ、すみません、もう出ます』
『いいよいいよ、気にしないで』
私はそう言って、柏木くんの向かいに座った。
別に話すこともない。
ただ、同じ空間にいるのが、なんとなく嫌じゃなかった。
……嫌じゃなかった?
それを「好き」と呼ぶことを、私は知らなかった。
いや、知っていたけど、知らないふりをしていた。
忙しいから。それどころじゃないから。先輩だから。
記憶の奔流が止まらない。
柏木くんの引き出しの包装紙。
私の無意識の視線。
「お疲れ様です」しか言えなかった後輩と、「これ余ったから」しか言えなかった先輩。
——両片想いだった。
お互いに気づかないまま。
言わないまま。
「忙しいから」で蓋をして、「立場が違うから」で目を逸らして。
すぐそこにいたのに、手を伸ばさなかった。
伸ばせなかった。
包装紙から手を離した。
視界が戻る。
葬儀会場。
棺の中の包装紙。
きれいに折られた、柏木くんの気持ち。
「……ずるいよ、それ今知るの」
声が震えた。
誰にも聞こえない声が。
泣いていた。
さっきまでツッコミを入れていた私は、もういなかった。
上司の弔辞に文句を言っていた私は、もうどこにもいなかった。
知りたくなかった。
いや、違う。
もっと早く知りたかった。
生きているうちに知りたかった。
あの引き出しを見たかった。
きれいに折られた包装紙が十枚以上並んでいるのを、生きている目で見たかった。
柏木くんが棺の前で立ち尽くしている。
心の声は、やっぱり聞こえない。
言葉になれないほどの感情が、彼の中で渦を巻いているのだ。
ねえ、柏木くん。
私もね、あなたのこと、少し気になってたんだよ。
給湯室であなたがいると、なんとなく嬉しかったんだよ。
お菓子を「余ったから」って渡してたけど、本当は余ってなかったんだよ。
あなたにあげるために買ってたの。自分でも気づいてなかったけど。
少しじゃないかも。
たぶん、少しじゃなかった。
でも、もう遅い。
どうしようもなく、取り返しがつかないくらい、遅い。
*
柏木くんが、ゆっくりと顔を上げた。
袖で乱暴に涙を拭って、深く息を吸った。
吐いた息が震えていた。
もう一度、深く吸って、今度はゆっくり吐いた。
そして——棺に、小さく頭を下げた。
「……お疲れ様でした」
——でした。
「です」じゃなくて、「でした」。
もう「お疲れ様です」と現在形で言われることは、永遠にない。
最後まで、その六文字だった。
柏木くんが踵を返す。
一歩、二歩。
途中で足が止まった。
振り返りかけて——振り返らなかった。
さっき見た記憶の中の廊下と同じだった。
振り返ろうとして、やめる。いつもそうだった。
あと一歩が踏み出せない人。
柏木くんの背中が、会場の扉の向こうに消えていった。
まっすぐな背中だった。
少しだけ、肩が震えていた。
——あ。
自分の手を見た。
さっきより、透けている。
足元から、少しずつ薄くなっていく。
ああ、そっか。
そういうことか。
葬式が終わりに近づいている。私も、終わりに近づいている。
会場を見渡す。
田所さんはもういない。たぶん会議に行った。
真奈はまだいる。プリン、ちゃんと買いなよ。
裕也は目を腫らしたまま、母さんの隣に座っている。
時々、母さんの背中をさすっている。
母さんは、ただ静かに花を見ている。
みんな、ありがとう。
膝が透けた。
腰が薄れた。
花の匂いが遠くなる。読経の声が、水の底みたいにくぐもっていく。
棺の中の包装紙が見えた。
きれいに折られた、小さな四角。
——まあ、悪くない人生だったかも。
少し笑おうとして、やめた。
嘘だ。
嘘に決まってる。
「……嘘。もうちょっと生きたかったな」
透けていく手を伸ばした。
棺の中の包装紙に。
きれいに折られた、あの小さな四角に。
指が、すり抜けた。
当たり前だ。
最初からわかっていた。幽霊は、生者に触れられない。
でも、棺の中の包装紙にも——もう、触れられなくなっていた。
裕也の誘いに「行く」って言いたかった。
母さんに「ただいま」って言いたかった。
柏木くんに「余ったから」じゃなくて、「あなたにあげたくて買ったんだよ」って言いたかった。
もうちょっとだけ。
もうちょっとだけでよかったのに。
胸から光が薄れていく。
指先がもう見えない。
最後に見えたのは、窓だった。
カーテンの隙間から差し込む、三月の陽の光。
窓の外は、馬鹿みたいによく晴れていた。
死んでから気づく切ない恋愛を書いてみました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
生きているうちに届けたかった言葉、ありませんか。
もしこの話が心に残りましたら、評価・ブックマークをいただけると嬉しいです。




