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雨上がりの恋

掲載日:2026/02/03

第一話 霧の駅と、運命の出会い


 大正十二年、春。  帝都・東京の空は、朝から薄い霧に包まれていた。


 希空のあは、古びた革の鞄を胸に抱きしめながら、上野駅のホームに立っていた。吐く息はまだ白く、指先はかじかんでいる。


「……ここが、東京……」


 ぽつりと呟いた声は、蒸気機関車の汽笛にかき消された。


 希空は地方の小さな町で育った。父を早くに亡くし、母と二人で細々と暮らしてきたが、母も病に倒れ、昨年他界した。


 残された希空にできることは、知り合いを頼って帝都に出ることだけだった。


 ――女学校を出ただけの私に、何ができるんだろう。


 不安は胸に渦巻いていたが、立ち止まるわけにはいかなかった。


 ホームを歩き出したそのときだった。


「きゃっ……!」


 誰かと肩がぶつかり、希空はよろめいた。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて顔を上げると、そこには気品のある少女が立っていた。


 艶やかな黒髪を結い上げ、淡い藤色の着物を身にまとった少女。  まるで絵葉書から抜け出してきたような存在だった。


「こちらこそ……大丈夫?」


 やわらかな声で問いかけてくる。


「は、はい……」


 思わず見惚れてしまい、希空は返事が遅れた。


「あなた、初めて東京に来たの?」


 少女は微笑みながら言った。


「え……どうして……?」


「顔に書いてあるわ。少し、不安そうだから」


 そう言って、くすりと笑う。


「私は美空みそら。よろしくね」


「……希空です」


 二人は軽く頭を下げ合った。


 そのとき、美空の後ろから、落ち着いた声が響いた。


「美空、あまり人を困らせるな」


 振り返ると、背の高い青年が立っていた。


 きちんと整えられた髪、仕立ての良い洋装。知的で涼しげな眼差しが印象的だった。


直義なおよし兄さま、だってこの子、迷子みたいだったんだもの」


「……失礼。私は直義です」


 丁寧に一礼され、希空は慌てて頭を下げ返した。


「い、いえ……こちらこそ……」


 その様子を見て、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 ――きっと、お金持ちのお家の人たちなんだ。


 直感的に、そう感じた。


「希空さんは、どこへ行く予定なの?」


 美空に尋ねられ、希空は鞄から一枚の紙を取り出した。


「牛込……この辺りだって聞いて……」


 直義は地図を覗き込み、少し考える。


「ちょうど私たちも近くまで行く。案内しよう」


「えっ……で、でも……」


「遠慮しないで」


 美空は希空の手を取った。


 そのぬくもりに、胸がじんわりと温かくなる。


 こうして三人は、同じ汽車に乗り込んだ。


 車内は木の香りが漂い、揺れに合わせてきしむ音がする。


 窓の外には、急速に近代化していく東京の街並みが流れていった。


「希空さんは、お仕事を探しに来たの?」


「……はい。住み込みで働けるところを……」


 そう答えると、美空の表情が少し曇った。


「……大変だったのね」


 何も聞かずにそう言ってくれたことが、ありがたかった。


 しばらくして、汽車は牛込駅に到着した。


「ここよ」


 美空が指差す。


 駅を出ると、石畳の道と洋館、古い町屋が入り混じる独特の景色が広がっていた。


「私たちは、この近くの屋敷に住んでいるの」


 美空はそう言い、少し誇らしげに胸を張った。


「……華族の家なの」


 その言葉に、希空は息をのんだ。


 ――やっぱり。


 別世界の人たちだ。


「希空さん」


 直義が静かに呼びかけた。


「もし困ったことがあったら、ここへ来なさい」


 名刺代わりの紙片を差し出す。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げたとき、不思議と胸が高鳴っていることに気づいた。


 この出会いが、自分の運命を変えるかもしれない――


 そんな予感が、確かにあった。


 霧の向こうで、新しい人生の幕が、静かに開こうとしていた。



第二話 華族の屋敷と、揺れる心


 牛込の路地裏を抜け、希空は一人、紹介された下宿先へと向かっていた。


 古い長屋の一角にあるその家は、決して立派とは言えなかったが、雨風をしのげるだけでもありがたい場所だった。


「……今日から、ここで生きていくんだ」


 小さく息を吐き、戸を開ける。


 畳の匂いと、かすかな線香の香りが混じった空気が広がっていた。


 女将に簡単な説明を受け、六畳一間の部屋へ案内される。


 古びた机と布団だけの、質素な部屋。


 けれど、希空にとっては十分すぎるほどだった。


 荷物を置き、窓を開けると、遠くに立派な屋敷の屋根が見えた。


 ――あれが、美空さんたちの家……。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 同じ町に住んでいても、自分とはまるで違う世界の人。


 そう思うと、少しだけ寂しかった。


 翌朝。


 希空は早く目を覚まし、紹介された呉服店へ向かった。


 住み込みの見習いとして働かせてもらうことになっていたのだ。


「今日から来た、希空です。よろしくお願いします」


 深く頭を下げると、店主は穏やかにうなずいた。


「真面目そうだね。無理せず、少しずつ覚えなさい」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 久しぶりに向けられた、優しい大人の眼差しだった。


 午前中は掃除や品出しに追われ、気づけば昼になっていた。


 裏口で簡単な弁当を広げていると、外から聞き慣れた声がした。


「……希空さん?」


 顔を上げると、美空が立っていた。


 今日は淡い水色の着物に身を包み、昨日よりもさらに華やかに見える。


「み、美空さん……!」


 思わず立ち上がる。


「ここで働いてるって、兄さまから聞いたの」


 そう言って、にこりと笑った。


「よかった……ちゃんと居場所、見つけたのね」


 その一言に、希空は言葉を失った。


 心配してくれていたのだ。


「……はい。おかげさまで」


 美空は弁当を覗き込み、少し眉を下げた。


「そんな少しで足りるの?」


「だ、大丈夫です」


 慌てて答えると、美空は小さくため息をついた。


「遠慮しすぎよ」


 そう言いながら、包みを差し出す。


「屋敷の料理人が作ったの。よかったら一緒に食べましょ」


 包みを開くと、色とりどりの煮物や焼き魚が並んでいた。


「……こんなの、いただけません」


「友達でしょ?」


 さらりと言われ、胸がどきりと跳ねる。


「……とも、だち……」


 その言葉を噛みしめるように、希空はうなずいた。


 二人で並んで食べながら、たわいない話を交わす。


 その時間は、夢のように穏やかだった。


「ねえ、希空さん」


 ふいに、美空が真剣な表情になる。


「今度、屋敷に遊びに来ない?」


「え……?」


「兄さまも、きっと喜ぶわ」


 直義の名前を聞き、なぜか胸がざわついた。


「わ、私なんかが……」


「いいの」


 美空は強くうなずく。


「私は、あなたともっと仲良くなりたい」


 まっすぐな瞳に見つめられ、希空は逃げ場を失った。


「……はい」


 小さく、しかし確かに答える。


 その帰り道。


 遠くに見える華族の屋敷を眺めながら、希空は思った。


 ――近づいてはいけない場所なのに。


 それでも、心はすでに引き寄せられていた。


 運命の歯車は、静かに、しかし確実に回り始めていたのだった。




第三話 招かれた屋敷と、近づく距離


 約束の日は、思ったよりも早くやってきた。


 呉服店での仕事を終え、希空は鏡の前で何度も身なりを確認していた。


 洗い立ての紺色の着物。派手さはないが、今の自分にできる精一杯だった。


「……大丈夫、大丈夫……」


 そう言い聞かせながら、屋敷へ向かう。


 石塀に囲まれた広大な敷地。重厚な門構えに、思わず足がすくんだ。


 ――やっぱり、場違いかもしれない。


 引き返そうとした、そのとき。


「希空さん!」


 門の内側から、美空が駆け寄ってきた。


「待ってたわ」


 淡い桃色の着物に身を包んだ姿は、まるで花のようだった。


「ご、ごめんなさい。遅くなって……」


「いいのよ。さあ、入って」


 手を引かれ、屋敷の中へ案内される。


 広い庭には手入れされた松や梅が並び、静かな池には鯉が泳いでいた。


「……すごい……」


 思わずこぼれた声に、美空は誇らしげに笑う。


「でしょう?」


 屋敷の縁側に上がると、そこには直義が立っていた。


「いらっしゃい、希空さん」


 穏やかな声で迎えられ、胸がどきりと跳ねる。


 今日は濃紺の羽織に袴姿で、昨日までとは違う大人びた雰囲気だった。


「お、お邪魔します……」


 深く頭を下げると、直義は小さく微笑んだ。


「そんなに緊張しなくていい」


 三人は座敷へ通され、茶と菓子が並べられた。


 上品な器に盛られた羊羹を前に、希空は手を出せずにいた。


「遠慮しないで」


 直義がそっと言う。


「……いただきます」


 一口食べると、優しい甘さが広がった。


「おいしい……」


 その素直な反応に、美空が嬉しそうに笑う。


「でしょ?ここの職人さん、すごいの」


 しばらく談笑したあと、美空は女中に呼ばれ席を外した。


 二人きりになり、空気が少し変わる。


「……仕事は、順調?」


 直義が尋ねた。


「はい。まだ失敗ばかりですけど……」


「それでも、続けているのは立派だ」


 真剣な眼差しに、胸が熱くなる。


「希空さんは……強い人だね」


「え……?」


「一人で東京に来て、生きていこうとしている」


 その言葉は、初めて誰かに認められた気がして、心に深く染みた。


「……そんなこと、初めて言われました」


 思わず、本音がこぼれる。


 直義は少し驚いたあと、やさしく微笑んだ。


「私は、本心で言っている」


 視線が絡み、希空は慌てて目を伏せた。


 そのとき、美空が戻ってきた。


「何話してたの?」


「内緒だよ」


 直義が冗談めかして答えると、美空はむっと頬を膨らませた。


「ずるい」


 三人で笑い合うその光景は、まるで家族のようだった。


 帰り際、直義は門まで見送ってくれた。


「……また、来てくれる?」


 低い声で、そっと尋ねられる。


「……はい」


 即答している自分に、希空は驚いた。


 門を出て振り返ると、直義はまだこちらを見ていた。


 その視線が、なぜか胸から離れない。


 ――私、この人のこと……。


 言葉にならない想いが、静かに芽生え始めていた。




第四話 噂と婚約者の影


 屋敷を訪ねてから数日後。


 希空は、仕事の合間もどこか落ち着かない日々を過ごしていた。


 布を畳みながらも、ふとすると直義の声や視線を思い出してしまう。


「……何してるんだろ、私」


 小さく首を振り、気を引き締めた。


 そんなある日の昼下がり。


 店先で反物を整理していると、近くの店の女中たちの話し声が聞こえてきた。


「ねえ、知ってる? 牛込の華族の家のご長男」


「直義様のこと?」


「そうそう。そろそろ縁談が決まるらしいわよ」


 希空の手が、ぴたりと止まった。


「相手は、名家のお嬢様なんですって」


「お似合いよねぇ」


 楽しげな声が、胸に突き刺さる。


 ――縁談……婚約……。


 聞こえないふりをして作業を続けながらも、心は乱れていた。


 その日の帰り道。


 偶然、美空と鉢合わせた。


「あ、希空さん!」


 今日は洋装姿で、いつもより大人びて見える。


「お買い物?」


「ええ。兄さまの用事でね」


 少しだけ、言葉を濁したように感じた。


 並んで歩きながら、希空は迷った末、意を決して口を開いた。


「……あの、美空さん」


「なあに?」


「直義さんって……その……」


 言葉に詰まる。


 美空は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言った。


「……兄さま、縁談の話が来ているの」


 やはり、噂は本当だった。


「華族同士の、大切な話だから」


「……そう、なんですね」


 笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。


「ごめんね、希空さん」


 美空は申し訳なさそうに言う。


「私、本当は……兄さまが、誰と結ばれるのか、少し怖い」


「……え?」


「だって、変わっちゃいそうで」


 その言葉に、希空も同じ不安を抱いていることに気づいた。


 別れ際、美空はそっと手を握ってくれた。


「……また、遊びに来てね」


「はい」


 しかし、その声はどこか弱々しかった。


 その夜。


 屋敷の書斎で、直義は父と向かい合っていた。


「例の縁談だが……先方も前向きだ」


 重々しい声が響く。


「お前も、そろそろ覚悟を決める年だ」


「……承知しています」


 そう答えながらも、直義の胸は重かった。


 脳裏に浮かぶのは、素朴な笑顔の少女。


 ――希空さん……。


「だが、迷いがあるなら言いなさい」


 父の鋭い視線に、直義は一瞬、言葉を失う。


「……いえ。家のために、最善を尽くします」


 それが、華族として生まれた自分の役目。


 そう、何度も言い聞かせてきた。


 書斎を出たあと、直義は夜の庭に立ち尽くした。


 冷たい風が、頬をかすめる。


「……私は、何を守りたいんだろうな」


 誰にも聞こえない声で、つぶやいた。


 一方、下宿の一室で。


 希空は布団にくるまりながら、天井を見つめていた。


 胸の奥が、ちくりと痛む。


 ――最初から、届かない人だったのに。


 それでも、想いは簡単には消えてくれなかった。


 運命は、静かに二人を引き離そうとしていた。



第五話 抑えきれない想い


 縁談の噂を聞いてから、希空は意識的に屋敷へ近づかないようにしていた。


 仕事に没頭し、余計なことを考えないようにする。


 それが、自分にできる唯一の防衛だった。


「……集中、集中……」


 呉服店の奥で反物を畳みながら、何度もそう言い聞かせる。


 けれど、心は思うように従ってくれなかった。


 直義の穏やかな声。  まっすぐな眼差し。  あの日、屋敷で向けられた優しい微笑み。


 思い出すたび、胸が締めつけられる。


 ――忘れなきゃ。


 そう思うほど、想いは強くなっていった。


 その頃、屋敷では。


 直義もまた、落ち着かない日々を過ごしていた。


「……また、ため息ですか」


 書斎で帳簿を見ていた牛込が、呆れたように言う。


「無意識ですよ、直義様」


「……そうか」


 自覚はあった。


 仕事をしていても、ふとすると希空の姿が浮かぶ。


 最近、顔を見ていないことが、妙に気にかかっていた。


「最近、希空さん……来ていないな」


 ぽつりと漏らすと、牛込は意味ありげに眉を上げた。


「避けられているのでは?」


「……なに?」


「噂、耳にしているでしょう。縁談の件」


 その言葉に、直義は言葉を失った。


「彼女なりに、距離を取っているのかもしれません」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 ――避けられている……?


 そんなはずはない。


 けれど、思い当たる節はあった。


 あの日以来、希空から連絡はない。


「……会いに行く」


 直義は立ち上がった。


「今から?」


「今だからだ」


 牛込は小さくため息をついた。


「……覚悟はおありですか」


「わからない。ただ……放っておけない」


 それが、本音だった。


 夕暮れ時。


 直義は呉服店の前に立っていた。


 格子戸の向こうで、希空が忙しく働いている姿が見える。


 声をかけるべきか、迷った末――


「……希空さん」


 静かに呼びかけた。


 希空ははっとして振り返る。


「……直義さん?」


 思わず息をのむ。


 こんな場所で会うなんて、思ってもいなかった。


「突然、すまない」


「い、いえ……」


 ぎこちない空気が流れる。


「……少し、話せるか」


 店主の許しを得て、二人は裏口へ出た。


 夕焼けに染まる路地は、どこか切なげだった。


「……最近、避けられている気がして」


 直義は、いきなり核心を突いた。


「え……?」


「私が、何かしたのなら……」


「ち、違います!」


 希空は慌てて否定した。


「ただ……私の立場で、これ以上近づくのは……」


 言葉が途切れる。


 直義は、静かに見つめた。


「縁談のことか」


 図星だった。


 希空は俯き、小さくうなずく。


「……噂ですよね。私なんかが、気にすることじゃ……」


「違う」


 直義は、強い口調で遮った。


「気にしてほしい」


「……え?」


 思わず顔を上げる。


 直義の瞳は、揺れていた。


「私は……あの話を、受け入れるつもりはない」


 希空は、息を忘れた。


「……なぜなら」


 一歩、距離が縮まる。


「私には、想っている人がいる」


 鼓動が、耳鳴りのように響く。


「……それは……」


「君だ」


 はっきりと告げられた言葉に、世界が止まった。


「わ、私……?」


「そうだ」


 直義は、迷いを振り払うように言った。


「気づいたら、目で追っていた。声を聞きたくなっていた」


「距離を置かれたと思ったら……耐えられなくなった」


 それは、理性を超えた告白だった。


「……私は、華族だ。責任も、義務もある」


「それでも……君を失う方が、怖い」


 希空の目に、涙がにじむ。


「……ずるいです」


 震える声で、そう言った。


「そんなこと言われたら……諦められないじゃないですか」


 直義は、苦しそうに笑った。


「私もだ」


「諦め方が、わからない」


 二人の距離は、もう指一本分もなかった。


 思わず、直義が手を伸ばす。


 希空の手首を、そっとつかんだ。


「……離したくない」


 衝動だった。


 理性は、もう役に立たなかった。


「直義さん……」


 希空の声は、かすれていた。


 そのとき、遠くから呼ぶ声がした。


「兄さま?」


 美空だった。


 二人は、はっとして離れる。


 美空は、少し離れた場所から、二人を見つめていた。


「……お邪魔、だった?」


 その声は、どこか寂しげだった。


 三人の間に、言葉にならない沈黙が落ちる。


 夕焼けは、すでに夜へと変わり始めていた。


 恋と義務と友情が、複雑に絡み合い始めた瞬間だった。


第六話 揺れる三人の距離


 あの夕暮れの出来事から、数日が過ぎていた。


 希空は、以前にも増して仕事に没頭していた。


 余計なことを考えないため。  心を守るため。


 けれど、直義の告白と、美空の寂しげな視線が、何度も脳裏によみがえる。


「……どうすればよかったんだろう」


 独りごちても、答えは出なかった。


 一方、屋敷では。


 美空が珍しく部屋にこもりきりになっていた。


「お嬢様、お茶をお持ちしました」


 女中の声にも、生返事しか返さない。


 膝に抱えた人形を、ぎゅっと抱きしめながら、美空は唇を噛んだ。


 ――見てしまった。


 兄と希空が、あんなに近くで見つめ合っているところを。


 胸の奥が、ずきりと痛む。


「……私だって……」


 呟きは、誰にも届かなかった。


 数日後。


 美空は意を決して、呉服店を訪れた。


「希空さん……いる?」


 控えめな声に、希空ははっと顔を上げる。


「美空さん……?」


 久しぶりの再会だった。


「……少し、話せる?」


 二人は裏庭へ移動した。


 春の陽射しが、やわらかに降り注いでいる。


「……あの日のこと」


 美空は、まっすぐに切り出した。


「私、見てた」


 希空の胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……ごめんなさい」


 反射的に謝っていた。


「違うの」


 美空は首を振った。


「責めたいわけじゃない」


 少し震える声で、続ける。


「ただ……知りたかった」


「兄さまのこと……どう思ってるの?」


 逃げ場のない質問だった。


「……大切な人です」


 希空は、正直に答えた。


「でも……それ以上に、踏み込んじゃいけない人だとも思っています」


 美空は、その言葉をじっと噛みしめた。


「……そっか」


 小さく笑う。


「ねえ、希空さん」


「私、兄さまのこと……昔から大好きなの」


 妹として。  それ以上に。


 曖昧な感情が、その一言に滲んでいた。


「だから……取られたくないって、思っちゃった」


 涙が、ぽろりと落ちる。


「……ごめんなさい」


 希空は、そっと美空の手を握った。


「誰も、悪くないです」


「……私も、迷っています」


 二人は、しばらく黙り込んだ。


 そのとき。


「……ここにいたのか」


 低い声が響いた。


 振り返ると、直義が立っていた。


「兄さま……」


 美空の声が揺れる。


「二人とも、避けているだろう」


 直義は、真剣な表情だった。


「……これ以上、曖昧なままにできない」


 希空の胸が高鳴る。


「私は……」


 一歩、前に出る。


「希空さんを、想っている」


 はっきりとした宣言だった。


 美空の目が、大きく見開かれる。


「兄さま……」


「だが……美空も、大切だ」


 声が、かすかに震えた。


「二人を傷つけたくない」


 しかし、その言葉は残酷だった。


 どちらも選ばないという選択は、どちらも苦しめる。


「……そんなの」


 美空が、初めて声を荒らげた。


「ずるいよ……!」


「私たちに、決断を押しつけないで!」


 涙をこぼしながら、叫ぶ。


「……ごめん」


 直義は、深く頭を下げた。


 希空は、その姿を見つめながら、静かに口を開いた。


「……私、少し距離を置きます」


「希空さん……?」


「このままじゃ、誰も幸せになれない」


 震えながらも、はっきりと言う。


「だから……一度、離れます」


 直義の顔が、苦痛に歪んだ。


「……待ってくれ」


「ごめんなさい」


 希空は、深く頭を下げ、その場を後にした。


 残された兄妹は、言葉を失って立ち尽くす。


 春風が、三人の間をすり抜けていった。


 それぞれの想いは、交わらぬまま、すれ違い始めていた。




第七話 婚約者候補、降臨


 その知らせは、あまりにも唐突だった。


「……直義様に、正式な縁談が?」


 昼下がりの喫茶店で、希空は手にしていたカップを思わず強く握りしめた。


 向かいに座る美空は、困ったように視線を伏せながら、小さく頷く。


「うん……華族の名家かららしくて。しかも、もう両家で話が進んでるって……」


 耳鳴りがした。


 店内に流れる蓄音機の音も、人々の話し声も、すべてが遠くに感じられる。


 ――やっぱり。


 どこかで、そうなるだろうと思っていた。


 直義は華族の家に生まれた人間だ。  いずれは、身分の釣り合った相手と結ばれる運命にある。


 自分のような平民の娘が、隣に立てるはずもない。


「希空……大丈夫?」


「……うん。平気」


 そう答えながら、胸の奥はずたずたに引き裂かれていた。


 大丈夫なはずがない。


 ここまで積み重ねてきた想いが、一瞬で踏みにじられた気分だった。


 ◇◇◇


 一方、直義は父の書斎に呼び出されていた。


「直義。先日の話だが……本格的に進めることにした」


「……先日?」


「ミリア・ノア嬢との縁談だ」


 淡々と告げられた言葉に、直義は息を呑んだ。


「そんな……まだ何も決めていないはずです」


「相手は由緒ある華族だ。これ以上、迷う理由はない」


 机越しに向けられる父の視線は、厳しく、揺るがない。


「私は……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 ――希空の顔が浮かんだ。


 あの微笑みも、泣きそうな瞳も。


「私は、誰かと想い合っている」


 ようやく絞り出した言葉に、父は眉をひそめた。


「……まだそんな夢物語を言うのか」


「夢じゃありません!」


 声を荒げた直義に、父は冷たく言い放つ。


「家を取るか、恋を取るかだ。覚悟を決めろ」


 ◇◇◇


 数日後。


 直義の屋敷で、正式な顔合わせの席が設けられた。


 その場に、希空も招かれていた。


「……私が行く意味、あるのかな」


 玄関先で小さく呟くと、美空がそっと手を握る。


「希空……逃げないで。ちゃんと見届けよう」


 重たい気持ちのまま、広間へ足を踏み入れる。


 そこにいたのは、息をのむほど美しい少女だった。


 白磁のような肌。  整った顔立ち。  気品ある佇まい。


「初めまして。ミリア・ノアと申します」


 柔らかく微笑むその姿は、まさに“理想の華族令嬢”だった。


 ――勝てるわけがない。


 希空は、そう直感してしまった。


「こちらが、直義様……」


 ミリアは静かに直義へ視線を向ける。


「お噂はかねがね伺っております」


「あ……ああ、こちらこそ」


 ぎこちなく答える直義。


 その様子に、希空の胸が締めつけられる。


 自分の知らない場所で、彼の人生が決められていく。


 その現実が、残酷だった。


 ◇◇◇


 顔合わせの後、庭園でひと息つく時間が設けられた。


 希空は一人、池のほとりに立っていた。


「……希空」


 背後から、直義の声がする。


「直義……様」


 わざと距離を作るように呼ぶと、彼は苦しそうに眉を顰めた。






















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